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「……ヒロ帰ってた……」
寝返りを打ったらしい毛布が擦れる音と、寝ぼけた声がした。
顔をあげた。
春がいて、気怠げにあくびをすると、大きく伸びをした。
「自由だな」
思わず呆れて笑った。
「ごめん、寝場所とって」
春が眠そうにしながらも素直に謝った。
それでも眠いらしく、少しぼうっとしているようだ。
「眠気覚ましに飲むか?」
春の形によれたマットレスから目をそらし、立ち上がった。
冷蔵庫にビールくらいはあっただろう。
「……未成年なんだけど?」
「ボーケ」
鼻で笑ってビールをとりだした。
そのまま春に投げると、軽くキャッチして、睨んできた。
「投げんな」
プルタブをひいて、口をつけた。
スッキリしない気分をキンと冷えた炭酸が拭い去っていく。
喉を鳴らしながら、350ml缶の半分以上を飲み干した。
深く息をついた時、春がしげしげとこっちを見ているのに気づいた。
出会ってからはほとんど同じ道を歩んできたはずなのに、澱を溜まらせた自分と違い、その昏い瞳はとても綺麗だ。
「なんだよ」
一瞬体が熱くなり、それを外に逃すように視線をそらしかけて気づいた。
「おま、まさかもう1本空けたの!?」
「喉かわいてんの」
言い訳がましい春のその手の缶ビールは2本目だ。
それもまるで水かのようにごくごく飲んでいる。
いつもの春よりハイペースすぎる。
何かあったのかと問うよりも早く、春は口を開いた。
「……ヒロ、あのさ。浅葱……あ、先生のことだけど」
ドクンと心臓が跳ねた。
「進展したんじゃん。名前で呼ぶなんてさ」
「いや、そのなんつうか、別にそういうんじゃない。ただ……オレが勝手に」
少し照れたように春は視線を揺らした。
その表情は柔らかい。
酒が入っているせいだとしても、こんな表情をするなど誰が知っていただろう。
胸の奥が針で刺されたように痛む。
そんなこっちの気持ちも知らずに、春はビールを飲み干してから小さく息をついた。
「いちおう報告」
「……振り向いてもらえたのか?」
小さく春は頷いた。
「……よかったな」
かろうじて言葉を押し出した。
そして笑おうとしたのに、できなかった。
それに春が気づかなかったことは幸いだった。
というより、むしろその表情は晴れて両想いになったという人間のものからは遠い。
不安が押し寄せた。
そういう春の表情は、あまり見たくない。
「何か問題あんの?」
「あの人、すげー真面目だから、オレが生徒なのも結婚予定のカレシとまだちゃんとしてないのも、本音以前にいろいろ考えて結局身動きとれない、みたいな感じで。オレ、自分のことけっこう冷静だと思ってたんだけど、なんかもう自制すんのスッゲーきついの」
珍しく愚痴か。
なんとなくホッとしてしまう。
「まあ向こうは社会的責任あるから、そこの温度差は仕方ねーだろ」
「でもオレばっかみたいな感じで。もう授業とかまともに受けてらんねーし」
そう言って春は自分の膝をたてると、その間に顔を埋めた。
「……そんなにお前が惚れたってことの方が驚きだよ」
「オレも自分で信じらんない。でも、オレの前で必死で先生の顔保とうとしてんのとか見てるともうなんか、いじらしいっつうか、たまんなくて」
「いっそのこと公言しちまえば?」
むしろ聞いていたくなくてテキトーなノリで言うと、春は恨めしげにこっちを見た。
そして「あー」と叫ぶと、軽く落ち着かなげに体を揺らし始めた。
だいぶ酔いが回ってきたのだろう。
「マジきつい」
「我慢するしかないんだろ。あの人のために。はじめから分かってたことだろーよ」
春はこくんと頷いた。
酒のせいか、やけに素直だ。
「分かってた。そんでも欲しい。めっちゃくちゃに抱いて、オレしか見えなくさせたい。誰の目にも触れさせないとこに連れてって、閉じこめて、オレだけのもんにしたい」
「ガキか」
本音をぶちあげた春に呆れると同時に、胸の奥がきしんだ。
春には、もう、あの人しか見えていない。
「よく分かんねーよ、なんでこんなふうに思うのか。もーすっげ悶々する。ストレスでハゲそう」
そこまでか。思わず吹き出した。
確かに今まで好きなだけ女とヤれてそれなりに性欲を発散してきた10代のケダモノ盛りにはキツいだろう。
少し、ほんの少しだけ、ざまあみろ、と思う。
「素直に言えば?」
「……できたらどんだけ楽かっつうの」
春は少し苛立ったように言葉を続けた。
「バレたらオレじゃなくてあの人に全部責任いっちゃうじゃん。オレが悪くてもなんでも、全部オトナは未成年ってだけで、はじめっから自分の勝手な思い込みで都合よく解釈すんだろ。未成年は、未成年ってだけでいろいろ制約あんし」
「まあな……」
