35人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
第1話『モノクローム』
クラスメイトの女子に殺されかけた。
それでも、世界は何も変わらない。当たり前だ。この灰色の世界は別に俺を中心に回っているわけではなく、地軸を中心に回っているのだから。
彼女がこの世界にもたらした変化なんて、平凡な田舎町の平和なローカルニュースをにぎやかにした程度だ。
そんなことを考えながら朝食のトーストをかじり、リビングに置いているテレビに視線を向けた。画面上部のテロップには『××市連続通り魔事件』と表示されている。
液晶には、今朝の公園が映っていた。
ほんの一時間ほど前のことが、もう報道されている。
「最近、物騒になったわよね」
と、正面に座っている母さんが言った。
「何が」
「今の通り魔のことよ」
そう言って彼女はリビングに置いてあるテレビに視線を向けた。その内容は既にスポーツニュースに変わっている。
それを横目に見ながらも、俺の脳裏に浮かぶのは血に染まった日本刀を振るう黒神桜夜の姿だった。
あれから。
黒神に殺されかけ、そして彼女が公園を去ってから。十分ほどで救急車とパトカーが駆けつけた。警察にいくつか質問をされ、それに答える。彼らは俺が何も知らないと判断してくれたようで、すぐに解放してくれた。
何も知らない。
嘘はついていない。
俺は本当に——黒神桜夜のことを、何も知らないのだから。
それからは普通に家に帰り、普通にシャワーを浴び、そしてこうして、普通に朝食を食べている。
頬の傷や、ジャージが汚れていることについて母さんに訊かれた。それに対し、つまずいて転んだとか、大した怪我じゃないとか答える。そんなやり取りを思い出しながら、なんとなく、頬に当てられたガーゼを撫でた。
「もう五人も……いえ、今朝の女の子で六人目になるのかしら。犯人はまだ捕まらないのね」
「その犯人、同じクラスの女子なんだが」
そんなことを言ってみたら母さんがどんなリアクションをするのか少し興味があったが、それ以上に面倒なことになりそうなので黙っておいた。
「日本刀みたいな大きな刃物で斬りつけるんですって。幸い、亡くなった人はいないみたいだけれど……怖いわよね」
日本刀のような、ではなく、本当に日本刀で斬りつけられたのだが——それはさておき。
連続通り魔事件。
一連の事件はそう呼ばれているようだが、連続殺人鬼や殺人事件などと表現されていない理由はそこにある。
六人もの人間を襲い、病院送りにしておきながらも。
黒神桜夜は、人を殺してはいない。
「六人、か……」
俺は呟きながらフォークを置き、代わりにティーカップを手に取る。食後の紅茶——今朝の茶葉はアッサムのようだ——をひと口飲んで母さんに尋ねる。
「いつごろから始まったんだったか」
「先月の中ごろじゃなかったかしら。確か、ひとり目の事件がそれくらいだったと思うけど」
三月の中旬……ということは、ほぼ一か月の間に六人が襲われているということになる。
たったひと月の間に、六人も。
俺の知っている黒神は、おとなしく、口数が少なく、いつも兄の後ろをついていくような——そんな女子だ。彼女が通り魔の犯人だということも現実味が感じられないが……それより、黒神がこれまで何の手がかりも掴まれずに警察から逃げ切っているという事実のほうが、にわかには信じがたい。
「ひとり目と言えば、知ってる?」
「何を」
「ひとり目の被害者は、古鷹高校の先生なんですって」
それは知らなかった。俺は首を横に振る。
「確か、照井……照井蓮輔先生、だったかしら」
知ってる? という母さんの問いかけに、首を横に振ることで答えた。ひとり目がその照井先生だというのなら、俺が知っているわけがない。三月の中ごろといえば、中学校を卒業したばかりの時期なのだから。
飲み終わったカップをソーサーに置き、席を立つ。
「ごちそうさま。行ってくる」
「あ、ちょっと待って! いっくん!」
「いっくんって呼ぶな」
そんなことを言えば、この人は叱られた仔犬のようにしょんぼりとした表情をすることだろう。母のそんな顔が頭をよぎってしまい、言いかけた口をつぐんだ。我ながら、流されやすい性格をしていると思う。
