引き裂かれるのは

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途中で必要だと言われた着替えやタオル、ジュース、栄養ドリンクを買い込んでH高へと乗り付けた。 台風の迫る暴風雨のせいで交通事情は悪く、思ったより時間がかかった。 そのせいかすでに19時近い学校に人気はなく、当然のごとくほとんどの人はそうそうに帰宅したようだった。 駐車場にも職員の車は1、2台しか残っていない。 よく分からなかったが昇降口のそばまで車を回すと、春が彼女を抱きかかえていた。 春の顔は蒼白で、その両腕にお姫様抱っこされた彼女はぐったりとしていた。 傘をさして運転席から飛び出すようにして駆け寄ると、春は少しだけホッとした顔を見せた。 「ヒロ、やばい」 「いいから、車ん中!」 動揺している春を怒鳴ると、春は横面を叩かれたかのように表情を引き締め、すぐに車へと向かった。 傘をさしてやった時に見た彼女は意識が朦朧としているのか、ほとんど全身に力が入っていない様子だった。 バンの後部座席に運び、春はコンビニの袋の風邪予防の滋養強壮系ドリンクを掴んだ。 飲ませようとしても自力で彼女は飲めそうにない。 どうするのか見ていると、春は無言のまま自分の口にドリンク剤を含んだ。 そして彼女の顔を少し仰向かせると、覆いかぶさるようにして唇をあわせた。 嫌がるように眉をひそめながら、彼女は口移しで流し込まれたドリンクをなんとか飲み込んだ。 春は何度かそれを繰り返し、ドリンク剤を1本すべて飲ませると、ホットドリンクを彼女の手につかませた。 「浅葱、荷物は?」 「......あ、......」 「浅葱」 焦る声音に、彼女が呻くように「国語科、の」と応えた。 春はすぐにこっちを見て、「頼む」と言って、すぐに校舎へと引き返した。 とりあえず車を正門へと移動させると、車の揺れに、彼女がわずかに身動きした。 あたたかくしてある車内の空気やドリンクのせいか、少し落ち着いてきたらしい。 暑いくらいに暖房の温度を少しあげた。 その熱気にフロントガラスの内側が曇っていく。 少しだけキャップのつばをあげた。 春もすぐ戻るだろう。 自分も緊張していたのか、なんとなく体が強張っている。 肩を動かしてほぐし、それからハンドルに腕と顎をもたせかけた時だった。 ひっく、と小さくしゃくりあげる声が聞こえた。 泣いているのか。 泣けるなら少しは快方に向かっているのだろう。 体を起こしてバックミラーで後部座席を確認すると、彼女がタオルに顔を埋めていた。 女が、しかも春の好きな女が泣く姿などに、同情のかけらも起きないが。 「......大丈夫っすか?」 いちおう声をかけた。 無愛想になるのは、この際仕方ない。 本音としてはこの車にこの女を乗せているというだけで、おもしろくはないのだから。 「......ごめんなさい、車......」 てっきり、大丈夫とかダメとか返ってくるかと思った答えは、全く別のものだった。 思わずぽかんとした。 「濡らしてしまって」 だるそうな言葉は弱く、それでも迷惑をかけていることを詫びていると気づいた。 「まあ、......なんとでもなるし」 車が濡れたり迷惑をかけられたりなど、どうだっていい些末なことだ。 そんなことより、自分だろう。 イラッとした。 目を閉じて眠りに落ちかけているのを分かっていた。 「......あんた、バカなんですか?」 フロントガラスを滂沱として落ちていく雨を見つめながら聞いた。 「そう、......かもね。バカだと思う」 自覚しているなら、なおのこと救いようがない。 「結婚決まってんでしょ? そっち振んの?」 息を飲んだような気配がした。 振ると、はっきり口にしてほしいのか、それとも振らないと、つまり春との別れを示唆するのか、どちらを望んでいるのか自分では分からなかった。 「......そうよ」 小さく息を吐いた。 少し息をつめていたらしい。 そんな自分がバカバカしくなった。 「......そ。