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兆しはじめた変化
「なんか変な女がきた」
「変な?」
ポツリと、天井を見上げながら春が漏らした。
マットレスの上に本を置いて起き上がると、隣を見下ろした。
フローリングの上に寝転がっていた春は、こっちを見ないまま言葉を続けた。
「先生」
「高校の? え、この時期?」
「産休かなんかの代わりの非常勤らしいけど……なんか、やたら意識してくる」
「意識って、そんなんいつものことだろ。中学ん時も、女の先生にアピられてなかったっけ?」
「あー……」
苦い記憶でも蘇ったのか、春は眉をしかめた。
「お前が気になるほどいい女?」
「いや、……」
自分でも理由がわからないのだろう。
言葉じりを濁らせ、春は両手で顔を覆うと「あー……なんかモヤる」と呻いた。
珍しいものだと、その時は、深く考えなかった。
「まあ、お前の場合男も女も関係なくよってくっからなあ……、有名税ってことで我慢しとけば」
「意味わかんね」
拗ねてムッとした口調に思わず昔の春を思い出して苦笑した。
中学生だった春は、基本ポーカーフェイスでも、年相応に感情が顔に現れやすいところもあった。
それもあのことがあってからこちら、鉄仮面とも言いたくなるほどのポーカーフェイスを身につけ、自分の前ですら感情を表に表さなくなった。
自分にとって当然の結果だとしても、それはそれで寂しくもある。
だからムッとしたその表情だけで、なんとなく懐かしい気分が甦った。
おもしろさと勢いだけで目まぐるしい刺激に走っていた日々は、なんて短く、無邪気だったろうと。
そんな感傷を振り払う。
春は天井を睨みつけるように見つめたまま、考え事をしているようだった。
出会った頃は、ロリ趣味の男によく痴漢だのナンパだの、まして半ば強引にコトに及ぼうとされていた春にとってみれば、色目で近づく人間すべてが基本的には嫌悪の対象だ。
そこには当然、年上の女も含まれていた。
母親だの姉貴だのいかにもセクシャルな匂いのない賢女ぶった顔をしながらも、懐に潜り込んだ後には女の本性でその両腕をまきつけてくる。
たちが悪い。
そう吐き捨てるように言っていた時、春はまだ中学3年だった。
ジュリのようにはっきりセックスアピールをしてきたり、ヤリたいと誘ってくる相手の方がよっぽどつきあいやすい。
「なんか、……意識してくんだけど、なんか、目線が違うっていうのか……他の女みたいなエロい目じゃなくて、……」
考えこむ春の姿をまじまじと見つめた。
いつもなら通り過ぎるだけの人間のように、醒めた目でしか女を見ない春が、1人の女、しかも学校という最も春が嫌いな場にいる先生に興味を抱いている。
改めて春を見下ろした。
「……いいきっかけじゃねえの?」
そう言うと、春は意味がわからないというように自分を見た。
「だから……まあ、ちょうど本分に身をいれるっていうかさ」
「本分」
無表情で、その言葉を繰り返した。
「お前さ、まだ高校生だろ」
「だから? 何? いつからオレのお袋になったの?」
嫌悪と皮肉まじりの声音で春が低い声で言った。
こういういかにもな正論を突きつけられると、春は苛立つ。
「そういうんじゃねえよ。ただ、まあお前の場合、一流大学に行ける頭あるだろ。オレは大学とか分かんねえけど、もう少し周り見てもいいんじゃねえかって思っただけ」
「大学になんの意味があんの? 大学行かなくてもヒロは仕事で稼げてるし、うまくやれてる。オレは卒業資格さえもらえれば、あとは中学ん時みたいにヒロと組めればいい」
それはそうだろう。
2人で組んでやった仕事はことごとく成功したし、普通のサラリーマン月給よか稼げていた。
でも、あのことがあってから、目の前の、かつては生意気なガキだった男の未来をどうしても考えてしまう。
本人がそれを望まなくなったことと対照的に。
もともと春は恵まれている。
望めば、そういう環境に先立つ費用も与えられるし、自力でだって手に入るだろう。
「……オレは」
でもこの手に、それは与えられなかった。
はじめから、オレには、何も。
春と自分とではスタート位置がはなから違ったのだ。
「オレの場合は、望んだところで無理だったし」
知らず声が小さくなった。
何を感傷的になっているのか、と思う。
でもそれを春はどう捉えたか、かすかに眉をひそめて視線をそらした。
「でも今からだって遅くない。……ヒロが望めば、今は十分金も、あるし」
「そうかも。でも理科とか歴史とかさ、中学か下手すりゃそれ以前のレベルから始めなきゃってのは、けっこうキツイ」
「……だからって、オレが大学に行った方がいいってのとどう繋がんの?」
「たまに、思ったよ。オレがもし、児童養護施設とかで育ってなければ、金なくても両方の親揃ってれば、オレは今ここにいなかったんじゃないか」
そうすれば、春と会うこともなかった。
会わなければ、あの事件も起きなかった。
あの頃の春が荒み切っていたとしても、いわゆる反抗期としていずれ落ち着くべきところに落ち着き、王道をいけただろう。
そんなこっちの思いも知らず、春は眉をひそめている。
そんな険しい顔してもなお、人を惹きつける。
それは春の天性のものだ。
誰もが得られるものじゃない。
「たらればの話とか、らしくない。なんか疲れてんじゃね? タケに苦労してるとかさ」
「……そうかも。忘れていい」
軽く笑って、途中のページを開いたまま伏せていた本をとりあげた。
投資についての実用書を目で追い始めると、春は立ち上がって部屋を出ていった。
言われた瞬間は反発を覚えても、必ずそのことについて自分自身の答えなりを見つけるのが、あいつの頭のいい理由の1つだ。
きっと適当に渋谷かどこかぶらつきながら、考えるのだろう。
オレが言ったことを。
そして、そのきっかけになりそうな、その女のことを。
一瞬、顔も知らぬその女と春が自分に背を向けるシーンがよぎった。
その瞬間、本をつかむ指先に力がこもった。
何を動揺している。
春を新たな世界に引っ張り出すきっかけになればいいとそう望んでいるはずだ。
そうは思うものの、せっかくのビジネス書の情報も文字面を目で追いこそすれ、ただその形をなぞるばかりで内容はいっさい入ってこなかった。
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