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仕事の後始末を終えたタブレットを置いて大きく伸びをした。
ヘッドフォンからは今気に入っているドイツのインダストリアル系パンクバンドの音楽が流れている。
布団の上に背中から倒れ込むように寝転がり、天井を見つめた。
10畳の1Kである都心のマンションの部屋。
さして高くない天井は真っ白だったのを、黒くに塗りつぶした。
人によっては重いと感じるらしいが、自分にとっては、目が覚めた時にここが自分が1人で自由にできる部屋だと確認できるから気に入っている。
それに築年数は新しくないものの、防音性が高いのもよかった。
この部屋を、めったに人に教えたことはない。
当然、誰かをいれるということもほとんどない。
1人を除いては。
横を向いた。
コンビニの袋を下げた春が、もう片方の手で鍵をもてあそびながら靴を脱いであがってくるところだった。
「あれ、お前の知り合いだっけ?」
ヘッドフォンを外しながら体を起こした。
春が大きめのコンビニ袋を「食う?」と聞きながら突き出した。
受け取って中を覗いた。
カップ麺がいくつか入っていた。
どうやら今日も自宅に帰るつもりはないらしい。
ガッツリ豚骨系ラーメン店の味を再現したカップ麺を取り出した。
「好みなら紹介すっけど」
どうでもよさげに春は疲れたように言うと、返したコンビニ袋を覗いた。
「かわいいけど、ガキには興味ねえわ。お前こそ、あんなんと一緒歩いてたら疲れねえの?」
「別に」
春はカップ麺を準備すると、キッチンに立って湯を沸かし始めた。
濃紺のスラックスを脛までロールアップしたその後姿を見るともなしに見つめた。
昔、まだ春が中学生の頃は、詰め襟タイプの学ラン姿でキッチンに立って、湯を沸かしていたなと思う。
背が低かったせいで、キッチンの上の棚には容易に手は届かなかった。
高校生になって一気に背が伸び、制服もブレザータイプに変わった。
今は、上の棚から簡単に調味料だの皿だのを取り出せる。
「あの子、確か、お前に告ったんじゃなかったっけ?」
なんとなくその背中に聞いた。
「昔」
「でも今日の感じだと、まだ未練ありっつうか、諦めてねえんじゃん?」
「あー……まあ」
あまり触れたくない話題なのか、春は面倒そうに生返事をした。
それで合点がいった。
たぶん、セフレなんだろう。
ヤリたい時だけ都合のいい。
古い知り合いでさらにセフレとなると、相当その子の方が春にいれこんでいるのだろう。
たいていの女は見切りをつけて去っていくからだ。
哀れだと思った。
春が1人の誰かに、異性だろうと同性だろうと、いれこむなどありえない。
その子がどんなに可愛くて、例え人気の女優やモデルだとしても、春を動かすものはこの世にはない。
何に対しても、気持ちが動くことはない。
湧いた湯を2つのカップ麺に注ぐ春の、まるで精巧な人形のような顔を眺めた。
その顔に、激しい感情が浮かんだ最後は、いつだったか。
報われることなどないのに。
でも、女たちは夢を見る。
体の関係さえできれば、いつか、と。
そんなもの、目の前の春には、無意味だ。
湯を注いだカップ麺を両手にもって、春がマットレスの方にやってきた。
割り箸も添えたカップ麺を差し出され、礼を言いながら受け取った。
一緒につるむようになったはじめの頃は、こんな気遣いなど欠片もなかった。
まるで手負いの獣のように誰彼構わず吠え、突っかかって、何度自分とも殴り合いに発展したかわからない。
そのおかげで、相手の拳や蹴りを交わすことがどれだけうまくなったかと春は笑ったこともあったけれど、それ以上に春は強くなった。
出会った時、春は中学生、自分は高校生だった。
中学生と高校生では圧倒的に力の差はあったが、今や高校生と20歳を迎えた自分の間にはたいした差はなくなりつつある。
