喘息

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 不思議と野球の試合中に苦しくなったことはほとんどなかった。それはピッチャー、キャッチャーでもないので、体を休めることができたせいなのかもしれない。  練習中でも苦しくなることはほとんどなかったが、マラソンや駅伝は野球と違って息苦しくなることがやたらと多かった。それは何の前触れもなくやってきて、突然巨大な黒い膜が肺全体に覆い被さってくる。その瞬間は息が止まり、一呼吸後にゼハゼハガラガラと喉も肺も同時におかしな音をたてて、僕の体が一瞬で蜘蛛の巣の中に放り込まれたように思えた。  こうなったらもうダメで、ゆっくり息を吸っても速く吸っても、息を吸わなくても喉の奥から、ゼーゼーという形のない何かが込み上げてくる。喉の奥が工事中みたいで前に進めないし戻ることも難しい。それが発作というものなんだ、それが普通なんだ、と僕は思っている。  駅伝部は初夏から秋までの短期の部活なため、誰もが必ず他の部活に所属していた。僕は野球部で、野球部全員が駅伝部に強制入部させられたが、そういう運動部がほとんどだった。  短距離は野球部の中でも下から数えた方がはやいくらいに遅かったが、長距離は身長体重のわりには速く走ることができてけっこう好きだし、タイムも悪くはなかった。  ただ前を向いて先を見て未来を見据えて走る。足元を見ることはない。野球にはないおもしろさがそこにはあったし、自分にはそれが向いているとも思った。それだけを見つめてそれだけを求める。それは簡単なことであるのに極めて難しい。みな、それに辿り着く前に止めてしまうから。見つめることも求めることも。  走る。それだけできれば誰にでもできるのに、それだけであるからごまかしは一切通用しない。一度失敗すると挽回するためには、足と体と体力とそして精神力、これらが必要でこれらにかかってくる。道具は何一つない、この身体(からだ)だけ。この身体だけだから余計におもしろい。  喘息はタイムの上がらない理由にはならない。足があり、手があり、頭があり、肺がある。十分過ぎるほどそろっているではないか。普通の人より呼吸は苦しいし、体力もないかもしれないが、僕にはまだまだ可能性がある。  夏休みの練習は朝八時からだが、十時にはそれぞれ部活の練習が始まる。つまり二時間程度しか駅伝の練習はなく、真剣に走り込む時間はもっともっと少ない。ストレッチなどは個人でやり、二時間たっぷり練習時間に当てるようにはしているが、アップし体が温まりようやく走り込みだというころに練習が終わってしまう。そしてそのままそれぞれ自分の所属する部活動の練習場所へと散り散りになっていく。  いわば部活のためのウォーミングアップのようにもなっているのだ。部活に関しては、すぐ開始できるし練習時間が短くなるという点以外で特に困ることもないが、駅伝部の練習が野球に役立っていても、駅伝そのものとしての練習が少なすぎるような気がする。これからというときに野球の練習が始まってしまうのだから……。  短時間だからこそ集中して練習できるという利点もあるとは思うのだが、どうしても野球の助走とか引き立て役にしかなっていないような駅伝部の陰の薄さを感じずにはいられなかった。野球が当然一番だけれど、今の僕にとっては駅伝も一番なのだ。  集中した二時間が短いとは思わないが到底不十分だと思われる。大会まで時間がない。僕に限りない可能性はあっても、可能性を引き出すまでの時間は非常に短い。それはもう奇跡を信じたくなるくらいにだが、奇跡に頼るほど僕も阿呆(あほう)ではない。  奇跡というものはめったに起こりえないから奇跡なのであって、奇跡なんぞを信じて生活していたら腑抜けた人間になってしまう。奇跡もない、才能もない人間はただひたすらに時間を削ることが重要なのだ。否、ただ時間を削るのではない。効率的に時間を削るのだ。
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