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 ファッションビルの中のトイレは便利なもので、着替え台がついている。そこを利用して、桃子は制服姿になって出てきた。メイクはギリギリまでそのままで帰路につく。大人びた顔とセーラー服は、アンバランスだが、それはそれで魅力的だった。  電車の中で、桃子は無言だった。時折噛みしめるように、今日の思い出を反芻しているようだった。彼女の着替えた新品の洋服は、すべてまとめて、ヒカルが持った。家に置いておくことは難しいため、しばらくの間は、学校のロッカーに隠しておくつもりだという。  学校に寄って、それからいつもの公園へと向かった。途中のドラッグストアで購入したメイク落としシートで、桃子は化粧を拭い落していく。  白いシートが、汚れていく。桃子の顔は、無垢な子供のものへと返っていく。その移り変わりを、ヒカルはじっと見守っていた。 「取れた?」  幼い笑顔で問いかけてくる桃子の目の上は、まだアイシャドウのラメが残っている。完全にすっぴんの状態に戻さなければ、家に帰すことはできない。  まだ取れてないよ、と自分の瞼を擦って教えるが、桃子がいくらシートで拭っても、落ちない。 「貸して」  新しいシートを取り出したヒカルは、「目、閉じて」と言う。その言葉に従って、桃子は瞼を下ろした。 (う、わ)  動揺を押し隠しながら、ヒカルは丁寧に、桃子の肌を撫でていく。 「痛くない?」 「うん。大丈夫」  ラメの輝きはしつこく残り、ヒカルは断って、少し力を入れて擦った。 (よし)  目元のメイクは取れたが、ふと彼女の唇に目をやると、グロスが端に残っている。ここは自分でも拭えるのではないか。ヒカルは逡巡するが、直視しているうちに、引き込まれそうになる。 (キス、したい)  けれど、無理矢理口づけることができるほど、ヒカルは自信家ではなかった。彼女が自分に向ける好意は、友人、あるいは兄に対するもの以上の感情だとは、判断できなかった。  衝動に耐えて、桃子の唇に、シートを押し当てた。 「桃子さん」  声をかけられて、驚きのあまりにヒカルは思わず、シートを取り落とした。びっくりしたのは桃子も同じだったが、声の主をよく知っているという点で、ヒカルよりも先に落ち着いた。 「風見さん」 「遅いから、探しに来たんですよ。まったく、またこんなところで……しかも何してるんです?」  傍から見れば、ラブシーンに見えるかもしれない。というか、心の中ではキスしたいとか触れたいとか考えている時点で、そうした印象を抱かせるのも、仕方がないことかもしれない。 「や、あの、これは……」  言い訳をするヒカルとは逆に、桃子はきっぱりと、「自分じゃお化粧を落とせなかったの」と事実を告げた。大丈夫なのかと危惧するヒカルに向かって、彼女は笑った。 「大丈夫。風見さんは、このくらいのことは見逃してくれるもの。ね、風見さん?」  悪戯っぽい表情は、風見に向けられたものだった。彼は深く溜息をつくと、「まぁ、このくらいの息抜きは、桃子さんにも必要でしょうからね」と容認した。  桃子は笑って、ヒカルの手からクレンジングシートを取り上げて、唇をごしごしと拭った。 「お父様が心配してますよ、桃子さん。一応ごまかしておきましたけれど、早く帰ってください」 「はい」  立ち上がった桃子は、ヒカルに手を振った。 「風見さんは?」 「私は、ちょっと」  風見はヒカルに視線を向けた。目が合う。何やら意味がありそうな笑みを浮かべ、「……彼とお話が」と言った。 「わかりました。ヒカルくんのこと、いじめないでくださいね」  二人は桃子の姿が見えなくなるまで、黙って見送った。小さくなっていく後ろ姿を眺め、ヒカルは自分から話しかけるべきか、考えた。
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