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 霧は、いっそう濃くなっていた。 「う……!」  目を開けるが、一瞬自分がどこにいるのかも掴めなかった。ホワイトアウト寸前の視界の中で、痛む頭を押さえながら体を起こす。俺が倒れていたのは岩場だった。すぐそこに泉がある。 「溺れた……よな」  溺れさせられた、が正しいが。しかし何があった? 水中で朦朧としていたせいでまだ記憶の整理が追いついていない。自分の右手の平を見下ろすが、水に濡れていること以外は正常だった。不意打ちのように、怪物の醜悪な双眸が飢えたように俺を見ていたことを思い出す。 「…………河童、か」  口に出してつぶやいてみる。やはり、例の怪談は真実だったようだ。ちらりと上を見上げた瞬間に足首を掴まれて引きずり込まれた。たまったものではない。 「くそ……」  拳を握る。何もできなかった。ただ一方的に殺されかけただけ。確実にあのまま死ぬだろうと確信していた。まったくふざけている。逃げようがなかった。しかし、死の直前、誰かが俺の腕を引いて助けあげてくれた気がしたのは錯覚だろうか――? 「あなたは河童に襲われたのです」 「――は?」  どこからか、美しい玲瓏の声が聞こえた。しかし隣には誰もいない。目を向ければ、泉におかしなものがいた。 「…………何やってんだ、アンタ」  泉に浸かった女がいた。鼻から下が水中にいて、見えるのは鼻から上と、岩に引っ掛けた両手だけ。子供の隠れんぼのようだった。少女漫画みたいな美しい青色の瞳。すごい美女だ。どう見ても奇行で、変人だけど。 「いえ、私はここが落ち着くのです」 「水の中が? 警察に通報すべきかな」 「おやめください。警察は恐ろしいです」 「後ろ暗いことが何もなければ、助けてくれるはずだけどな」 「実は服を着ていなくて」 「その割にはぷかぷかと羽衣みたいなのが浮かんでるのが見えるが」 「きっと水死体でしょう」 「俺のかな」 「はい、あなたのです」 「………」 「…………」  何なんだ、こいつ。頑なに水から出ようとしない。覗き込もうとしたら手で制される。 「鼻から下をマスクで隠してると美人に見えるらしいが、アンタもその類か?」 「失敬な! 鼻から下もれっきとした美人です、ほら、ほらほら。特に唇の下のほくろがチャーミングでしょう?」  自分の口元をアピールする女。その肩が、濡れた割にさらりとした不思議な質感の布に包まれていた。 「着てるじゃねぇか」 「め、目の錯覚なのでは?」  また口まで水に浸かる女。怪しさしかない。刃を突きつけて脅迫する。 「そっから出ろ。何を隠してやがる、あァん? 実はホントに死体でも引きずってんのか」 「………………」 「あるいは水死体でも引きずってんのか、もしくは水死体でも引きずってんのか。一体そこで何やってる。明らかに不審者だろうが、もしかして水死体でも引きずってんのか」 「……分かりました。そこまで水死体言われては仕方ありません」  ざばん、と水から体を出す女。岩に水が跳ねる。白い緩めの、装飾がついたシャツを着ていた。岩に座り込むと、下半身は鱗に覆われたドレスを着ていて、足がなかった。 「――――」  足がない。ドレスではなかった。代わりに魚のような鱗と、魚のような尾びれがあった。女はこちらをその海のような青い目で見上げている。上半身は美しい人間の女性だが、下半身は魚。もはや竜のようでさえあったが。 「ああ、人魚か」 「はい、人魚でした」  つまり人魚だった。自分の子供の頃に絵本で見たであろう知識とも合致する。 「なるほどねぇ。縁条市に人魚が住んでたのか」 「はい、人魚住んでました。この泉に」  軽い口ぶりに反して、神々しいまでの美貌。霧の合間に光が差し、麗しい微笑を神秘的に飾り立てる。青の目が、深すぎていっそ魔的だった。 