兄・春苑惟人の帰国

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兄・春苑惟人の帰国

 骨董仕事の代替わりに合わせて上京するという話は、耀にとっても寝耳に水だった。  もう百年以上、北東北のとある武家屋敷街に居を構えている春苑家である。  茅葺(かやぶ)き屋根の古屋敷は、耀の覚えでは名津彦より四代前の当主が人に頼られる形で買ったものだが、これが落ち着いたいいところだった。  どの当主も表の仕事をするかたわらで、夜はひっそりと、そこで霊気の仲介役に従事した。  代が移っても、世の中が流動しても春苑家の生活は変わらなかった。  転換期を迎えるきっかけとなったのは、名津彦がサラリーマンを辞めるのと同じときに、陰陽の仕事も辞めると言い出したことだった。  還暦を過ぎているとはいえ、陰陽師としては脂の乗った状態で引退を決めた名津彦。  元より仕事人間ではなかったので、耀はそれに関しては驚かなかった。  驚いたのは、その仕事を継ぐことになる、彼の孫娘の発言だった。 「魂鎮めの仕事もする。でも私、東京でネイリストの仕事もしたいの」  二月の田舎は寒い。  紬の吐いた言葉は、屋内でも白い温気を伴った。 「考えたけど、両立できると思うの。ネイリストの仕事はここにもあるけれど、私、東京がいい。東京に行きたい」 「東京……」  孫の言葉に名津彦は、視線を数秒さまよわせ、目をしばたたいた。  彼女を呼び寄せたのは骨董を置く自分の仕事部屋だったが、久しぶりに入ったか、あるいは初めてここに来たときのような仕草だった。 「駄目かな」 「いや。……いいよ」  紬はこういうとき、相手から目を逸らさない。  名津彦は今一度、愛孫の真摯な眼差しを受け止めると、その緊張をほぐしてやるように笑った。 「骨董の輸送はこちらでなんとかできるよ」 「……ありがとう、おじいちゃん!」  紬は正座のまま小さく跳び上がると、目鼻をきゅっと真ん中に寄せてから、両手を揃えて頭を下げた。  それが再び上がるのを待ってから、名津彦が言った。 「では。向こうで魂鎮めの仕事をするにも、九十九が必要だね。私はもう半分は隠居して暮らすわけだし……行ってくれるかい、三つとも」  彼は今度は慣れたように、部屋の数カ所に視線を投げかけた。  返事は間を空けずに返ってきた。 「うん。楽しそうだし、行くよ」 「名津彦殿のご命令とあらば、どこへでも」  六花も秋津丸も本体に戻ったままの状態で答えたので、耀もそのまま、屏風の中でない(・・)口を動かした。 「で? いつから行くんだ。準備もなく行くわけじゃないだろう」  物が声を発することに驚く人間はここにはいない。  紬はんー、と下唇に指を添えて、やや考える素振りをした。 「来年かなぁ。私の成人式が終わったら。で、物は相談なんだけど……三人とも、ネイリストの仕事って……興味ある?」 「よくわかんないけど、あるある」 「それが必要なのでしたら」  二つの返事に嬉しそうに笑うと、少女はそのままくるりと上体をひねって、耀の潜む壁際へと顔を向けた。  贈り物を欲するような、ねだるような目。  ふいに見つめられて、 「は? 別に悪くないが」  烏屏風は戸惑いがちに言った。 「やったぁ! ありがとう。三人ならね、上手くいきそうだなって」  ぱん、と紬は両手を合わせると、少しのぼせ気味の頬で上京の計画を語り出した。  後になって振り返ると、この娘に東京への関心があったのかという驚きと、その場のなんとなくいい雰囲気にほだされたのだ。  風の過ぎるように決まった話に、耀は流されるしかなかった。  「ねいりすと」という聞いたこともない単語が彼の頭を悩ませ始めたのは、この後すぐのことだった。
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