「しばらく、朝のジョギングはやめなさい」
「どうして」
「五人目の人は、あそこの遊歩道で襲われたみたいだから」
いつものルートの、という母さんは言う。そういえば、あの遊歩道の入口にはテープが張られていた。あれは警察が捜査のために封鎖していたということだったのか。
警察事情には明るくないが、それほど長い時間立ち入りを禁じられることはないだろう。明日か明後日ごろには規制も解かれるのではないだろうか。
よかった。
明日からも、いつも通り走り続けることができる。
母さんには悪いが、正直、俺は黒神に殺されようが殺されまいがどうでもいい。
いや勿論、できれば死にたくはない。しかし、走ることをやめてまで死にたくないわけじゃない。これはただ単に、優先順位の話だ。
その理由は、自分でもはっきりとはわからない。
——そもそものきっかけは、はたして何だったのだろうか。
今朝の疑問が、再び浮上してきた。
その答えがわかるまで、あるいは思い出せるまで。俺は、たとえ死んでも走ることをやめない。
斬りかかられる程度のことなら、付き合ってやろう。
「行ってきます」
振り返らずに玄関へと向かう。
振り向いたら母さんと目が合う。その顔にはおそらく、不安そうな表情を浮かべていることだろう。母として息子のことを心配してくれている。それがわかるからこそ、俺は振り向くことができなかった。
扉を開ける。先ほど見たニュースの天気予報曰く、今日の天気は晴れらしい。
空は、相変わらず灰色のままだった。
* * * * *
教室は連続通り魔事件で持ちきりだった——と、いうほどのことでもなかった。
脈絡のない掛け合い。とりとめのないお喋り。昨夜のバラエティ番組とか、最近人気のテレビドラマだとか。そんなたわいのない、終わらない会話のキャッチボールを、みんなそれぞれ楽しんでいるようだった。
この教室にいる生徒の全員が、次は自分が被害者になるかもしれないなどとは考えていないのだろう。
自分たちの教室に通り魔がいるとは、誰ひとりとして考えていない。
当たり前といえば当たり前だ。クラスメイトに襲われる、なんて現実味がなさすぎて想像しようとすら思わない。
まあ、実際にそんな経験をした俺が言っても説得力はないかもしれないが。
そんなことを考えていたとき、がたん、と近くで物音が立つ。
音がした方向に目を向けると、前の席の男子が到着したところだった。そのまま視線を上に移動させ、黒板の上の時計を見る。ホームルームまであと十分ほどだ。
特にすることもなかったので、暇潰しに音楽を聴こうと思った。机の横に提げているリュックからスマートフォンを取り出し、アプリを開く。イヤホンの片方を左耳につけ、さて何を聴こうかと迷っていると、
「おはよう」
という声が、右の鼓膜を震わせた。
一瞬、思考が止まる。
俺は顔を液晶に向けたまま、ちらり、と横目で右側を確認した。
視界の端に見えたのは、学校指定のブレザーだった。意外と着崩すタイプなのか、ブレザーのボタンをすべて開けており、その首にはリボンタイも結んでいない——代わりに、季節外れの白いマフラーを巻いていた。
ゆっくりと視線を上げた。まずはふたつ結びの黒髪が目に入り、続けて視線を上にもっていくと大きな丸い瞳と目が合う。
黒神桜夜が、そこに立っていた。
「おはよう」
再び、そんな言葉が耳に届く。鈴の鳴るような、とは少し違う。そんな使い古されたような表現は似合わないと、なんとなく思った。黒神の声は水のように澄んでいて、花のように柔らかく——それでいて、どこか懐かしいような響きをしている。
俺は左右に首を振り、周囲を見渡してみた。クラスメイトの八割ほどは既に登校しているようだが、誰も彼女の挨拶に言葉を返そうとはしない。
不意に、前の席の男子と目が合う。彼はそのたれ目を大きく見開き、ついでに口もあんぐりと開け、驚いたようにこちらを見つめていた。椅子に座ろうとしているところだったのだろう、中腰の姿勢のまま、まるで時間が止まってしまったかのようにぴたりと停止している。
