04

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 再び訪れた山の奥。空は曇天、重々しい空気でいまにも雨が降り出しそうだった。 「…………」  それが、ある地点で一歩を踏み超えた途端に晴天になる。おかしな話だ。突然雲が消滅し、神々しい陽光が差し込んでくる絵画の完成。木々は生い茂り、季節を無視して色とりどりの花を咲かせ実を咲かせる。  美しい楽園の始まり。ここから進めば進むほどに、泉に近づくほど幻想的になっていくのだ。 「じゃ、よろしくなアユミ」 「分かってる。でも……」  アユミが、俺の身を案じて迷いを見せる。確かに、無茶な作戦ではあるだろう。だが問題ない。 「大丈夫だ。何とかなるさ」 「……わかった。それじゃ」  たん、とアユミが飛ぶように駆けていく。俺はまっすぐ泉へ向かう。足を進めると、あたり一帯が霧に覆われ始めた。風景がより幻想的になっていく。 「…………」  静けさの森。鳥の歌が聞こえるが、作り物のように美しい。気分を高揚させるために作られた鳴き声など、俺という侵入者にとっては殺風景な無音に等しい。  野兎やリスが駆け、豊満な森の緑を飾り立てる。色の濃いチューリップ。群れを為して舞い上がる鳩。日本の片隅とは思えない理想郷っぷり。 「――――」  ひゅんひゅんと甲高い音を立てて、俺は先端に重りがついた透明繊維の糸を回してみる。この強化ナイロン繊維の糸は俺の第二武装だ。師匠の真似ごとともいう。腰の後ろの第一武装、短刀『落葉』を抜いて刃紋を確認するが、無骨な宝剣は相変わらず濁りひとつない。俺の腐った夜色の目が見えるほどに良好、確認終了。  童話の森を進みながら、思案する。今日もあの陽気な人魚は、俺を歓迎してくれるのだろうか? しかし忘れてはならない。既に、俺だけでなく、この森を訪れた何人かがあの泉で溺死させられそうになり、命の危機に晒されたという事実を。  ――会ったことがない(・・・・・・・・)んですよ。おかしいんです。こんな狭い泉なのに、姿が見えない。  不思議そうに首を傾げる姿が浮かぶ。到底嘘を言っている風には見えなかった。  ――もうここへは来ちゃだめですよ、羽村くん  そんな警告めいた言葉を思い出す頃。ようやく、件の泉にたどり着いたのだった。 「さて」  碧の水面に百合の花が浮かぶ。美しいヨーロッパの観光地のような滝から、水が注いで小さな虹を形成し、大きな泉に流れ込んでいた。昨日と同じく、またしてもパラパラと小石が落ちて水面を跳ねさせているのに気付いた。 「………………」  アユミは持ち場についた頃だろう。泉まであと十メートルはある。しばし準備運動でもするか、と伸びをした瞬間。 「!?」  俺は既に、水中にいた。 「が……っ」  息ができない。掴むものが何もない。あり得ない、まだ水辺に立っていたわけでもないっていうのに、どうして俺は既に右足首を掴まれて水の底へと引きずり込まれそうになっている? (――くそが……!)  暴れれば暴れるほど、大量の気泡が視界を悪くする。それでも足を掴む手は微塵も外れない。その手を蹴りつけて、ようやく気付く。  ――すり抜けた。手はそこで足首を掴んでいるのに、こちらからは触れることさえできない。蹴ろうが暴れようが無駄に決まっている。油断も甚だしい、ここは呪いによって形成された都合のいい結果を捻じ曲げて引き寄せる幻想空間の渦中だ。俺を引きずり込んでいるのは、足首の手ではなくこの空間そのもの。水辺に立っているかとか、強く振りほどくなんて物理世界の考え自体がまるで通用しやがらない! 「………ぐ、ぼ……」  パニックでまたたく間に酸素が消費されていく。そうこうしている間にも水深は深くなって、どこまでもどこまでも引きずり込まれていく。  ――そして、俺は見た。見てしまった。