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「こんにちは」
随分暑くなったね。窓越しに声をかけられ心臓が跳ね上がった。真夏を思わせる日差しに、彼の髪が明るく透けている。やや茶色がかった髪は、しばらく見ない間に少し短く切られていた。
「しばらく見なかったから、どうしたのかと」
動揺を悟られないように落ち着いて話しかける。彼は少し照れたように笑った。
「仕事が立て込んでいてね。自宅に缶詰状態だった」
自営業? 自由業? もう来ないんじゃないかと沈んでいた気分は一瞬のうちに空まで舞い上がった。
貨物列車の最後尾が通り過ぎる。俺は慌てて助手席に置いていた封筒を探った。
「先々週は撮れなかったけど、先週の……って言っても携帯のだし、しかも失敗したんだけど……っ」
慌ててしゃべったせいでややどもってしまう。彼が驚いたように窓越しに封筒を受け取った。その姿を見て自然と笑みがこぼれる。
前の車が動き出した。踏切が故障でもすりゃいいのに。心の中に毒づきながら、それじゃと手を振って車を発進させた。
「ありがとう」
後方から慌てたような声が追いかけてくる。バックミラーに映った顔に思わず見蕩れた。ハッとするような綺麗な笑顔。
もう確信している。自分はこの人を好きになってしまった。毎週月曜日、ただ一本の電車を撮り続けていることを知っているだけで、名前も知らないこの人を。
自宅のプリンターから印刷した写真を入れるとき、何か手紙でも入れようかと本気で悩んだ。例えば電話番号、メールアドレス。出勤間際まで悩んで、結局は封筒の裏に名前だけを書いた。
一條梓と言う名前が彼の中に滑り込んだだろうこと、それだけでも嬉しくなった。
翌週、お返しにと封筒を手渡された。コンビニの駐車場に車を入れて慎重に中身を取り出す。
中央には見慣れた赤い営業車。後方からはトワイライトエクスプレスが接近していた。車の中の梓はぼうっとした表情でハンドルに手をかけている。
当然だ。桜の木の下でカメラを構える人に見蕩れていたんだから。
封筒の裏を見ると端正な字で「葉山奏」と署名されていた。「はやまそう」と読むのだろうか。封筒を手に、気持ち悪いまでににやけてしまう自分を止めることができなかった。
第一の目標を達成してしまった。
次は?
名前を知って、それからどうしようか。
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