もう一度、黒神と目を合わせた。どうやら彼女が挨拶をしているのは、俺で間違いないらしい。
よりにもよって、俺に。
「……おはよう」
俺はようやく口を開いた。声は、震えてはいなかったと思いたい。
黒神は頷く。よくわからないが、なんとなく満足そうな様子に見えた。
「おはようございます。黒神さん。紅野さん」
唐突に、そう声をかけられた。その聞き覚えのある声に、俺はひとつ息を吐く。
いつの間にか、藤咲が黒神の右隣に立っていた。
藤咲蒼海。
同じ中学校出身で、一年生のときには同じクラスになったこともある少女だ。
ポニーテールと、丸眼鏡。ブレザーもブラウスもきっちりボタンを留めている。
いかにも優等生といった風情のある女子だが、事実、藤咲は優等生なのだ。真面目で面倒見がよく、けれど決して融通が利かないわけでもない。まさに絵に描いたような、と言いたくもなる。
中学生のころから何らかのリーダーをしていた印象があったが、現に今も、彼女はクラスの委員長を務めている。男子の委員長は、さて、誰だったか——
「どっち?」
唐突に黒神がそう言った。
どっち、とはどういう意味だろうか。
そう考えていると、藤咲は困ったように笑う。
「ごめんなさい、白夜さんのほうです」
「……ん? 俺?」
前の席の男子が反応した。フリーズしたパソコンが再起動するかのように、ようやく時間が動き出す。
その名前を聞いて思い出した。
黒神白夜。
彼は黒神桜夜の双子の兄で、藤咲と一緒に委員長を務めている男子だ。
白夜と書いて『はくや』と読むのが印象的で、名前だけは覚えていた——後々調べてみれば、本来、白夜は『はくや』と読むのが正しいらしい。『はくや』だろうが『びゃくや』だろうが、人名にはやや珍奇なほうだと思うが。
名前だけは。
失礼な話だが、黒神に比べると黒神兄はやや印象が薄い。季節外れなうえに授業中でもマフラーを首に巻いている妹と並べてみると、きっちりネクタイを締めてまともに委員長をしている兄のほうは、どうしても影が薄く感じてしまう。現に今、藤咲が彼の名前を呼ぶまで、俺は黒神兄がひとつ前の席だということをすっかり忘れていた。
そう、と。自分に用がないと判断したのか、黒神はそう言って席へと戻っていく。その背中に、リュックとは別にもうひとつ、何かを背負っていることに気がついた。
一メートルと三十センチくらいだろうか、細長い形状の、暗い色をした革性のバッグ。大きな縦笛のケース、というのが一番イメージに近いが、やや大きすぎるように思える。ファゴットあたりがそのまま入っているんじゃないだろうか。
吹奏楽部なのだろうか。それはなんというか、らしいなと思った。少なくとも、日本刀を振り回すよりかは彼女に似合っている。
「今日は、おふたりが日直です」
と、藤咲が用件を口にした。彼女は同級生相手にも敬語を使う、少しおかしな礼儀正しさをもっている女子である。そういったところも、藤咲の優等生ぶりをより印象付けているのかもしれない。
そんな彼女の言葉に、あーそっか、と彼が呟いた。同時に、俺も納得する。本日、四月十四日、火曜日の日直は、俺と黒神兄ということらしい。
出席番号九番と十番。そしてさらにひとつ前の八番の席に、黒神妹が座ったのが見えた。例の楽器ケースを、机の横に立てかけている。
「日直って、何をすればいいんだ?」
と、黒神兄が尋ねた。
「授業後の黒板の清掃、教室の施錠、あとは日誌の提出とかですね」
「日誌」
「これです」
藤咲は一冊のノートのようなものを胸の前に掲げ、俺たちのほうへと向けた。堅い表紙には確かに『学級日誌』と書かれている。
彼女はそれを黒神兄に手渡すと、俺の顔を覗き込むように見つめてきた。レンズ越しに視線が交差する。
「それ、どうされたんですか?」
「それって?」
それですよ、と藤咲は自分の右頬——こちらから見て左の頬を指差す。彼女が指摘した頬を撫でてみると、指に触れたのは少しふわふわとした異物だった。
そういえば、と頬のガーゼの存在を思い出す。こんなことまでうっかり忘れてしまうなんて、自分のメンタルのずぶとさに、我ながら少し引いた。
「大した怪我じゃない」
気にしないでくれ、と答える。母さんに説明したときと同じ答えだ。
