発作

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発作

 息苦しさは、足を一歩前に出すたびに階段式に深くなる。喉に綿を詰められ、その僅かなすき間から肺に空気が送られる。小人か何者かが数人いて、転びながらもせっせと空気を運んでくれている様子が浮かぶような感覚に襲われる。  自分ではどうしようもない。そういうもの……ホントどうしようもないから、そういうものに頼ってしまう。小人でも何でもいいから僕に空気を、酸素を運んでほしい。  十吸っても一しか体に酸素が回らない。そもそも吸える空気が限りなく少ないのに、その中の酸素ってどれくらいなんだろうか。  吸い込んだ酸素が全て体の内側にある粘膜に絡め取られているようでいっこうに肺に到着しない。空気を吸えば吸うほど付着して頑丈な鎧を作り上げているようで、体は重くなりギシギシと擦れるような奇妙な音を立て今にも崩れそうになった。  ゼイ……ハァッ…………ハァッ……ゼイ……苦しい、苦しい…………苦しい……  頭には〈苦しい〉という言葉以外何も思い浮かばなくなっていた。行き渡る酸素が少ないせいで思考力も低下、たぶんスピードダウンも尋常じゃないだろうが自分ではよくわからない状態にまで達している。  発作が収まれば、発作さえ収まれば少しは楽になる。楽になる……か。楽になってもたいして意味がないことを僕は知っていた。一度発作が起きてしまうと、発作が落ち着いても一週間くらいはずっと呼吸がおかしいのだ。発作は起きていないはずなのに、喉に異物か何かがあるような、蜘蛛の巣が張ってすべてを、一つ一つを残さず搦めて埋め尽くしてしまうような……。  つまり、今発作が収まったところで、試合を棄権するということは回避できても、走る呼吸が整わなければ歩かなければいけないし、もちろん高タイムでゴールするということは非常に厳しい。    間もなく二人に抜かれ順位は九位まで下がった。ぞっとした。ただただ、ぞっとした。  僕はゴールするまで一体何人に抜かれるのだろうか。ここまでいい順位でつないでくれた仲間たちにどんな顔を見せればいいのか。そもそも襷を立石に渡すことができるのか。息ができなくてもそれだけは考えずにはいられなかった。そのことを考えると息苦しさよりもっと体が凍りつくような、どこからくるのかわからない寒さがズシンと体全体に覆いかぶさり身震いした。  まさかとは思うが、そのまさかが起こらないとは言えない。僕自身にもわからない。だが、それだけは防がなくては。それが起きてしまってはいけない。人として最低なことだ。いや、人として最低だというのはあまりに人をばかにしている。僕としては最低なことだ。それだけの練習をしてそれだけの苦しみを背負った人はそういうこともあるだろう。きっとあると思う。  でも僕はいけない。僕はそこに到達していない。人の努力を無にすることは自分の努力を無にすることより恐ろしい。人の運命が自分の手にかかっていると思うと、こんなにもぐちゃぐちゃに胸を掻きむしられ、脳みそをえぐられるような、人が人でなくなるような感覚にとらわれるのだということをこのとき初めて知った。怖い、ただただ怖い。    胸が苦しい。それは発作のせいばかりではない。苦しくて息ができなくて、僕はこのままだと死んでしまうのかもしれないが、そんなことより人を殺す方がもっと怖かった。僕は今、紛れもなくチームメイトを殺そうとしている。毎日毎日、ともに走ってきた仲間たちをこの今の一瞬で無残にも殺すことができるのだ。  殺す……殺すのか、僕は。人を殺すのか、今ここで。今、ここで……
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