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「こういう言い方して縛るつもりはないんだけど、秋が残ってくれて嬉しいな」
閉店後の片付けをしながら、紬はあらためて胸中を打ち明けた。
「秋って、おじいちゃんのことは名前で呼ぶけど、私のことは『お嬢』じゃない? 気になって調べたら、お嬢って誰かの娘さんに使う呼称なのよね。それでいて、一和くんのことは最初から一和殿って呼んでいたから、ちょっと不安というか、気になっちゃって」
紬に切なそうに瞳を向けられ、秋ははっとした。
「いえ、それは違うのです」
秋は困惑した様子で、二人の呼び方に関して次のように弁明した。
まず第一に、紬のことを名前で呼ぶのは憚られる。
一度苗字で呼ぶことも考えたが、それだと名津彦と紛らわしいし、同じ家で苗字はどこかよそよそしい。
片倉の場合は他人行儀でもいいのだが、それで呼ぶと一和だけでなく当初の持ち主の顔まで浮かぶ。
だから、お嬢と一和殿。こういう呼び方に収まったのです――ということだった。
「女性を名前の方で呼ぶのは、自分にとっては気恥ずかしくて」
「今時、お嬢の方が恥ずかしいだろ」
耀の突っ込みに、秋以外の全員がうなずいた。
「秋の気が乗らないならいいんだけど、私も名前で呼ばれてみたいな、なんて」
「……努力します。お嬢、ではなく……つ、紬、殿」
「……ありがとう。最初から、無理しなくていいからね」
紅潮し口元を隠す初心な青年に、見ている紬の方が恥ずかしくなった。
んん、と耀が体を伸ばして言った。
「紬の憂いが晴れたならさっさと帰るぞ。騒動も一段落したし、今夜は外食でよくないか」
今日の夕食当番は紬だ。
嬉しい提案だったので、彼女は今回の立て役者に話を振った。
「秋。何が食べたい?」
「――紬殿の好きな物……では駄目ですか。ええと、そうですね、自分はほうれん草のおひたしを希望します」
「慎ましい……逆にどこで食べよう……」
小声で呟くと、早速六花がスマートフォンに指を滑らせ始めた。
『ほうれん草のおひたし』では検索していないはずだが、その日の外食では無事に同品が出て、ついでに耀と紬はお酒を飲んだ。
耀から分けてもらった日本酒で、微醺を帯びて紬は帰宅し、眠りについた。
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