事実、本当に大した傷ではない。ただの切り傷だ。凶器が日本刀だったというだけで。
藤咲は納得したようなしていないような、そんな微妙な表情を浮かべていたが、ありがたいことに特に問い詰めたりはしないでくれた。
「……そういえば、聞いたか? 藤咲」
黒神兄が日誌を机の中に入れながら、彼女に向かって話題を切り出した。藤咲の用件は既に終わっており、俺がふたりの会話に混ざる必要性も感じられない。そう判断し、あらためてスマホを手に取る。
「何をです?」
「今朝、この近くの公園で六人目の被害者が出たらしい」
「六人目……と、言いますと?」
「例の、連続通り魔事件だよ」
スマホを落としそうになった。
全身が引き攣るように、緊張で強張ったのがわかる。端末を握る手に、嫌な汗が滲んだ。
——そうか。
黒神白夜は、知らないのだ。
同じ母の腹から生まれ、一緒に育ち、登下校もともにするほどに仲のいい実の妹が——血に染まった日本刀を振るう通り魔だということを。
彼は、知らないのだ。
「……犯人は?」
「まだ捕まってない」
「被害者は? 被害者の名前は、わかりますか」
黒神兄は首を左右に振る。知らない、ということだろう。彼女は一瞬だけ落胆したかのような表情を見せ、そうですか、と小さな声で言った。
「鶴高の、櫛谷という生徒だ」
と、そう答えたのは俺だった。
私立翔鶴高校——略して鶴高と呼ばれている学校の、櫛谷という女子生徒。
今朝、警察から聞いたばかりの情報だ。彼女はなんらかの身分を証明するものをもっていたようで、身元はすぐに確認できたらしい。
ふと視線を感じて振り向くと、黒神兄が怪訝そうな表情をしてこちらを見つめていた。そんな顔をするのも不思議ではない。今朝のニュースの段階では、彼女の名前は報道されていなかった。あくまでも、この町に暮らしている高校生としか情報は出されていない。
「……知り合いなのか?」
「いや、見知らぬ他人だ」
俺は正直に答えた。彼は納得しかねるような表情をしていたが、ふうん、とひと言呟くと藤咲に視線を戻す。
彼女の顔は、凍りついているように見えた。
瞳が、かすかに揺れている。
「どうした? ……もしかして櫛谷って女子、藤咲の友達なのか?」
「いえ……見知らぬ他人ですね」
黒神兄の問いかけに、静かな声で彼女はそう答えた。その顔には微笑みを浮かべている。先ほどの表情は、どうやら俺の見間違いだったらしい。
そのとき、教室の扉が開いて初老の男性が入ってくる。担任の浮橋先生だ。生徒たちに席に着くよう促しながら、彼は教壇へ進んでいく。
「それでは日直のお仕事、よろしくお願いしますね」
藤咲は俺と黒神兄にそう言い置き、自分の席に戻ろうとしているクラスメイトたちの群れに、小走りで混ざっていく。
その背中を見送り、さてホームルームの準備をしようか、というところで手にしているスマホのことを思い出した。
結局、音楽を聴くことはできなかった。少し残念だったが、まあ、昼休みにでも聴けばいい。そう思いながら、再び端末をリュックにしまう。
そのとき、始業のチャイムが鳴る。
「——ダウト」
不意に耳に届いた、澄んだ声。
その声は、チャイムの音にかき消されるくらいに小さくて。
きっと俺にしか届かなかったのだろうと、どうしてか確信めいたようなものを抱いてしまったのだ。
* * * * *
放課後。
特に何事もなく、本日の授業は終了した。
朝のホームルームで——そしてつい先ほど終わったばかりのホームルームでも念を押すように、くれぐれも早く帰るように、と浮橋先生は言っていた。部活動に入っていない生徒は即帰宅するよう促されていたし、部活動自体もしばらくは早めに切り上げるらしい。
理由はわかりきっている。
連続通り魔事件。
ひとり目の被害者はこの高校の教師だったのだ。学校側が警戒を強めるのも当然のことだろう。
「紅野」
そんなことを考えながら黒板に書かれた文字を消していると、不意に、後ろから名前を呼ばれた。振り返ってまず視界に入ったのは、少しハネぎみの黒髪と渦を巻いたつむじ。目線を下げると、特徴的なたれ目が見える。
黒神兄である。
