僕と僕

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僕と僕

 今日の駅伝部は、学校近くの人通り、車通りの少ない坂道でダッシュの練習だ。近くの林から聞こえる忙しない蝉の鳴き声のせいでみなのやる気は削がれるが、毎日のことであるから慣れたものだった。  坂道の一番下から上まで猛ダッシュで駆け上がるだけなのだが、何本か走っただけなのにすでに太ももはパンパンでこれがきつい。後半になると太ももを叩いて揉んでほぐしながらでもしないとやってられない。  これじゃあ一軍は無理だな。頭や額、こめかみからの汗が首から下の汗をさらに洗い流しぬるっとする。走れば走るほど白い大きな水滴が勢いよく空中を舞った。競って隣を走る仲間からも花火を連想するような水しぶきが降りかかってくる。猛ダッシュするだけの練習なのに、猛ダッシュができなくなるという賜物。  それを耐えているやつはもちろんいっぱいいるわけで、僕も平気を装って前から引き離されないよう、先頭にいるならば決して抜かれぬよう、むしろ差をつけてやるんだという気持ちで駆け上がった。  平気を装う必要なんてないのに、一軍に入れないせめてものプライドだろうか。だけどやはり、いつもそれが上手くいくわけではない。だって少しでも余裕があるから平気を装えるわけで、平気を装っている間は自分の壁を壊すことはできない。自分の壁を壊すことができなければもちろんタイムは上がらない。自分の限度を知っているからだ。限度を壊さなくては新しく作り変えることはできない。破壊して再構築。これが基本だ。  だけど僕はここで思ってしまう。限度を壊す?一年生のときはそんなこと考えもしなかった。普通に走っているだけであのタイムが出た。それを今さら自分の壁や限度を破壊して新しい自分を再構築するってどういうことだ?元々ありのままの自分で出したタイムなのに何で自分を再構築する必要があるのだろうか。作り直す必要があるのだろうか。  今のありのままではあのタイムを越えることができない。結局逃げでしかない。成長と見せかけた逃亡だ。だから再構築の必要がある。  これを一旦考え出すと無限ループに陥ってしまう。だから極力考えないようにしていた。だがいつも隣にいる立石を見ていると考えないわけにはいかない。坂道の練習では、原田や田無には追いつけないし、立石には追いつかれたり追い越されたり、ほとんど差はない。  こうなってくると気力の問題でもある。僕は精神力でもみんなに負けているというのか。負けたくないという気持ちが足りないと負けてしまう。それではいつも僕が心の中で思っている負けたくないは、本当の負けたくないではないのか。心からの負けたくない、ではないのか。  単なる感情にすぎないのか。疲れたと思うことがいけないのか。足が重いと思うのがいけないのか。このままだと追い越されてしまうと思うのがいけないのか。何を思ったらよくて、何を思ったらいけないのかがよくわからない。もう何も考えたくないとさえ思う。そもそも考えないといけないのか。  二年前の僕はどうだっただろうか。何を思って走っていたのか。頭の中は真っ白で最後までまっさらな状態で走っていたのだろうか。  僕はそれさえ思い出せないほど頭の中がモヤモヤとこんがらがっていた。あやとりの紐が絡まってもうどうしようもなくイラついてしまうあの感覚。あのころの自分の感情が思い出せなくなっていた、まるで自分じゃないもう一人の自分が走っていたかのように。
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