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つくも堂・二つの顔
指の先に光を灯すこと。花を咲かせること、綺麗な模様を描くこと。それらのすべてが、春苑紬の幸せだった。
太陽と月がゆるやかに入れ代わり、夜が訪れた。
春の月は朧である。周囲に溶けかかった月の輪は淡く、日が暮れてもなお、柔らかな陽気にまどろむように浮かんでいる。
対して東京の地は冴えて、煌々としていた。
夜天さえ照らす光の寄り合いは、人々の生活の頼りであり、営みの証。それと現代では洒落っ気も加わって。
その店を出た人の指先は、点灯を終えた街の電飾に輝いていた。
「ありがとうございました」
「お疲れ様でした」
女性を見送るために外へ出た紬は、店の扉を後ろ手に閉めて言った。
「楽しんできてくださいね」
そう声をかけると女性は元気にうなずいて、
「はい。天気予報はまだ晴れなので! 行ってきます」
と紬に向かって手の甲を振ってみせる。あえての裏返し。指先に付いたネイルがますますきらめき、紬はにっこりと笑った。
本日最後のオーダーの『夜桜』。先ほど紬が施術したそれは、落ち着いた紺色をカラーに、白い桜が華やかに咲いたデザインをしている。
今見た限りでも、きっとライトアップによく映える。
「お気を付けて。――また次の予約日に、お待ちしております」
紬がお辞儀をすると、常連客の彼女は満足そうに笑った。雑踏に入っていく足取りは軽い。
これから隅田川の夜桜を見に行くのだと、紬は施術中に彼女から聞いていた。
深夜の予報は雨だが、今からならきっと間に合う。雨雲が流れてきませんようにと、紬はそう祈りながら、自分の店舗を振り返った。
ネイルサロン『つくも堂』。
そう掲げた看板の下には木製の玄関があって、ちょうど紬の頭がある位置に七色のステンドグラスがはまっている。
横に続く正面側の壁は透明ガラスなので、通りからは待合用のちょっとしたスペースが見える。
紬がそこを覗くと、店員の一人がロールカーテンを下ろすところだった。ガラス越しに目が合えば、彼は凛々しい眉目をそっとゆるめて、紬に慎ましく笑いかける。
紬もまた笑顔で応えると、扉の表札をクローズ側に裏返してから店内に戻った。
「今日も一日、お疲れ様でした!」
時計の針は夜の七時を指している。けして広くはない、全四席のプライベートサロン――自分の愛おしい空間を見渡しながら、紬は声を振り立てた。
二十二歳の店長の、本日の勝ち鬨。その勇ましくも健気な声に、
「お疲れ様でした」
と三つの声が重なった。
声音は三者三様だが、どれも男子の声だ。中の一つが、紬にこう続けた。
「上で着替えてくる。洋装は落ち着かない」
「まだ慣れないの?」
小首をかしげて、紬はその一店員を見やった。
名は耀という。黒髪の美しい、涼やかな見目の青年だ、外見上は。
耀は気怠そうに結い髪をほどいてから、そうだけど? と言いたげに紬に視線をやった。
鬱陶しそうに眉をしかめる美男は、すでにシャツのボタンを外し始めている。
上で着替えると言ったではないか。紬はさりげなく目を落とした。と、そこにぴょん、と少年が入ってきた。
「耀はいろんな意味で、おじいちゃんなんだよね」
可愛らしい声で、少年店員は相手をからかうように笑う。
「うるさい」
「あだっ。……あははっ」
耀に額を小突かれても、少年が痛そうなのは素振りだけだ。
少年の表情は明るく、頬にかかる白銀の髪が、重力を知らないようにふわりと浮いている。
そんな軽やかな少年――六花の笑い声を聞きながら、耀は階段を上がっていった。着慣れた和装で店の掃除に加わるのが、この男の常なのだ。
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