兄・春苑惟人の帰国

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 惟人が日本を発つ日は晴天だった。  西の方では梅雨入りしたそうだが、東京の空はいまだカラッとしている。  空港まで見送りに付いてきた紬は、 「お兄ちゃん」と別れ際にこう話した。 「ネイリストも霊鎮めも、好きでやってるよ。今回は言い過ぎちゃったけど、私がやってることに、お兄ちゃんが家を出たのは関係なくて。私は世界を回って絵を描くお兄ちゃんのこと、好き」  惟人は眼鏡の奥で数回まばたきすると、少し決まりの悪そうに笑った。 「俺の方こそ、口が過ぎて、ごめんな」  そう言って、彼は自分の爪を眺めた。  さすがにネイルはできなかったが、紬が「せめて」と言って、ファイリング――やすりがけをしたのだ。  見た目もいいが、惟人にとっては何よりも、妹と触れ合う時間が心地よかった。  オルゴールの『オー・ソレ・(私の太陽)ミオ』は、兄妹の耳に変わらない愛情の調べを届けた。  惟人は控えめにその手を伸ばした。妹の頭を短い間だけ撫で、 「本当、俺が言えることじゃないけど。応援してるよ、どちらの仕事も」  と言い置きして、保安検査場に向かう。  途中で振り返った彼は、紬だけでなく六花の手の振りにも、喜んで応えるように手を掲げた。  ――兄の後ろ姿が消えると、六花が言った。 「チベットにあれを届けたら、次はどこに行くって?」 「コスタリカだって」 「それってどこにあるの」 「調べたら、中央アメリカだったよ。二つの大陸をちょうど繋いでいるところ」  紬が空に地図を描くと、六花は感心するように声を裏返らせた。 「本当に世界中を回るなぁ」 「だから、って言っていいのかな。お兄ちゃんのデザインって、バリエーションに富んでるよね。多彩で、私からすると斬新」  紬は手にしていたスケッチブックを、ぱらぱらとめくってみせた。  惟人の置き土産。  各ページには彼が滞在中に考案した、ネイルデザインの数々がスケッチされている。  ――所詮、素人の手遊びだ。本職じゃないからネイルパーツは知らないし、再現できるかもわからない。  兄はそうは言ったけれど、そこそこ現実に叶いそうだし、何よりとても魅力的だ。  ネイルの世界を知ってくれていることが伝わってきて、紬はその点も嬉しかった。  一緒にスケッチブックを見下ろしていた秋が、ふと紬に問いかけた。 「惟人さんって、普段はどんな絵を描いているんですか?」 「うーん。それが、見せてくれたことないんだよね」  紬が答えると、横で耀が皮肉めかして言った。 「紬でもそうなら、俺らが見るときは遺作の説明書きが付いてるかもな」 「……そういうこと言うから嫌われたんじゃないの?」 「……ああ」  今思い至ったというように、耀の顔に納得の色が浮かんだ。 「納得しないで。そういう意地悪な言い方、直してよね」  射抜くような眼差しで、紬は耀を見る。 「好きな人たちは、仲良い方がいいもの」  彼女はそれきり口を開かず、目を逸らそうともしなかったので、耀はしぶしぶながら、 「直すよ」とそう言った。  帰り道、初夏の青いキャンバスには飛行機の筆跡がひと振り、白く気持ちよく描かれていた。
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