俺を水の底へと引きずり込もうとしている醜悪な怪物の双眸を。 『――――ミ、シイ……』  その者は、美しく。 『――――サミ、シイ……』  けれど見開かれた目は絶望的に深く。取り憑かれたように一心に俺を、その向こう側の虚無を見ている。 『――――ココニ、イテ。コノ泉デ、一緒、二――』  その背後にある、底なしの深海と同じくらいに暗い。決してこちらの足を掴んで離さない。  “呪い”が滲み出す。水槽の黒インクのように、人魚から染み出した怨念はまたたく間に澄み切った水を暗く濁らせていく。  ふわふわと髪が揺れる。真白い顔で俺を引きずり込もうとする泉の怨霊――――別人のように蒼白な人魚、ナギがそこにいた。  呪いに形成された亡霊は、壊れた蓄音機ように繰り返し感情を口にする。 『ヒトリ、リソウ、ウレシイ、サミシイ、ダレモイナイ、サミシイ、ジユウ、ラクエン、コドク、リソウキョウ、タノシイ、タノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイ』  その目が、暗い深海で青く不気味に輝いている。青い海。黒い呪い。水面は遠く、決して手など届かない。 『タノシイカラ、アナタモ、ワタシ、ト、一緒ニ――――!』  どうして水中なのに声が聞こえるのか。耳元で囁きかけるように、愛おしそうに、狂おしそうにナギが口にする。 『――――永遠ニ、泳ギ続ケマショウ……?』  これが、理想の泉の真の姿だ。  ああ、意識が遠くなってきた。  このままでは殺されてしまう。  人間は水の中では何もできない。  蒼白になった人魚はまるで俺を離そうとしない。  それじゃあ、池の水ぜんぶ抜く(・・・・・・・・)しかないよなぁ――! 「!!!?」  雷鳴のような衝撃が全身を叩きのめし、すべてを弾けさせる。ガラス板が大破するような音を立てて空間が砕け散る。視界は変わり、俺も人魚も空中にいた。  火山が噴火したように泉が爆裂し、巨大な水柱が形成されていた。逆さまの視界の中で、魚も百合の花も水しぶきも、水中にあったすべてがいま、重力を失い空中に晒されていた。 「ナ、ニガ――!?」  何が起きた、と突然空中に放り出された人魚は困惑する。決まっている。崖の上で待機していたどこぞの怪力少女が、崖上数十メートルほどで落ちそうになっていた大岩を持ち上げ、十トントラックでも軽々と持ち上げるその膂力を全開で上乗せして、空中から隕石のように泉の真ん中へと叩き落として水を跳ねさせたのだ――!  五メートル近くあった巨石の質量も相まって凄まじい威力を発揮したそれは、モーセの十戒のごとく泉の水を叩き割り、底へと突き刺さって大地まで割り砕きかねない勢いで激震させた。舞い散る水しぶきの只中で、真実が明るみに引きずり出される。  やはり、河童などいなかった。いるのは驚愕を浮かべる人魚がただひとりだけ。 「――そこだ」 「!?」  俺の投げはなった糸がナギの首を絡め取り、逃さないよう強引に引き寄せる。抵抗は許さない。水がなければ、溺死などするはずもない。そも、人間が水中では何もできないのと同じように、陸上に引きずり出された人魚が人間に勝てるはずもない――!  空中でナギの首を掴み取る。そのまま、迫る岩の地面へと背中から叩きつけた! 「――――っ!」  泉のほとり、岩の上に人魚を押し付けて沈黙する。一拍遅れて、隆起した大量の水が大地に叩きつけられ、洪水のように暴れ回った。  俺たちの足元にも、波のように薄く水が流れた。 「…………勝負あったな、」  腰の後ろから短刀を抜き放ち、その白い細い首に押し付ける。がらんどうの青い瞳が、意思を失ったように青空の雲を映し出していた。 「………………ナギ。」  眼の前にいるのは、やはり、否定しようもなく――あの時俺を救ってくれたはずの無邪気な人魚――ナギだった。 