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オフィスに戻って来ると、アシスタントの那奈ちゃんが浩を見つけて駆け寄って来た。
「あの、経理の森田さんがちょっと変なんです。」
「どうしたの?」
那奈ちゃんが、ほらっという動作でそちらの方を振り向いた。彼女の眼差しの先には、おかっぱ髪で眼鏡をかけた中年の女性事務員が貧乏ゆすりをしながら、会社の紙袋の中から小さな紙きれを一枚ずつ取り出しては仕舞う動作を繰り返しているところだった。
あれっ!このシーン、さっき電車の中で見たのと...
浩は、眩暈を感じた。この変な仕草の繰り返し、一体何なんだ!
偶然だよ。いや、偶然にしては、一致しすぎていて気味悪い。
見知らぬ人が他所でやっていたら、「変な人がいた。」と客観的でいられるのだが、身近な人が目の前でやっているとなると、これは何かのムーヴメントに違いない。でも、何なんだ、これは?
そのうち、浩の係と隣の係の全員が気付いて、森田さんに注目し始めた。やがては彼女を取り囲み、この不思議な一挙手一投足を言葉も無く見つめる。
そして、漸く浅川課長がその人の輪の中に割り込んできて、森田さんに近づき、肩を揺すって、「どうしたんですか?森田さん。」と声を掛けた。何かに取り付かれたような彼女は、返事をしない。そこで課長は、今度は大声で、「どうしたの!」と耳元で叫んだ。
森田さんは、課長の方に今にも泣きだしそうな形相で振り向き、「お金が無い!」と金切り声で叫んだ。浩の位置からは、彼女の目がよく見えたが、視点は合っていなかった。
直後、彼女は口から泡を吹いて、前のめりに上半身から机に倒れこんだ。
「救急車!」と浅川課長。
「はい!」と那奈ちゃんが返答した。
森田さんが倒れ込んだ勢いで、袋の中から紙片が飛び出し、花吹雪のように辺りにひらひらと舞い、スローモーションのようにゆっくりと床に落ちていった。浩がその一つを拾うと、スーパーで貰うレジと同じような紙ぺらだった。
その夜、浩は、どこにも寄らずに家に帰った。彼のアパートは、西武新宿線の沿線のとある駅から歩いていける距離にある。オフィスが新宿なので近いところが良いと思い、家賃は多少高かったが、夫婦共働きで子供がいないので、なんとか払えると思って借りた。二人とも贅沢な趣味が無かったので、家計は潤沢なはずだった。
玄関チャイムを押して、ドアを鍵で開け、ただいまと言いながら中に入った。いつもなら、「お帰り」って妻の理彩の返事が聞こえてくるのだが、今日はない。しかも、室内が薄暗い。浩は、不信に思った。
唯一照明がともっているのは食卓で、理彩はそこに後ろ向きに座っていた。
浩が、ただいま、と再び声を掛けても振り向かない。どうも様子がおかしいので近づいて行くと…
えっ!
驚いたことに、理彩は目の前にレシート数十枚をうずたかく積み上げて、一つずつ手に取って眺めては、また元の山に戻している最中だったのだ!
「りさー!大丈夫か?りさー!」
理彩は振り返り、我に返り、夫が見つめていることに気づくと、泣き崩れながら、叫んだ。
「あなたー!うちにはお金がないのよ、お金がぁ~!」
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