まあ、賛成はしないけど」 バックミラーで彼女を見ると、彼女は寒そうに震えながらもぐっと唇をかみしめていた。 この女が傷つこうがどうしようが、どうでもいい。 そう思いたかったのに、その必死で自分を支えようとする姿に春の顔がちらついた。 春が苦しむのだけは、どんなことがあっても許せない。 ならばこの女には、どんな結果が待とうと相手の男と切れて、そして春のそばにいてもらわねばならないのだろう。 春が一番望む形で。 こっちがじっと見ている視線に気づいたのか、彼女がふと目をあげた。 その静かな黒い瞳がかすかに揺れて、それからまっすぐとこっちを見返した。 「誰かに、祝福してもらおうなんて思ってない......」 鼻で笑った。 そこそこ気が強そうだ。 でも春に守られている、春の好意に甘えているだけの女なら、春に恨まれてもいい、この車から放り出してやるつもりだった。 それで入院騒ぎになろうが死のうが、こっちの知ったこっちゃない。 「......言っとくけど」 厳しい声にも彼女はオレの目から目をそらさなかった。 「裏切んなよ?」 「そんなことしない」 「裏切ったら、マジ殺すよ? そんでなくてもずっと裏切られてきてんだからさ」 半ば本気だった。 でもその言葉に、彼女がぴくっと反応した。 「どういうこと?」 問い返されて、少し言葉が過ぎたことに気づいたもののすでに遅かった。 本当は体も辛いだろうに、気丈に身を起こした彼女の姿に、黙ってもいられず仕方なく口を開いた。 「本当に、知らないの? あんた」 少しだけ、彼女が哀れになった。 春の抱えている重さを知れば、ただ甘いだけの恋愛でないことくらいすぐに分かる。 それでも春との関係を続けられるのか。 「......親が死んで、親戚に遺産もってかれたんだよ」 どういう反応をするのか見たくてバックミラーを見た。 彼女の表情は、驚愕からさっと曇り、そして......何かを押しとどめるように震えた。 「最低だわ......」 震えて掠れた声に激しい怒りが垣間見えた。 その素直さにハッと胸を突かれ、一瞬だけ何かを思い出しそうになった。 「まあ向こうにも言い分はあんだろ。でも春は中学生だったし、オトナの事情でもあったんじゃね? でもわかんねーよ、そんなことはこっちにはさ。ただ春は、自分の家族失っただけじゃなくて、親が築いた家とか家具とかも含めて全部失ってんし......」 言いながら、彼女の様子を探った。 春の置かれた状況に、自分の体のことも忘れて怒っている。 その姿に、悔しいながらも初めて、彼女を少し肯定できそうな気がした。 ならば、その片鱗は、これからもっと確かなものになって、いつかオレはこの女を認めるときがくるのだろうか。 もし認めることができる日がくるなら。 「それに」 なんとなく別のことを考えてながら口にして、ハッとした。 余計な情報を言ってしまいかねない。 「それに?」 「あー......いや、これ以上は、オレの口からはなんも言えない」 べらべらと春の内情をオレが言える立場にはない。 でも、もし、この女が本当に春が求めるほどのものに応えられる女なら。 春の身内に飼っている絶望を、この女が少しでも受け止めてくれるなら。 「......あいつの絶望は、長くつきあってても分かってあげらんねえし」 オレもミッチもマサも、当然ジュリやミツキも、無理だ。 でももし。 少しでも望みがあるなら。 こうして、オレにちょっとでも期待させるならば。 「......もし、あんたがあいつを裏切ったら、絶対許さねえから」 やってみせろ。 春を昏い底からひきあげて、その華奢な手で、守ってみせろ。 甘いガキの恋愛には興味などない。 春がきた道は、甘さだけで癒せるほどたやすいものじゃない。 言外の言葉を視線にのせて彼女を威圧するように見た。 でもその瞬間、少し息を飲んだ。 唇を横に引き結んだ彼女は、凄艶な雰囲気をかすかに纏っていた。 それは、孤高だった春にも通じる、過去を背負った者の哀しい性のような気がした。
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