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七
帰宅したヒカルを待っていたのは、気まずそうな顔をした黒田だった。
(あ、ばれてんな、これ)
黒田はヒカルが何かをしようとしているのに気がついて、邪魔なエリーを引き受けてくれていた。ただ、エリーにはごまかしが通用しなかった。
ウサギのぬいぐるみは、ちゃぶ台の上に鎮座していた。支えなしでも座っていられるタイプのぬいぐるみなので、中央にでーんと待ち構えている様子は、異様である。
「辰巳桃子の不在に気がついたみたいで、それからずっと、無言だった」
ひそひそとエリーの様子について教えてくれた黒田が、「ごめん」と謝ったけれど、ヒカルは首を横に振った。
「覚悟はしてたんで、気にしないでください」
ヒカルだって、エリーを騙しとおせるとは思っていない。帰ってきたら事は露見しており、エリーにこっぴどく叱られることは予想できていた。今までで一番の嫌味を言われるだろうし、精神的に削られるだろうが、ヒカルは後悔などしていない。
「ただいま」
ヒカルの声に、ウサギは当たり前だが、反応して振り返ったりはしない。ヒカルはいそいそと座った。いつもならあぐらだが、正座をした。しかし、ウサギのつやつやした目を見つめる勇気はなくて、背中側に陣取った。これで、黒田が動かさない限り、ヒカルはぬいぐるみと目を合わさずに済む。
エリーが何も発しないので、ヒカルも黙っていた。時折、鼻がむずむずして啜る、その音が妙に響いて、落ち着かない気持ちになる。
カチコチと、掛け時計がアナログな音を刻んでいる。見るとはなしに見ていると、沈黙したまま、三分が経過して、ようやくエリーが言葉を発した。
「お前、自分が何をしているのか、わかってるのか」
わかっていないだろうな、という暗黙の反語が見えた。
「わかってるよ、でも」
「わかってない!」
スピーカーを通じた声が、鼓膜にビリビリと響いて、ヒカルは肩を強張らせた。エリーに怒られることは、今までも多々あったけれど、こんな風に怒鳴られたことは、一度もなかった。顔を合わせていたら、襟首を掴まれて、殴られていたに違いない。
「エリー……でも、俺は、父親が捕まったとしても、彼女には前を向いて生きていってほしくて」
教団内で事件が起き、信仰の自由が制限される契機となった。教団代表を務める桃子の父は、逮捕される。事前の予習の資料に書いてあったのは、それだけだった。龍神之業は解体されて、教団施設も更地になる。
だが、桃子はどうだろうか。
娘として、父に手伝わされていただけの彼女に、罪は認められるのだろうか。万が一、桃子も捕まったとしても、罪は軽いだろうと推測される。
桃子は父の庇護下(あるいは、監視下、とも言い換えられるだろう)から去り、自立して生きていくことが、できたのだろうか。渡された資料には、何も書いていなかった。ただ、教祖の娘で監視対象であることしか、ヒカルには提示されなかった。
彼女が絶望に沈んだ人生を送ったとしたら、嫌だ。
未来に向かう勇気を、持っていてほしいと、ヒカルは願った。
「彼女は教団の事件とは、関係ないんだろ? だから、俺みたいな新人に任せたんだろ。彼女の未来が、ほんの少しでも明るいものになればいいと思って……」
「ダメだ。お前は、また……」
エリーは言葉を切った。遠く離れた時の向こう側で、彼が息を呑み込んだのを、ヒカルははっきりと聞いた。
「また、って、なんだよ」
追及の声は、知らず震える。「また」と言われるような失敗を、自分は今までにしたことがない。当然だ。だってこれが、初勤務だ。
「なぁ、エリー!」
冗談だ、でもなんでもいいから、話してほしかった。納得できるできないは別として、不安な気持ちは解消されるだろう。
だが、エリーは無言のままだった。ヒカルの中の彼への不信感は、大きくなるばかりだ。
ムカつく奴だとばかり思っていた。研修だと言って知識を詰め込まれ、次の日にはほとんど忘れていると、あからさまに溜息をつき、嘲笑する。訓練だと称して突然、後ろから襲われ、怪我をしそうになったことも、一度や二度ではない。
でも、初めての任務に緊張し、不安になっていたヒカルを励ましたのもまた、彼だった。
気が合わない。気に入らない。最低最悪の暴君だ。エリーのことを憎らしくさえ思っていた。けれど、あのときから少しだけ、エリーへの見方が変わった。
どれだけ厳しく、それ以上に理不尽な扱いを受けても、エリーは自分のことを認めてくれている。だったら、こちらも相手を認めなければならない。
何度間違えても、呆れこそすれ、見捨てることはなかった。バディを解消することだって、いつだってできたのに、しなかった。同じ問題を、何度も何度も、繰り返し出題するほど、根気よく付き合ってくれた。
ただの嫌な奴じゃない。ヒカルはエリーのことを、信じていた。
(エリーは俺に、何かを隠している)
沈黙を保ったままのウサギを、ヒカルは思い切り殴った。エリーに痛みが伝わることがないのは残念だったが、ヒカルの怒りとショックの程は、彼にも伝わったに違いない。
「奥沢くん!」
黒田の叫びも聞かずに、ヒカルは茶の間を飛び出して、滞在中、自分に与えられた部屋へと飛び込んだ。扉を閉ざし、敷いたままの布団にダイブする。枕を抱え込んで、声を押し殺しながら、ヒカルは唸った。
誰を信じたらいいのか、もうわからなかった。
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