彼は中性的な顔立ちをしている童顔なのだが、声は思いのほか低くて凛々しい。少し小柄な体格をしていることもあり、声変わりをしたばかりの中学生に見えなくもない。
黒神兄は困ったような、すまなそうな表情を浮かべている。俺より十センチ以上低い位置にあるそれを見て、妹と顔立ちは似ていないのに身長は同じくらいなんだなと思った。
「このあと、用事があることを思い出したんだ。えっと……その、悪いんだけど、残りの仕事頼んでもいいか?」
ああ、と頷く。どうせ帰宅部で暇なのだ。
彼は俺が頷いたのを見ると、安心したようにほっと息を吐いた。
「俺は何をすればいいんだ?」
「戸締りと、あと日誌だな」
これ、と黒神兄は日誌を差し出してきた。それを受け取り、ぱらぱらとページをめくってみる。今日の日付のページは『一日のまとめ』欄を除き、既に項目がほぼ埋められているようだった。
「……なあ。その怪我、本当にどうしたんだ?」
「うん? ……ああ、これか」
頬のガーゼに触れながら、俺は答える。
「気にしないでくれ」
「……ふうん」
黒神兄は一瞬だけ複雑そうな顔をして、そう呟いた。
「まあいいや。ともかく、俺の代わりにサクが手伝ってくれるから」
「さく?」
「俺の妹」
なるほど、そうか。彼は妹——つまり、黒神桜夜のこと『サク』という愛称で呼んでいるらしい。妹のことをニックネームで呼ぶなんて、よっぽど仲がいいのだろう
いや、ちょっと待ってくれ。
「……黒神が?」
「俺も黒神だアホ」
「あ、えっと、妹のほう」
「おう。お前のこと手伝うように頼んどいたから。じゃ、よろしくな!」
最後のよろしくな、は俺に対しての台詞ではなかった。黒神兄は教室の後ろのほうに向かってそう言い残し、そのまま教室を去った。
帰宅部生にしても部活動生にしても、既に教室を出ている。
つまりこの部屋は。
俺と、黒神桜夜の——ふたりきりだった。
「…………」
黒神は校庭側の窓を、後ろから順番に鍵を閉めているところだった。例の細長い、革製のケースを肩にかけている。
校庭を走る運動部の喧騒。校内に響き渡る吹奏楽部の音楽。放課後でも学校はにぎやかだ。だというのに、ふたりきりの教室は、どこか静かに感じられる。
「あのさ」
「…………」
「先に帰ってもらっても、大丈夫だが」
「…………」
「部活とか、あるんじゃないのか」
「…………」
「えっと」
「…………」
「…………」
「…………」
彼女からの反応は期待できそうになかった。
会話にすらならない会話を切り、自分の席に戻った。そして黒神兄に手渡された日誌を広げ、空白の項目と向き合う。ちらり、と黒神の様子を見てみると、彼女は既に校庭側の窓をすべて閉め終えて廊下側に移動していた。黙々と仕事をこなしているその様子は、普通に手伝ってくれているだけのように見える。
校庭側の窓をすべて閉めたことで、グラウンドに響く声がくぐもったように感じた。それがより、この教室の静けさを際立たせたような気がする。
ペンケースからシャープペンシルを取り出したところで、唐突に、
「今日」
と、黒神が口を開いた。
その声に、俺は顔を上げる。彼女は廊下側の窓もかけ終わったのか、教室の後ろの扉を閉めようとしているところだった。がちゃり、という鍵の音が教室に響く。
「晩ご飯の当番、ハクなの」
「はく? ハクって、黒神兄のことか?」
「しかも、肉じゃが」
投げたボールは打ち返されることもなく地面に落ちた。言葉のキャッチボールは失敗に終わる。
どうやら、黒神兄が妹のことを『サク』と呼ぶように、彼女も兄のことを『ハク』というニックネームで呼んでいるらしい。仲のいい兄妹だ。
彼の用事とは夕食当番のことか、と納得する。しかしわからないのは、そんな話題を切り出した黒神の意図だ。
考えながらも視線を机に落とし、あらためて日誌と向き合う。『一日のまとめ』と言われても、こちらとしては『特に何もない普通の一日でした。』としか思いつかない。今朝の彼女とのことを書くわけにもいくまい。
それでも書かなくてはいけないのだから、前日のページを参考にしながら適当に項目を埋めていく。
「黒神兄の料理ってうまいのか?」
「うん」
