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「桃子さん。こんなところで何をしてるんです?」
滑らかな男の声が、耳にぬるりと差し込んできた。声の主を仰ぎ見て、ヒカルは眉根を寄せた。
桃子の名前を呼んだということは、彼女の知り合いだ。それも、「さん」付けで敬語で話しているということは、龍神之業の信者か、少なくとも関係者であることは間違いない。
男は二十代後半、エリーと同じくらいの年齢だろう。柔和な笑みを浮かべていても、眼鏡をかけていても、知的な瞳は鋭い光を放っている。
「風見さん」
桃子がこっそりと、「お父さんの仕事の関係の、弁護士さんなの」と耳打ちした。なるほど、トレンチコートにスーツ姿がびしっと決まっていて、「できる」男といった風情だ。
ヒカルはなんとなく、自分の姿を見下ろした。変わり映えのしないデニムには、デザインではなく本気の穴が開きそうだったし、ダッフルコートは高校時代からずっと愛用している品だ。
(なんだか悔しい)
「最近帰りが遅いと、お父さんが心配してましたよ」
「ごめんなさい。でもちゃんと、門限は守ってます」
桃子が自分に対してとはまた違う信頼を、風見に寄せているのが見て取れるせいかもしれない。ヒカルはじっと、風見を観察した。
「それで、あなたは?」
風見もまた、ヒカルを値踏みしていた。冷たい視線に、ヒカルは反感を抱く。
「奥沢。彼女の友達だよ」
ふん、と鼻を鳴らして不満を表現する。風見はじろじろとヒカルを窺うと、にっこりと唇に笑みを刻んだ。が、その実、目は笑っていないことにヒカルは気がついている。
「ああ……近所の中学生ですか」
「なっ!」
童顔なのは認めるが、来年には二十歳になるというのに、中学生に間違われるなんて。
ヒカルはショックを受けたが、風見をよく見ると、口元がにやにやと動いている。絶対にわざとだ。
初対面のヒカルが、風見のことを悪しざまに面と向かって罵るのはさすがに憚られたので、頼みの綱は桃子だったが、彼女はきゃらきゃらと笑うだけで、中学生発言を否定してはくれなかった。
「桃子ぉ……」
恨みがましいヒカルの唸り声に、「あら、ごめんね」と彼女は楽しそうに笑って、「ヒカルくんは、春から大学生なの」と説明してくれた。だが、そもそも形式的に質問をしただけであって、風見はヒカルに、まるで興味がないようだった。
「お父さんが心配しますよ。帰りましょう」
「はい。……ヒカルくん、また明日……じゃないか、月曜日にね」
手を振る桃子に、ヒカルは何も言えなかった。本当は、日曜日はどこかに遊びに行こうと誘うつもりだった。
週末、彼女は父を手伝って、龍神之業の集会に参加していることは、事前に潜入を開始していた黒田の報告でわかっていた。だから、土日にヒカルが桃子の監視をすることはない。平日の分の報告をまとめるのがメインの業務だ。
でも、ヒカルは桃子と休日も会いたかった。学校で嫌がらせを受けて、父親に言われるがままに、手伝いをさせられて、十六になったら結婚をさせられる彼女を、少しでも癒し、救いたいという、エゴでしかない。
風見に話しかけている桃子は、心なしか楽しそうに見える。傍から見れば、仲のいい兄妹だ。
(もしかして)
風見が桃子の、婚約者なのではないか。理知的で紳士な物腰の風見相手だから、彼女は結婚を受け入れたのではないか。
思いついてしまった可能性に、ヒカルは囚われる。
ヒカルが桃子の結婚について憤っているのは、女子高生に婚姻を強いるのが最低だと思うからであって、相手は誰であろうが、あまり関係がなかった。
だが、婚約者であるかもしれない男の登場で、ヒカルは唐突に気がついてしまった。
たった二週間しか時間をともにしていない。しかも、彼女は捜査対象であって、自分はいろいろなことを隠し、騙している不誠実な男だ。
相手が誰であっても、大きな問題ではない。唯一の例外を除いて。
(彼女の婚約者が、俺だったらいいのに)
気がついたところで、口に出すことは決して許されない、禁断の想い。
胸の奥に重く苦いものを抱えたまま、ヒカルは遠ざかっていく二人の姿を見送った。
桃子は、一度も振り返らなかった。
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