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珍しく残業もなかった水曜日の晩。なんとなく書店へと立ち寄った。雑誌のコーナーで寝台特急の表示がある一冊を手にとってめくる。見慣れた濃いグリーンのボディ……豪華な内装。しかし、そこからはあの人が向ける眼差しの真意を計ることはできなかった。
一瞬買おうかどうか迷ったが、結局は苦笑いで棚へと戻す。冷静に考えれば買ったところであの人に近づけるものでもないことは明白だ。
適当に夕食でも食べて帰ろうか。
自動ドアへと足を向けた瞬間、思わず目を疑った。
「こんばんは」
この機を逃すまいと、頭で考える間もなく言葉が口から出た。まさに今、自動ドアから入った奏が驚いたように目を見張る。次いで同じように「こんばんは」と微笑んだ。
あいさつをしたものの、次に何をしゃべるべきか全く考えていなかった。とにかく話題を振らなければ。
「写真、ありがとうございました」
咄嗟にお返しにもらった写真の礼を言う。
「こちらこそ。あと、傘とジュースも」
そう言った奏が楽しそうに笑う。落ち着いた仕草に、奏の周りだけ穏やかな空気が流れているような気がした。
「はやまそう、さん……って読むんですか?」
「残念。はやまかなでと言います」
奏と書いて「かなで」。繊細な響きに思わず納得してしまう。
「小さい頃はよく「葉山荘」なんてからかわれたけどね」
そういって奏はいたずらっぽく片目を瞑って見せた。おどけた仕草にまた目を奪われる。
「一條さんは「あずさ」さん?」
穏やかな口調で名前を呼ばれて鼓動が早くなる。
「はい。よく女の子と間違われますね」
そう答えて苦笑いした。間近で見る奏から目が離せない。あまりまじまじと見ても失礼かと思い普通に振舞おうとするが、もはや普通がどうなのかさえ分からなくなっていた。
もっと話がしたい。
「あの、奏さん。もし時間があればメシでも行きませんか?」
突然過ぎかとも思ったが、次があるとも限らない。ダメ元だと誘った。奏は一瞬驚いたように見つめてきたが、すぐに、いいねと笑って了承してくれた。
お互いの好みのすり合わせをする時間も惜しく、手ごろな近くのファミレスチェーンへと入った。食事時ということもあって店内はやや混みあっている。
四人がけのテーブル席に誘導され、それぞれ注文を通した。空腹でもはや肉しか目に入らずサイコロステーキセットを頼んだ梓と対照的に、奏はクリームソースのオムライスだ。ウェイトレスが下がると、一緒に注文したドリンクバーを取りに席を立った。
クリームソーダ。思わず目を疑った。奏が嬉々としてグラスに注いだものは、メロンソーダとその上にバニラアイス。食事と一緒にするにはちょっと合わない組み合わせ。というよりも、成人男性が飲むには失礼だが少々馴染まない。いや、好みは人それぞれなんだけど。
「奏さん? アイスは食後のほうがいいんじゃ……」
自分のグラスに烏龍茶を注ぎながら思わず突っ込んでしまう。奏の顔がやや朱に染まったように見えた。クールなイメージの奏が照れたように目を逸らす様は凶悪なまでにかわいい。
「いや、つい」
奏がもそもそと小声で言い訳をしている。その様子に「アイスが好きなんだ」と分かってしまった。アイスというか甘い飲み物がきっと好きなんだ。
席に戻って、注文の品が来るよりも先に、幸せそうにアイスを口に運ぶ奏に目が釘付けになる。
「奏さんって電車好き? カメラ好き?」
「やっぱりそう見える?」
あ、違うのだろうか。理由を聞いてもいいのだろうか――と逡巡する。しかし結論を出すまでもなく奏から重ねて言葉が発せられた。
「あの電車をね、撮っているんだ」
そう言ってやや恥ずかしそうに目を細める。
「トワイライトエクスプレス?」
「そう」
「月曜日にだけ?」
続けて問いかけると奏が一瞬押し黙った。しまった。聞いてはいけないことだったのか。
「いい加減やめないといけないんだけどね……」
どこか遠くを見るように反らされた視線。その言葉は梓に対してというよりも、自分にいい聞かせるようなそんな響きだった。寂しそうにすら思えた声のトーンに、聞き返してはいけないような気がして黙り込む。
気まずい沈黙を助けるかのように、ウェイトレスが注文の品を持ってきた。会話を中断して食事に取り掛かる。
「グリーンピース嫌い?」
ふと見ると奏がオムライスの中に入っていたらしいグリーンピースを、スプーンで器用に皿の端へと避けている。その仕草がまるで子どものように思えて、ついついからかいの言葉をかけてしまう。
ああ、空気がもとに戻った。
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