3分経ったカップ麺を開けて、箸をいれた。
混ぜても麺のかたさに手応えがある。
それはお湯の注ぐラインより下に湯を少なめにいれているからだ。
そうするのが自分の好みだと知っている。
言わなくても、自然とそうしてくれるようになったのはいつからだったろうか。
「タケもいたじゃん?」
麺をすすりながら、春がふいに口を開いた。
タケ、という名前がすぐに該当のものと結びつかず、一瞬間ができた。
「……あー……タケ、が?」
ようやく昼間一緒にいた後輩の顔が浮かんで、どうしたかと問うと、春はあっという間に汁まで飲み干した空のカップ麺をそばに置いて、軽く「ごちそうさま」と呟いた。
こういう仕草を見ると、春がちゃんとした家庭で育ったのだと、胸の奥がかすかに疼いた。
「最近、よく一緒いない?」
「ああ、金ないって泣きつくからさ。ちょっと手伝わせてる」
1ヶ月前にクラブで知り合ったばかりのタケは、19歳で春より年上だ。
でも自分のそばに普通に肩を並べる春の存在が疎ましいのか、タケは春をよくは思っていない。
あからさまに毛嫌いしている。
それをタケが隠しもしないため、春もまたタケを避けているようだった。
「大丈夫なわけ?」
「何が?」
「あいつ、頭わりぃじゃん」
ストレートな言葉に思わず苦笑した。
タケは、してはいけないことを言っても忘れてしまう。
基本的に複雑な作業も苦手で、仕事に必要な集中や忍耐ができない。
関わってしまった以上、多少は道筋つけてやるまで面倒を見るつもりだったが、少し厄介な荷物を抱えた気分になりつつあるのは確かだった。
怒鳴っても怒っても、謝罪の言葉ばかりがかえる。
「ダメなのはダメだし」
見込みはない。
春ははっきりそう言っているのだろう。
「とはいえ、手も足りねえし」
思わず愚痴りそうになって口をつぐむと、春がちらりと自分を見たのに気づいた。
「春はガッコあんじゃん」
手伝ってもらう気はない。
言外にそうばっさり切り捨てると、春は黙って立ち上がった。
カップ麺の容器を2つ拾い上げると、キッチンに向かった。
その床を踏む足音がかすかに乱暴なのは、おもしろくないせいだろう。
他の人間が見れば、いつもどおりの春にしか見えないが。
春はそのままカップ容器を捨てると、玄関から出ていった。
女のところか、クラブか。
どっちにしろ、今日はもう帰ってこないだろう。
思わず大きなため息が出た。
春が言いたいことは分かっている。
出会った頃、中学生だった春とはほとんど毎日一緒にいた。
遊ぶことも多かったが、組んで仕事をしたからだ。
お互い、てっとりばやく高額のまとまった金がほしかった。
もちろん春が中学生だったこともあり、世間に顔向けできる仕事ばかりではなかった。
でもおもしろいほど仕事を成功させ、当然、金、信用、名声、客がついてきた。
それも春の力によるところが大きい。
春は自分が知る限り、周りにいる人間の中でもずば抜けて頭がいい。
実際、何をやらせても高いレベルでこなした。
春がいるいないの差は、実際仕事においてかなり影響している。
それでも春に寄りかかるわけにはいかない。
「……オレといつまでもつるませられねえし」
離してやれと言った仕事仲間の言葉が甦った。
春は都内でも有数の進学校に籍を置いている。
東大京大、早慶といったトップクラスの有名大学への進学率も高いと聞いた。
だからこそ、いつまでも自分が周りをうろうろしているわけにはいかない。
一流の大学に行くのか、あるいは一流のビジネスを立ち上げるのか、その未来は自分にはわからない。
それでも一般的によく言うまっとうな道を歩み、誰よりも幸せになってもらわなくては。
例え、そのために自分が犠牲になろうとも。
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