「オレ、ホント未成年今すぐやめれんならやめたい」
そんなことを言ってもどうしようもない。
黙ってビールを飲んだ。
それを春は自分でも分かっているのだろう。
オレにぶちまける以外、自分自身との折り合いがつけられない切迫感も理解はできた。
でもオレに言ってくれるな。
そう、もうひとりの自分が叫んでいる。
「……春」
3本目に手を伸ばしていた春が酔った顔でこっちを見た。
濡れた瞳はどこか焦点があっていない。
それはひどく色気の伴う表情だった。
思わず大きく心臓が跳ねて、顔の温度があがってくるのをさりげなくキャップで隠した。
そして自分の手の中のぬるくなった残りのビールを飲み干し、2本目に手をのばした。
「お前、さ。後悔すんじゃねえの?」
「なんで」
「やっぱ先生と生徒じゃ、ハードルたけえだろ。社会人と高校生ならいくらでもあっけどさ。下手すっと、やっぱりって社会人の男の方に戻るかもしんねえじゃん?」
「……」
春が3本目を開ける音が聞こえた。
「そうかもしんない」
ポツリと春が言った。
「お前、ホント今までじゃ考えらんないくらいのめりこんでる。傷、浅いうちの方がいいってことも、考えといた方がいいんじゃね? オレは……」
3本目をまた半分、飲み干した。
さすがに一気に流し込んでいくと、血管が拡張して、心臓の音や脈打つ音が耳の奥まで届いてくるような酩酊感が湧いてくる。
「オレは、また、お前が後悔すんのを見たくない。取り返しのつかないことしたって、お前、事故の後、死のうとしたじゃん。今のお前、のめりこみハンパねえよ。その反動は、絶対返ってくる」
「……ヒロの言いたいこと、わかる。でもさ……、でもオレ、自分でもどうしようもない」
「春」
「たぶん、それはあの人も同じだと思う。なんでかわかんないけど、浅葱があの男のとこに戻るとか、もう考えらんないんだよ。普通さ、その可能性ゼロってわけじゃないのに。でも浅葱がオレに応えてくれたあの時から、オレはずっとこの人に会いたかったんだって思った。言ってること変だしキモいって自覚はあるよ。でも、……好きだって自覚する前から、たぶん、初めて渋谷で見た時から、そうなんだと思う」
「渋谷? ああ、クラブで遊んでた時?」
「いや、もっと前。あの人は気づいてないかもしれないけど、オレ、渋谷の駅のホームであの人見てる」
「いつ」
「あの人がガッコ来る前……4月、か?」
「4月」
「一瞬だけ。追いつめられた顔で、すがるようにこっち見てて、変な女と思ったけど、……忘れらんなかった。その後あの人がきて、いろいろ最悪なとこ見られたりしてたし、自分でもずっとイライラっつうかもやってたっつうか、よくわかんなくて」
春は自分の気持ちを探るように、とつとつと言葉を紡いでいた。
でもきっとそれが、春の中の真実なのだろう。
春にとって、それほどに、浅葱というあの女の存在が大きい。
それを、何度も思い知らされる。
「……わかったよ。好きにしろよ、オレが反対する理由もねえし」
キャップをとっていなくてよかったと思った。
「ごめん」
「オレに謝る意味ねえだろ」
「ヒロ」
春が改めたかのように声を少し張った。
でもろれつがあまり回っていない。
「ヒロは、さ。いつもオレのこと心配してくれる。ずっとそうだったから気づけなかったけど、そういうの、オレ、ほんと、感謝、してんの。クソ生意気なガキのオレをさ……ヒロ、ずっと、……ほんと、」
「春?」
「ほん、と、オレ……ヒロがいてくれ、て……よか」
そのまま春の言葉が切れた。
顔をあげると、春は座り込んだままの辛そうな体勢のままで眠っていた。
オレがいてくれて、良かった。
そう言うつもりだったのか。
本当は、オレがいなければ、もっと違う道を、少なくとも今よりはまともな道を歩いていけたかもしれないのに。
「……そんな一気に3本もあけっからだよ……」
ぼやきつつ、天井を仰いだ。
全身から力が抜けた。
はあ、と大きく息を吐いた。
感謝してる、など、春に言われるとは思わなかった。
少しだけ、鼻の奥がツンとした。
ああ、もう、いいかな。
そう思った。
それだけで、十分じゃないか、と。
「春、普通に寝ろよ」
立ち上がりつつ声をかけても、春は微動だにしない。
仕方なく、春のそばに膝をついて、その体を横たえた。
酒のせいで深い寝息をたてていて、春はオレの手になされるがままマットレスに横になった。
「春」
呼んでも目を覚まさない。
もう、いいよ、春。
十分だ。
酒の入った言葉でも、その言葉だけでオレには過ぎたものだ。
そっと春の頭に手を伸ばし、静かにその髪に触れ、そっと、壊れ物のように撫でた。
「……春。お前が、好きだったよ」
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