「…………ふーん」  このクソ地方の、山の泉に。言うまでもなく、そんなことはあり得ない(・・・・・)のだが。 「名前はナギといいます。あなたの命の恩人です」 「そうか、俺を引っ張り上げてくれたのはアンタだったか」  覚えている。溺死する寸前、俺の手を掴んで引っ張り上げる、青の双眸の何者か。それが目の前のナギさんとやらだったのだろう。 「はい、命の恩人です。命の恩人ですよ?」 「…………」  きらきらと輝く宝石箱の目で見つめられる。何か期待されているようなので、ゴソゴソとポケットを漁ってみた。いいものがある。 「これをやろう」 「? これはなんです?」  小さな、四角形のビニール袋を投げ渡してやる。中にはパラパラと乾燥した何かが入っている。 「ニボシだ。魚を干したやつ。カルシウムが高い」 「…………ほう。へへぇ。」  不服そうな半眼で見られる。瑞々しい人魚サマ。その輪郭が一瞬バチリと霞み、元に戻る。俺は何も言わずにその変化を見ないふりした。ぺし、とニボシを投げ返される。 「いりません! べっ!」  見た目こそ女神じみてるが、どうにも子供みたいなやつだった。しかしよく分からない。人魚なんてものに出会うのは初めてのことだ。 「あんた、この泉に住んでるのか? 狭くないのか」 「そんなこと言ったって、仕方ないじゃないですか。海へ行けるわけでもないですし」 「川下りにチャレンジしようとは思わねぇのかよ、井の中の蛙」 「無理ですね。目立ちすぎでしょう、きっと水の浅い場所もたくさんありますし」  すいー、とイルカショーのように優雅に泳いで見せるナギ。きらきらと輝く陽光に滝の飛沫、美しい水面。白磁のような肌を水で撫でて、気付いたように微笑みかけてくる。 「なんですか?」  屈託のない笑み。まるで邪気がない。どこぞのお姫様のような容姿だが、その無防備で人懐っこい笑みは都会に出たことがない田舎娘のようだった。 「はぁ」  やれやれ、と霧の濃い空を見上げる。ここだけ閉じてしまったように、視界が悪かった。こんな狭い泉で生きているらしい命の恩人さんが、ひどくかまって欲しそうなので、俺はくだらないことを口にする。 「ご趣味は」 「ふふっ、お見合いですか? そうですねー。お琴を少々」 「琴があるのか」 「ないですけどねー。一度弾いてみたいような気もするんです」 「それは遠まわしに要求してるのか」 「いえいえ、別に恩人特権を振りかざしているわけではないのですけどね?」  優雅な背泳ぎ。さすが人魚、見たこともないくらい器用に自然に泳ぎやがる。 「あなたの名前はなんですか」 「羽村リョウジ。ただのしがない狩人だよ」 「狩人? イノシシでも撃つんですか? ばぁん!」  猟銃を撃つモノマネ。からからと明るく笑う人魚だが、俺の脳裏には陰惨な異常現象狩りの記憶がよぎった。忘れよう。 「ま、そんな所だ」 「私、いつからここにいるのか分からないんですよ」 「へぇ?」  水中に立ち、揺れる水面を見つめる海の瞳。 「きれいな泉。まるで私の理想の景色。けれど、ここには誰もいない。誰もいないんです」  静かな水音だけの空間に、さみしげな硝子の声がさらさらと流される。 「どうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、なぜここにいるのか、どんな経緯でここにいるのか、そして何よりなぜここにとどまるのか。私はひとつも答えを持っていません。あるいは、そんな機能はない(・・・・・・・・)のかも知れません」  バチバチと、輪郭がぶれた。半透明はまた実体を取り戻し、正しく人魚の形に戻って美しい微笑みを象る。少しずつ空の霧が晴れてきたのを、少女は見上げる。 「自然の景色は美しいけれど、そればかりだと退屈するだけ。本当は自然なんて殺風景なものなんです。