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03
目撃証言がある。殺人未遂なんだから当然だ。
「人魚に足を引っ張られて、溺死させられそうになったんだってさ」
オレンジの資料ファイルを読み上げるアユミ。場所はさびれた早坂神社。一人も客のいない境内の隅、鳥居の足元で俺たちは、泉で得た情報と事件概要の照らし合わせをしていた。真昼の陽光が眩しい。
「河童だ、って言うやつもいたんだよな」
「そうだね。でも、水中で溺れさせられながら見たんじゃ河童も人魚も大差ないかもね」
確かに、その通りだ。俺もあの恐ろしい姿を見た。俺を水の底に引きずり込もうとしていた人魚――ナギの、深海みたいな暗い双眸。底なしの青色が俺を吸い込もうと足首を掴んでいたのだ。
そして、それが消えたと思ったら、別人のように俺を助けに来た。まるですべてを忘れているようだった。ワケが分からない。
「溺死させられそうになるっていうへんな事件。いまのところ死者は出てないけど――」
「でも、危険なのは間違いないだろ。たまたま助かっただけだ、そんなのは」
無垢な笑みを浮かべて楽しそうに話す人魚の姿。なぜだ? なぜあのお喋りが、人を引きずり込もうなんて考える? どうして河童の仕業だ、なんて嘘をつく。自分で溺れさせておいて自分で助けるなんて、意味が分からないにもほどがある。
「……それで、あいつの正体の情報はあるのか?」
アユミがファイルをめくる。泉の人魚事件。今回の情報収集はうちの情報担当の中でも優秀な雨宮銀一がやったので、その辺りは抜かりない。
「――名前は海堂、凪さん。六年前の十七歳の時点で事故死。たまたま遊びに行ってたあの泉で死んじゃったんだね」
「へぇ……じゃ、やっぱりそういうことか」
「うん、そういうことだね」
人魚といえば、五大異常現象でいえば間違いなく第五現象に該当するが――今回も、やはり見せかけだけの紛い物だったのだろう。
「――『亡霊』。彼女は、死者・海堂凪さんが残した、呪いによる幻想。第五現象でもなんでもない、ただの人魚型の幽霊なんだよ」
ため息が出る。やはりまた第五現象お決まりのオチだった。今回の人魚の正体は第一現象『残留衝動体』、俗にいう亡霊ってやつだったわけだ。第五現象は歴史上発見例が一度もないが、少し変わった亡霊なんてのはどこにでもいる。呪いは自由自在に願望を具現化させるので、人魚の真似事になったところで何の不思議もないのだ。
「海堂さんの死因自体に不審な点はないんだけど、問題は生前だと思う」
生きていた頃のナギ。生前にも、何かあったのか。
「この顔写真でも分かるだろうけど、とっても綺麗な女の子なの。でもそれはそれで苦労もあったんだろうね、生前のトラブルが書かれてる」
「む……」
人間関係。トラブル。ストーカー。傷害事件。淡々と羅列されているが、ひとつひとつが重要なわけではない。
「なるほど――数が多い。多すぎだな。こりゃ、人と関わるのが嫌になりそうだ」
美人は苦労が多いというが、ずらずらと並べられたトラブルの数は同情に値する。おそらくあの屈託のない性格も影響したのだろう。
「そうだね。たくさん傷ついた結果、自分だけの理想の泉を創造して引きこもりたくなるのも無理ないのかも」
つまりは人間が嫌いになってしまったのだろう。自分だけの楽園がほしいなんてのは、人間なら誰でも一度は考えることだ。
「その感情が、トラブルのたびに積み重なっていって、いよいよ呪いを遺すほどになっちまったってわけだな」
「トラブル続きのあとに事故死した、っていうのもよくなかったんだと思う。だから最後の最後の一瞬に、悔いが残っちゃったんだ」
死因は――転落死。あの泉のそばで、海堂凪は高い崖から足をすべらせて無意味に死んでしまったようだ。目に浮かぶ。一方的に害を突きつけてくる人々から開放されたくて、あるいは逃げ出したくてあの山に一人で出掛けたのだろう。
死にたかったわけではない。
ただ、開放されたかった。重くのしかかって来る一方的な感情の渦から逃れたかった。あの山や泉を見て、少しは心が癒やされたんだろうか?
しかし、ナギを手放さない、とばかりに不運はその足を掴んだ。崖から足を滑らせる、という最悪の形で。
落ち行く最期の一瞬に、虚空を眺めながらナギはついに呪いを破裂させたのだ。永遠に朽ちることのない泉と、そこで何者にも縛られず自由に泳ぎ回る人魚、という空想を描いた。その呪いは死亡後もその場に遺り続け、やがて幻想の泉を構築してしまった。
「……なるほど。大体は想像がついたな」
「そうだね。でも、どうして人を引きずり込むのかな?」
「そこだよなー」
解放を望んで楽園を築き、自らも何にも縛られない人魚と化したナギ。美しい理想郷だろう。ならばただそこに存在し続けていればいい。それこそが、呪うほどに願った空想なのだから。
それが何故、他者を引きずり込むなんてことになる? なぜ河童の仕業なんて見え見えの嘘をつく?
――――理想を叶えたあとにある、“これから”が何もない世界をしっていますか……?
「……もしかすると、本気で自覚がないのかも」
「なに?」
別人のように冷静な目をしたアユミが、とつとつと分析を口にする。
「かわいらしく微笑む人魚と、禍々しく人を殺そうとする人魚。互いに相手を自分だと理解できてない。無意識下で記憶を切り離して、共存してる――って可能性はどう?」
言われてみれば、確かに無邪気に話すナギは嘘を言っているという感じではなかった。本気で河童のせいだと思いこんでいたのだ。
「……あり得るな。でも確かめようがないぜ。本人に聞いても、自覚がないのか嘘をついてるのか判別できない。シュレディンガーの猫だ。実は、本当にあの泉にはナギとは別にカッパが住んでるのかも知れない」
この目で見ておきながら、無邪気なナギの姿を知ってしまった俺はつまらない仮説を口にする。アユミはそんな俺に笑った。
「そうだね。人魚が二人いるって可能性もあるかも」
人魚とカッパ。
溺死させようとする怪物と、救おうとするナギ。
水の中というブラックボックスに隠された真実。
――そして、勝てるはずもない水中戦。
「……厄介だな。水の中ってのは本当に厄介だ」
「泳げるだけじゃ、だめだね。本気で襲われたらわたしの怪力だって意味をなさないかも」
正面から戦っても勝てない。真実はまるで見えない。ならば、答えはひとつしかなかった。
「池の水ぜんぶ抜くしかないね」
「ああ、池の水ぜんぶ抜くしかない」
アユミと頷きあう。
さあ、真実を明らかにしよう。
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