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次に春を見かけたのは、六本木の路地裏だった。
知り合いがやるクラブに顔を出した後、飲み過ぎた酔いを覚まそうと少しぶらついた。
ギラついた喧騒に背を向け、人気のない薄暗い路地に入った。
薄汚れたダクトや配管がビルの裏側や側面に張り巡らされ、月明かりにところどころ光って見えた。
たまに隠れ家的な店が現れる時もあるが、さすがに深夜3時近い夜、ひっそりと灯りを落として静まっていた。
その時、鈍い音が聞こえたような気がした。
かすかに、それでも自分のような人間ならばよく耳にしているような。
体にくすぶる衝動をたやすく煽りそうな。
音が聞こえた方角に足を向け、無人のオフィスビルと2台しか停められないコインパーキングが見えた時には、すでにその音の正体は分かっていた。
呻き声。
苦しげに咳込む音。
「ねえ、自分のツラ見たことあんの?」
まだ声変わりしていない高めの声。
期待でわくわくしているような無邪気さと喜びの響き。
この前聞いたばかりのガキの声だということはすぐに分かった。
お取り込み中ならば通り過ぎるに限る。
でもそれ以上に興味があった。
「ねえ、聞いてる? おっさん」
鈍い音に咳込む音が重なった。
コインパーキングに停まる車の後ろ、古いビルの壁との間。
パーキングの光にかすかに照らされ、蠢くいくつかの人影があった。
「ねえ、あんた学校で教わんなかったの? 買春は犯罪ですってさあ」
「うわ、こいつの見ろよ。すっげえ有名な会社じゃね?」
揶揄する声の合間に呻くような低い声が重なった。
「聞こえませーん!」
相手をいたぶる哄笑が響いた。
すすり泣く声が重なった。
「どうする?」
「殺せ」
ガキの声が即答した。
わずかに沈黙が落ち、喉に何かを詰まらせたようなか細い悲鳴があがった。
同時に誰の言葉もなく鈍い音が断続的に響き始めた。
本気で殺すつもりはないのだろうと静観するつもりだったが。
「マジでうぜえんだよ。君子ぶったツラで野郎のケツ舐める豚が」
次に聞こえてきたガキの声には、温度の低い殺気しか感じられなかった。
変声期を迎えていないはずなのに。
本気だ。
コインパーキングの裏に早足で近づいた。
真っ先に足音に気づいたのは、地面に蹲るものを容赦なく蹴り上げていたガキだった。
その背格好からすれば、まるでサッカーボールを蹴って遊んでいるかのようなのに、その対象物はボールではなく、生きた人だ。
「殺したらマズイだろ」
ガキ以外に2人。
背丈はそこそこあるから、自分と同世代だろう。
「ああ?」
覚えたてのドヤ顔で脅す気なのか、意気がって見せてはいるものの、たいした相手じゃない。
「なに?」
ガキが地面で動かないものから、視線をこっちに向けた。
「あんたも殺りたい?」
冷徹な、人の温度を感じさせない視線だ。
いったい何がどうしたらそんな視線を身につけられるのか。
鳥肌がたった。
やっばりこのガキは普通じゃない。
「楽しそうだけどさあ、残念ながら、今トクショー行きにはなりたくないんだよね」
トクショー。
特別少年院。
その単語を出すと、かすかにガキの周りの2人が動揺したように見えた。
でもガキは無表情だ。
「じゃあ邪魔なんで、向こう行っててくれませんか。ヒロさん」
ガキが出した自分の名前に、他の2人が顔を見合わせてざわついた。
「と、トキ。悪りぃけどオレら……帰るわ」
「ヒロと、あ、ヒロさんとは絡むなって言われてんじゃん」
いつそんな話が出回ってるのか。
苦笑したのがどう見えたのか、ガキ以外の2人はそれまでの勢いをなくして、頭を下げ下げその場から歩き去った。
「すんません」と謝りながらだったが、いったいどちらに対してのものだったのか。
「いいオトモダチじゃん」