どんなに生き物がたくさんいたって、騒がしくたって、どんなに植物の色が変わったって、それはただの光景であって人格ではない。そこに心があるわけではないんです」  微笑みの奥に、孤独があった。人魚は変わらず玲瓏のように美しい声を紡ぐ。碧の水面、浮かぶ百合。霧に包まれた鮮やかな、油彩絵具のような風景。表情だけはずっと微笑んでいるが、瞳は色抜けた氷のようで。 「とてもとても美しい場所。まるで私の理想の景色。けれど――――――ねぇ、あなたは、」  ――――理想を叶えたあとにある、“これから”が何もない世界をしっていますか……? 「…………」  ざざぁ、と耳障りな風が撫でていった。殺風景な風。無粋にも、幻想の泉から霧を払っていく。人魚は変わらず、朗らかに笑っていた。 「なので、来客は嬉しいわけです。いらっしゃいませ水死体さん」  おじぎされる。いやなニックネームがあったもんだった。 「あ、でも本当に危なかったんですよ? あのままだときっと危険でした。だからもう、ここには来ない方がいいかも知れません。さみしいですけれど……」  なんて、本当に寂しそうな顔をする井の中の蛙。その姿が微笑ましかった。 「なぁ、俺を襲ったあいつは何だったんだ?」 「ああ……あれは河童です。」 「河童」 「はい、河童です」  人魚の次は河童か。本当にファンタジーな泉だ。錆びれシャッターと傾き電話ボックスの街こと縁条市にはまるで相応しくない。 「見ましたかあの恐ろしい眼光。つららのような牙に、かいぶつの爪。おっそろしいことです。本当に、おぞましい。きしゃー」 「人を襲うのか」 「ええ。通りがかった人を引きずり込んで溺れ死にさせようとするんです」 「そんなやべえのと、一緒に住んでんのか」 「はい。残念ながら、同じ池のムジナです。でも不思議なんですよねぇ」 「不思議?」  不思議生物が何言ってやがる。しかし、人魚は心底疑問符を浮かべて小首を傾げていた。 「会ったことがない(・・・・・・・・)んですよ。おかしいんです。こんな狭い泉なのに、姿が見えない。もしかすると、幽霊か何かなのかも」 「幽霊ねぇ……」  そりゃまた、第一現象か第五現象か判断に困る事例だ。  しかし間違いない。その河童とやらがこの泉に隠れ潜み、訪れた人間を水底に引きずり込んでいたのだろう。証言とも一致。実体験もした。調査は十分だ。 「あー……」  しかしながら水中戦は厄介だ。人類には難しい。しかも河童相手ともなれば、相当に厳しいだろう。この人魚なみに器用に泳ぐに違いない。 「…………どうしたんです?」 「あ」  考え込んでいると、きょとんと見られていた。 「なんでもない。命を救ってくれてありがとうな。助かったよ、ナギ」  感謝を述べると、青い美しい瞳が眩しそうに細められた。今生の別れなのだろう。 「はい。もうここへは来ちゃだめですよ、羽村くん」  少女漫画のように美しい人魚。きっとどんな名画も、この実物の無垢な透明感には敵わないだろう。 「あ」  遠くから、アユミの呼ぶ声がする。 「さようなら、さようなら。」  ぷかぷかと、陽気に去っていく。どこまでも明るいやつ。でも最後の最後の一瞬に、とても淋しそうな顔をしていた。そりゃ孤独なんだろう。永遠にこんな泉でひとりきりなんて。  霧が晴れ、アユミが現れる。ファンタジーを忘れさせるような赤髪と、柔和な微笑みに、自分が現実に帰ってきたことを実感する。 「やれやれ」  青い瞳の、無垢な人魚は語った。この泉に危険な河童が潜んでいて、人間を襲うと。泉の中へ引きずり込んでしまう、と。でも会ったことはない。どちらもこの狭い泉に住んでいるにも関わらず。 「見えない河童、ねぇ……」  その河童が自分自身だ、ということはきっと理解していないのだろう。
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