黒神はひとつ頷く。キャッチボールが成功した瞬間である。
彼女との対話が成立したところで、やはりその意図はわからない。
教室は変わらず静かで、ページの上を走る俺のペンの音が広い空間に響いている。ぱた、ぱた、と。上履きのスリッパの音がだんだんとこちらに近付いてきていた。
黒神の足音はすぐそばで止まり、がたん、と目の前の椅子が音を立てた。視界の端で、スカートのプリーツが揺れているのが見える。
「だから、早く帰りたいの」
「ん? 帰りたいなら、別に帰っても」
帰っても構わないが、と。そう言おうとして顔を上げる。
しかし、その言葉を言い切ることはできなかった。
顔を上げたその瞬間、まるで狙いを定めていたのかのように——黒神桜夜が、日本刀を向ける。
「動かないで」
教室に差し込む西日に照らされ、それは白くきらめいていた。
刀の刃が、俺の右耳の下——首のつけ根あたりに、ぴたりと当てられる。
「あ、いや、別に動いてもいんだけど、えっと……何動脈だっけ」
「……頸動脈?」
「そう、それ」
「わかった。動かない」
「あ、あと大声も困るかな。うっかり、け……けいどおみゃく? を斬っちゃうかも」
「わかった。黙ろう」
ぱさり、という物音が足元からしたのが聞こえた。視線だけを動かして確認すると、それは例の楽器ケースだとわかる。
いや、俺が勘違いをしていたというだけで、これはきっと楽器ケースなどではないのだろう。たぶん、剣道部が使っている竹刀袋に近いものだ。
俺は黒神の言葉に従い、沈黙を守っていた。文字通り、首の皮一枚、というのだろうか。皮膚を破るか破らないか、そんなぎりぎりの加減で刃は首に押しつけられていることがわかる。
彼女は兄の椅子に片足を乗せ、大きく引いた左手で柄を持ち、右手で峰を支えていた。
黒神は微動だにしない。
少しでも抵抗すれば即座に殺せる構えを保ち、彼女は静止している。
「ほっぺ、どうしたの?」
不意に、黒神は右手で、ガーゼ越しに俺の頬を撫でた。支えを失った日本刀は、それでも揺らがない。
「今朝、お前に斬られた」
「うん、そうだよ。私が斬った」
あっさりと。
拍子抜けしてしまうくらいにあっさりと、彼女は肯定した。
「お前が、通り魔なのか?」
「うん、そうだよ。私が通り魔」
俺の質問にも、黒神は頷く。
自分が通り魔であることを——彼女は、認めたのだった。
「照井先生を斬ったのも、翔鶴の櫛谷さんを斬ったのも、ほかの四人を斬ったのも——全部、私」
話しながら、彼女はゆっくりと右手を再び峰の支えに戻す。
黒神の瞳は、普段と何も変わらないように思えた。殺意も敵意もない目。虫も殺さないような顔立ちをしている彼女だが、それでも虫を殺すときは多少殺気のある表情をするだろう。
しかし、黒神にはそれがない。
あくまでも、平然としていた。
これは、どういう状況なのだろう。
壁一枚隔てた向こう側、この教室の外はなんの変哲もない日常がある。その現実が、この状況の異常さをより引き立てていた。廊下を通った誰かが、ほんの気まぐれで扉を開けたりすれば、たったそれだけで彼女の人生は終わるのだから。
そこで、ふと気付いた。この教室の窓を閉めていたのは黒神だ。後ろの扉の鍵をかけている姿も、俺はこの目で見ている。
もしかすると、目を離していた隙にもう片方の扉の鍵もかけていたのではないか。
例えば俺が大声を上げ、誰かに助けを求めたとしても。内側から鍵をかけたこの密室に入るには時間がかかるだろう。
その時間に、彼女が俺を斬り殺すことは可能だ。
黒神は最初から、この状況を作るつもりだったんじゃないのか。
あまりにも、手際がよすぎる。
「紅野くんに今朝のことを黙ってもらうために、何をすればいいか、考えてみたの。考えてみて、これが最善だと思ったの。——そうだ、脅迫しようって」
「…………」
「だから、早く帰りたかったけど居残りしたんだよ。ほんとは早く帰ってハクのご飯食べたかったんだけど、それ以上にあなたとお話がしたかったから……っていうか、紅野くんを脅迫しときたかったから」
そんな『そうだ。京都、行こう。』みたいなノリで人を脅すのか。それはなんというか、悪い意味で行動力のあることだ。
