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 たった一言でいい。  一言、「助けて」と言ってくれたのならば、自分は何としてでも、彼女を救い出す。  けれど、桃子は何も言わなかった。瞳は饒舌に、ヒカルに「助けて」と言っているのに、言葉に出すことは、決してしない。  桃子の目は、昔のヒカル自身の目にも似ている。  能力のせいで、母親に疎んじられ、外から見えないところには痣を作っていた、幼い頃の記憶が蘇る。  一週間に一度は、児童相談所の職員が自宅アパートにやってきた。母は不自然に優しい声を出して、そのときだけヒカルを撫でた。暴力を伴わない親子の唯一の触れあいだったので、ヒカルはその瞬間を、いつも心待ちにしていた。愚かな子供だった。  お母さんが僕を叩く。蹴る。つねる。  じっと職員を見つめても、彼らは何もしなかった。何の証拠もなく、勝手にヒカルを保護することはできない。痣だって、転んだのだとヒカルが主張すれば、それまでだった。ヒカルはいつも、無言だった。母の言いつけで、何も話してはいけないことになっていた。 『何か、言いたいことがあるのかい?』  後ろ暗いことをごまかすべく、饒舌な母の声を遮って、その男はヒカルに目線を合わせた。 『あらやだ。この子に言いたいことなんて、なんにもないんですよ』  ね? と笑顔を浮かべる母親の目は、脅迫してくる。男は、「お母さんには一切聞いていません。僕はヒカルくんに聞いているんです」ときっぱり言ってのけ、ヒカルをじっと見つめた。  ラストチャンスだった。ヒカルは、大きな声で泣いて、叫んだ。  助けて! 僕を、助けて! と。  ヒカルの願いは、初めて聞き届けられた。母のことが好きで、でも怖くて、何もできなかったヒカルの、ほんのわずかな勇気が、その後の人生を変えた。  今のヒカルは、あのときの職員の立場だった。厄介なことに、桃子は当時のヒカルよりもずいぶんと大人で、その分、思考力も理性も育ち切っている。助けてと言葉にすることは、決してないだろう。  ヒカルはポケットから、メモ帳を取り出した。そこに数字を書きつけて、桃子に渡す。 「どうしても辛くなったら、俺の伯父さんなら、力になってくれるかもしれない。黒田っていうんだ」  自分には何もしてやることができない。でも、この時代にひっそりと生きている黒田であれば、きっと自分と同じ、もどかしい思いを抱えたことのあるだろう黒田であれば、短期間でも桃子をかくまうことくらいは、必死で頼み込めば、してくれるはずだ。  受け取ったメモの切れ端を、桃子は大切に折り畳み、制服の胸ポケットへとしまった。ひとまずは、お守り代わりに持っていてくれれば、それでいい。  帰る頃には、桃子は元気を取り戻していた。ブランコに座っていたためにできてしまった、スカートの皺を丁寧に伸ばしている。 「じゃあね。また、明日」 「ああ。明日また、ここで」  ヒカルは彼女の後姿に手を振った。  しかし、約束はついに、果たされることはなかった。
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