「やっぱり、河童の正体はお前だったんだな」  表情に意思がない。あの日の柔和な笑顔はまるでなく、俺を殺そうとしたナギは怪物そのものだった。 「どうしてだ。なんでこんな真似をする。俺を救ってくれたじゃないか。人が来てくれて嬉しいって言ってただろうが。なんで――!」  バチリ、とその輪郭が霞んだと思ったら、青い瞳に意思の光が戻ってくる。そして揺らいだあとに俺をみつけ、 「…………あれ? 羽村くん? だめですよ。もうここへは来ちゃ駄目って言ったのに」  意識を取り戻したように、壊れた理想郷の人魚は笑顔を浮かべた。そのあまりの自然さに俺は震えた。 「そうか……………やっぱり、お前は」 「――デモ、サミシイ。ドコヘモイカナイデ。誰デモ良いカラソバニイテ」  その目がまた意思の光を見失う。爬虫類のような無表情で怨嗟を零す。 「永遠。永遠に続くんです。エイエンにヒトリナンデス。ワタシ、ワタシ、ワタシは」  永遠に朽ちることも老いることもない理想郷。誰にも脅かされることのない自分だけの楽園はしかし、孤独だった。  ナギ――海堂凪という少女は、本当は人と話すのが好きだったのだろう。だが、様々な出来事の果てに、人間が嫌いになった。嫌いになった、と思い込んでいたのだ。その果てに、呪いを破裂させて理想の楽園を築いたが、だが、人間は。  ――――人間の、心は。  永久に続く孤独な楽園に耐えられるほど、強くはないのだ。 「ダカラ、引き止メ、ナクチャ」  苦しそうに、壊れた呪いの残照は願望を告げる。相手を水の底へ引きずり込んででも、悪霊は孤独から逃れたかった。 「だめよ河童さん、そんなことしてはいけない」  無邪気な人魚は、それを否定する。人を傷つけることなど許されるはずがない、と口にする。それが自分自身の嘆きであっても、理想郷に生き続けるという機能(のろい)は殺人を許諾しない。それが自分自身の一部である、という事実さえも許諾しない。 「けど、ケド――けれど、淋しくて、デモ…………ぁあ、あああああああアアアアアアア」  バチバチバチと激しく輪郭が揺れる。  壊れていた。  とっくの昔に、破綻していたのだ。またナギの全身から黒色が滲み出し、大気を黒く濁らせようとする。霧が濃くなってきた。また底なしの泉を形成して俺を引きずり込もうとしている。今度は助からないだろう。いまここで、いますぐに、決断を下さねばならない。 「………………っ」  ナギはまだ、良心を残している。しかしその結末は明白だ。呪いはいずれ必ず暴走し、無差別に害を振りまくバケモノと化す。既にナギは、半分以上がバケモノに侵食されている。この楽園は、長くは続かないだろう。 「また溺れてる……たすけないと――助けナイ、と…………」  悪夢に苛まれながら、純真な人魚が泣くように声を絞り出す。  良心の呵責に結論が出ない。  そんなのはよくあることだろう。  百パーセントの確信を持って罪を犯す者の方が少ない。  悪道に引きずり込まれ、あれよあれよという内に気が付けば罪に手を染めている。  立つ瀬が変えられてしまっていることがある。  故に、 「アンタは有害な異常現象だ」  ナギは必ず間違いなく、煩悶の果てに呪いに負けていずれ人を殺す。  既に何人も何人も殺しかけている。 「――――」  ならば狩人の答えは決まった。短刀を振り上げ、陽光を反射させる。 「そう……です、か…………」  俺の言葉に、無邪気なナギまでもが表情を喪失する。まるで何かに気付いたように。 「…………そうでしたか……」  そして、かなしそうに微笑んだ。俺が振り上げた短刀の切っ先をぼんやりと見つめ、歯を食いしばる俺を見て、無垢に微笑んだ。 「それでかまいませんよ」  窒息しそうになる。楽園の人魚は俺の決断を肯定した。 「それでかまいません」  短刀を握る手が震えた。  迷うな。  