「ねえ、紅野くん。紅野、樹月くん。一生のお願いがあるの」
彼女は、俺の名前を繰り返し呼ぶ。
もしもこの世界がフィクションなら、黒神の『お願い』という台詞の横に『きょうはく』とルビが振られていることだろう。
「誰にも言わないで。言ったら殺す」
「わかった」
頷いてみせると、彼女は何故か驚いたように目を見開いた。
「え……即答? 少しは交渉するとか、抵抗するとか……そういうの、ないの?」
「お前が言うなって言ったんだろ」
「それは、そうなんだけど。私が言うなって言ったから、誰にも言わないの? 紅野くんは」
「お前が言うなって言ったから、誰にも言わないんだ。俺は」
黒神は得心のいかない様子だった。その表情を眺めながら、俺は言葉を続ける。
「殺されようが殺されまいがどっちでもいいんだが、可能なら死にたくはないからな。抵抗することも面倒だし、お前に従ったついでに生かされるというのなら、それでいい」
「そっちがついでなんだ」
ふうん、と彼女は呟いた。
「ひょっとしてあれかな、紅野くん。今日一日私のことを黙ってたのも、事情聴取とか現場検証とか、色々めんどくさかったから?」
「よくわかったな」
「当たりなんだ? へえ、意外とめんどくさがり屋さんなんだね……紅野くん、変わってるって言われない?」
「そんな言うまでもないこと、わざわざ本人に言うやつはいないだろ」
「そう? 私は紅野くんのこと、結構普通だと思ってたんだけどな」
どくん——と。
その言葉に、自分の心臓が揺れ動いたのがわかった。
「……それで、脅迫とやらは終わりなのか? 日誌を提出したいんだが」
「えっと、あと少し待って」
「わかった」
「ありがと」
そう言って、黒神はゆっくりと——ではなく、素早い動作で刀を引いた。左手でくるりと回転させ、まるで腰の鞘に収めるかのように、そのまま逆手で腰の横に添える。
「私が紅野くんを殺さないための条件は三つ。この三つを守ってくれたら、私はあなたを殺さないと約束する」
「どうせ拒否権はないんだろう?」
「あるよ。殺すけどね」
彼女は兄の椅子から足を降ろし、折れたスカートの裾をぱたぱたと右手ではたいて直す。そんな女子らしい仕草をしながらも、言っていることは物騒だった。
「わかった。内容は?」
「ひとつ目はさっき言った通り。今朝のことは誰にも、何も言わないで」
「わかった、誰にも何も言わない。ふたつ目は?」
「私に、嘘をつかないこと」
黒神桜夜は。
意図的に声を絞ったかのような、そんな静かな声で、
「——毒は、嫌いなの」
と、そう言った。
毒。
嘘をつくな、というのは別に構わない。しかし、嘘と毒に何の関係があるのだろう。
黒神が嫌う毒とは、いったい何を指しているのだろうか。
そんなことを考えていると、唐突に下のほうから、とん、という音が響いた。
その音につられて見下ろしてみると、彼女が手を離したのだろう——教室の床に、日本刀が深く突き刺さっているのが視界に入る。
今朝の件で薄々察してはいたものの、黒神の刀は実は模擬刀だった、という平和的な可能性はこれで消え去る。どうやら刃の手入れも行き届いているらしく、その切れ味は今のでよく理解できた。
この法治国家で、どんな手段を使ってそんな真剣を手に入れたのだろうか。
「わかった、俺はお前に嘘をつかない。三つ目は?」
不意に。
彼女は兄の椅子に片膝をかけたと思うと、そのまま椅子の背に上半身を預けるようにもたれかかる。自然、黒神の体勢からだと普通に座っている俺は視線の上のほうにあるわけで、彼女は上目遣いでこちらを見つめてきた。
「……? 三つ目はないのか?」
そう言うと、黒神は机に手をつき、ぐっと距離を詰めてきた。同時に、ふわり、と花のような甘い香りを感じる。
彼女の様子をぼんやりと眺めていると、唐突に、黒神は俺のワイシャツの襟を掴んで勢いよく引いた。抵抗する間もなく、されるがまま引き寄せられると同時に——喉仏に、親指を食い込ませてくる。
そして耳元に唇を寄せると。
黒神桜夜はささやくような声で、最後の『お願い』を口にしたのだった。
「私と、付き合ってほしいの」
最初のコメントを投稿しよう!