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一
「……あ、母さん。俺、ヒカルだけど。今日から、俺も警察官として一人前になるからさ……えっと……うん、また連絡するわ」
通話を切って、ヒカルはほっと息を吐きだした。
母が電話に出なくてよかった。直接言葉を交わすとなると、緊張して何を話せばいいのかわからなくなっていたことだろう。
そういえば、母ときちんと会話をしたのは、いつだっただろう。高校を卒業して、警察学校の寮に入るまでは、一応実家に暮らしていたのだが、それでも思い出せないくらい前のことのような気がした。
独り暮らしをするようになってから、電話をしたのはそもそも今日が初めてだった。どうしてそんなことをしようと思ったのか、ヒカル自身にすらよくわからない。
今まで育ててくれた母親に感謝の一言でも述べるのが、新社会人として正しいあり方なのかもしれない。だが、ヒカルの唇からは、「ありがとう」の「あ」の字も出てこなかった。礼を言う義理は、どこにもない。
ぼうっとしていると、出勤時間に合わせてかけたアラームが、けたたましい音を立てた。瞬時に止めて、ヒカルは自分の頬を、一回、二回と張って、気合いを入れた。
「っし!」
独身寮という名のワンルームマンションから、ヒカルは飛び出す。四階から、階段を駆け下りて、ラスト五段はジャンプで一気に着地した。通りすがりの小学生が、「すげー!」と歓声を上げたので、ヒカルは笑って、親指を立てる。が、はっとして、「真似すんなよ」と、慌てて取り繕った。
近隣の小学生の間で、階段ジャンプなどという危険な遊びが横行したら、大人として責任を感じてしまう。
少年を見送り、ヒカルは腕時計を見て、慌てて相棒の自転車を迎えに、駐輪場へと走った。
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