僕と僕

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 はぁ、苦しい。ゼー、苦しい。はぁ、はぁ、苦しい。ゼーゼー、苦しい。  この程度なら当たり前のことで、誰もがそうなるものなのだから弱気になってはいけない。ただし、それしか考えられいほどに余裕がなくなるのはアウトだ。  僕が何か別のことを考えようと試みたそのとき、駅伝メンバーでダントツに速い田無と、期待の新人立石が並んで坂を駆け登って行った。並んで競う姿を横から見るとすでに大会が始まっているかのような気迫、厚い膜のようなオーラが漂っており、僕は胸が締めつけられる思いがした。僕は今その中にはいない。選ばれたものだけが放つ光の膜。敗者である僕には関係のない空間であり世界だった。    二人は汗だくだったが、駆け上がる田無の左斜め後ろにピッタリとくっつき決して差を広げなかったのは立石。足取りも軽やかでふらつきもない。脹脛(ふくらはぎ)の筋肉は遠目から見ても張りがあり、いい塩梅で美しい。  こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、いい走りをする人の足の筋肉を見ると自然に口元が緩む。本当においしそうに見えるのだ。そこだけ浮き上がって見える。大会などに行くとまず必ず脹脛、続いて太ももの筋肉を見る。おいしそうに見えるやつはたいてい速くて粘りがあって体力がある。見ればわかるものだ、本当に。美しくてその部分だけキラキラと輝いて見える。それは汗のせいだけではない。  さらに、田無と立石二人とも揃ってきれいなフォームだった。それぞれ違うのだけれど、田無は教科書通りのような形で、立石は個性派といった感じの形で手が若干バタつくような気はするが本人はそれがちょうどいいようでタイムは伸びる一方だった。  どちらのフォームを見ていても悔しさよりもため息が出てくる。努力型と才能型のフォーム。疲れを全く感じさせない力強さがあり、確実に着実に坂を登る。僕の足はこんなにへばり、空気もろくに吸えないというのに、僕は一体何型なのだろう。僕に代わって誰かに判定をしてもらいたい、答えを出してもらいたい、そんな救いを求めてしまうような心境な僕だからまともな走りができるわけがない。型にこだわるなんて心の弱い証拠だ。  それでも今の僕は、努力型だと誰かに言ってほしいという思いが断ち切れなかった。どうせ才能はないのだから努力くらい認められたっていいじゃないか。いや、本当はわかってる。努力型は誰かに認められたくて努力しているわけではない。自分の向上心の元に努力しているだけなのだ。そのようなことを思っている時点で僕は誰にも認められない。  吸えない空気をもう一度胸一杯に吸い込んで、太ももと脹脛を軽く叩いた。走るのを止めるわけにはいかない。彼らはまだ走っている。同じ中学生である僕にできないわけがない。そう、同じ中学生、同じ駅伝部。何も変わりはしない。何も劣ってはいない。僕が坂の上を見上げると、登りきった二人は笑顔さえ浮かべ、楽しそうに会話していた。次に備えてゆったりと坂を下りながら息を整えている。急に動きを止めることは体への負担を増やすだけなのでゆったりと歩き続ける。  アスファルトが燃えるように熱い。その熱さを跳ね返すよう、地面を足の裏全体で思いきり蹴飛ばし、僕は太ももを高くあげた。手の指先をぴんと伸ばし、腕を前後に思い切り振って勢いをつけ、坂の上をまっすぐと見つめながら足を持ち上げる。  坂の上に辿り着いたらどんな景色が見えるのだろうか。僕にもいつか見ることができるだろうか。振り子のようにした腕が生温い空気を分断すると、なぜか少し冷たくなった風が顔に当たって気持ちいい。
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