狩人とは、  異常現象狩りとはつまり、 「――ぁぁぁあああああああああああッ!」  残酷で無慈悲な『殺し屋』なんだから。  ――――斬、 「あ…………」  あたたかい血が跳ねて、俺の頬に付着する。永久の楽土に囚われた人魚は、きっと最後まで無垢な笑みを浮かべていたんだろう。無慈悲に短刀を振り落とした俺には、それを直視することはできなかった。 「りが、とう」  自らの醜悪な狂気から開放されたように、的はずれな感謝を述べ、呪いが崩壊した亡霊は幾億の黒光りとなって霧散した。ナギの全身が黒紫の粒子となり、空へ吸い込まれていく。幻想の森も、端から崩壊していく。  がちん、と心臓を捉えていた短刀の切っ先が岩に突き立つ。 「…………ナギ」  その良心の欠片も、愛らしいお喋りの記憶も。永遠に終わらないはずだった楽園の残照も。ざらざらと手のひらから零れ落ちていく。  やはり、人魚は泡になって消えたのだ。 「――――羽村くん」 「ああ、終わったよ」  たん、と背後にアユミが着地する。俺の声は乾ききっていた。岩に出来た傷を見下ろしていた。 「救う手段はなかった。こうする以外にどうしようもなかったんだ」 「分かってる」 「こうしないと、ナギはいずれ人を殺してしまっていた。そしてあいつはもっと絶望する。……それだけは止めたかった」 「分かってる。大丈夫だよ」 「…………」  言い訳じみた言葉を並べ立てると、アユミが俺の肩に手を置いた。  ……誰かを殺すのは初めてじゃない。何も、悪者ばかりが呪いを抱くわけではないのだ。善良な人間が絶望の果てに怪物に成り果ててしまうことの方が多く、その数だけ俺たち狩人は陰惨な結末を見ることになる。  事件の最後はいつもこうだ。――それでも、まだ、慣れない。 「ナギは淋しかっただけなんだ。ただそれだけだったんだ。決して悪いやつじゃなかった」  殺した奴が虚しく口にしてみたところで、何が変わるわけでもないのだが。 「ああ……」  狐の嫁入りが始まった。明るいのに小雨が降ってくる空を、人魚を殺した短刀を握ったまま、白痴のように見上げていた。  幻想の空が、溶けていく。無垢な人魚の楽園が消えていく。油彩絵画のような上塗りの風景は蒸発し、元のつまらない山中の泉へと姿を変えていく。野兎は虫に。水面の百合の花は草の葉に。木々は、蜘蛛の巣が張ったような枯れた色に。 「呪い……か」  消えゆく黒色の粒子を撫でてみた。不可思議で、理屈の分からない負の幻想。ただひとつ確かなのは、誰もが呪いを発現し得るということだ。  どんなに善良な人間も、悪人も。  俺もアユミも。  負の感情に負け、何かを強く強く恨み続ければ誰もが呪いを具現化させ得る。  そして最期は人魚のように泡になるのだ。 「……行く、か」 「うん」  ふらりと立ち上がる。いつまでもここで呆けていてもしょうがない。小さくなった静かな泉に背を向け、俺たちは山を下り始めた。  ――明るい人魚のいなくなった泉は、ひどく侘びしかった。 「……なぁアユミ、知ってるか。すぐ近くの街に大怪獣ギャドラが出たんだとさ」 「怪獣?」 「街を襲って人を殺しまくったらしい。また陰惨な事件だ」 「……怖いね。今度こそ本物の第五現象かな?」  きっと違う。誰かが、そんな呪いを抱いたのだろう。そうしてまた俺たち狩人が駆り出されることになる。  ――狩人? イノシシでも撃つんですか? ばぁん!  いいや、狩るのは呪いと人間だ。  誰かが願った。  誰かが呪った。  現代に生きる人間が無慈悲な現実の重量に押しつぶされ、大切なものを奪われて絶望する。そうして負の感情を心の内に蓄積し、最後は呪いを破裂させて怪物になる。  これは、そんな悲しみに満ちた呪いを狩る“狩人”たちの物語だ。            斬   
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