ストレートに皮肉を言うと、ガキは意外にも憮然とした顔になった。
ポーカーフェイスは鉄壁ではないらしい。
「なあ、そいつと何があったかは知んねえけど、リンチしたとこでなんの得にもなんねえじゃん」
「得?」
ガキが鼻で笑った。
「別にムカついただけだし」
「それで殺すって、物騒すぎねえ?」
「あんたに関係ない」
ガキはそう言うと、蹲ったままピクリとも身動きしない太り肉の背中を見下ろした。
その瞳にあるのは、やはり殺意だ。
仕立てがいいと一目で分かるスーツは血と汗、埃と泥で汚れ皺だらけだ。
おそらくこのままでは本当に死ぬだろう。
「ネンショー行ってハクでもつけたいわけ?」
「別に」と言い捨て、ガキは地面の塊を思い切り蹴り上げた。
カエルが潰れたような音が聞こえ、再び細くすすり泣く声がした。
「助けてください」と、切れ切れに言っているのも。
「ハハッ、こんなやつ人じゃねえよ」
渇いた笑いとともに、その塊を上から踏みにじった。
されるがままの塊は気力も打ち砕かれたのか、抵抗するそぶりは全くない。
「いい加減にしろ」
また蹴り始めたガキの腕をとって捩じり上げた。
その瞬間、カッと怒りと憎しみに燃えたガキの目がオレを貫いた。
さすがに中坊、しかもまだ13歳かそこらだろう少年と男子高生との間では、圧倒的な力の差がある。
抵抗できないよう腕をねじり上げ、動けばさらにねじった。
痛いはずだ。
それでも歯を食いしばって、呻き声ひとつ漏らさない。
体勢的に顔は見えないものの、全身が殺気だっていて、掴んだ腕からその怒りが伝わってくるようだった。
「殺すのはマジやめとけ」
「うっせえな、オレに関わんな!」
力を抜いた瞬間、ガキが身を翻すようにして蹴りを放ってきた。
それを腕で防ぎ、また鮮やかに身軽さを利用したもう片方の足蹴りを防ぐ。
なかなか筋がいい。
でもガキのお遊びにつきあう気はなかった。
防いでいた腕を返してガキの腕をとり、相手の体ごと引き寄せるようにしてその腹に拳を打ち込んだ。
ガキが体を折って激しく咳き込み、その場に膝をついた。
加減はしたものの、一時期ボクシングのジムに通ったこともある拳の重さはそうとう応えたはずだ。
「しばらくは痛むけど、死にはしねえからさ」
何度も咳き込み、ガキは腕で口元を拭って顔を上げた。
下から睨みつける強い怒りに染まったその顔は痛みと苦しさに歪み、それがまた逆に凄艶な美しさを醸し出していた。
体格も体力も叶うはずがない。
それでも悔しいのだと、手負いの獣が叫んでいるように、その双眸は涙目でありながらギラついていた。
いい目だと思う。
「ま、この前の礼も多少は入ってるか」
その礼がなんのことか理解したのだろう。
ガキは悔しそうに唇を噛み締めた。
「なあ、それより、手、組まね?」
目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
それが意外だったのか、ガキは顔を痛みに歪めたまま驚いたように目を軽く見開いた。
「は、何言ってんの?」
苦しいのか押し出すような声は掠れていた。
「こんなとこでくすぶってるよか、おもしろいことした方がいいだろ」
一瞬、その黒い瞳が揺れたのを見逃さなかった。
「ま、興味あったら」
強くは誘わない。
自ら来なければ意味はない。
「とりあえず救急呼んどくから、来る前にここ去っとけ」
「ふ、っざけんな」
怒りが体を突き上げたところで、痛みに機敏な動きはできない。
いつも溜まり場にしているクラブの名前をあげて、背を向けた。
しばらくは身動きもできないはずだ。
後ろで「ぜってえ行かねえから」と息も絶え絶えの合間に怒鳴る声が聞こえた。
でも、その時には、すでに直感していた。
あいつは、きっと来る。
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