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 電車通勤で三駅。大学のときから住み続けているワンルームマンションに今も居座っている。広い部屋に引っ越そうかと思ったこともあるが、結局は面倒でずるずると住み続けていた。  奏が来る前にちょっと部屋を片づけて。そんなことを思いながら足早にマンションのエントランスを見ると、昼間と同じ姿の奏が梓を待っていた。 「奏? え? なんで?」  会社を出るときに電話をした奏がすでに到着している。移動手段は梓と同じく徒歩と電車。電話した瞬間に家を出たとしても、早くて同時に到着するのが精一杯だろうと思う。 「この近くにいたから」  そう言って笑った奏に胸が高鳴る。わざわざ待っててくれたのかな、なんて……。  部屋、片づけてないよ、言い訳をして鍵を開けた。 「奏、晩飯もう食べた?」 「そういえばまだ」  途端に空腹を思い出して、何かあったかとキッチンへと向かった。自分の記憶から零れ落ちていたような食材でもないかと軽く期待したけれど、冷蔵庫も食料庫も結局は予想以上の食べ物は入っていない。 「カップ麺ならある。それか食べに行く?」  申し訳ない思いでカップ麺の各種を掲げて見せると、覗き込んだ奏が笑った。 「選びがいがあるね。って塩味ばっかりだけど」  フローリングに並べられたカップ麺を選びながら奏が目を丸くした。確かに塩味ばっかり。基本的に何でも食べるほうだが、なんとなく選ぶのは塩が多い気がする。しかも新作が出るとついつい買い置きがあっても買ってしまうため、在庫がどんどん増えていってしまう。 「なんか侘しいかも……」  カップ麺をすすりながらぼやく。カップ麺とビールだけの夕食、一人で食べるより二人で食べるほうが何となく虚しいのは気のせいだろうか。  曇るからとメガネを外した奏は睨みつけるように麺を啜っている。傍から見れば不味いのかと勘違いをしそうだが、単に麺が見えないのだ。  麺を食べ終えたスープに、レンジで温めるタイプの白米を投入して混ぜる。決して行儀のよい食べ方ではないけど、さすがにラーメン一個では全く足りない。真似て同じように身体に悪そうな雑炊を食べた奏が「意外とおいしい」と呟く。踏切で見ていただけの頃なら、奏がカップ麺を食べている姿なんて想像できなかったけど、やっぱり一人暮らしの男なんてそんなもんだ。 「……梓、塩ラーメン食べに行こうか?」 「おいしいとこ知ってるの?」  唐突な誘いに普通に答えると、奏ががっくりと肩を落とした。訳が分からず動揺していると奏が恨みがましい目で見つめてくる。 「え? 何? なんか俺おかしなこと言った?」 「梓から誘ったくせに」 「……っえぇ? 北海道? いいの?」  想像外の結果に、まるで学生のようなノリで身を乗り出してしまい、慌てて座りなおす。いい年してさすがにこの反応は恥ずかしい。けど、まさかOKが来るとは想像していなかった。  理由がラーメンなのは奏なりの妥協点なのかもしれない。ラーメンを食べに行くついでに……。逆に考えれば、そんなしょうもない言い訳でもないと行動に移せなかったのだ。 「でも電車は無理だよ? この時季に希望の日なんてチケット取れないから」 「そうなの?」  電車で行こうと言ったのも全くの思い付きだったため、かの電車のチケットを取るのがいかに大変なのか知る由もなかった。ましてや北海道旅行はこれからがトップシーズンだ。自由業の奏に比べて自分は休みも思い通りに取れるとは限らない。 「それに時間もかかるからね」  片道が約十二時間かかると聞いて更に愕然とした。移動だけで一日が過ぎてしまう。本屋でチラッと立ち読んだ感じでは意外と豪華で高価というイメージしかなかったが、サラリーマンの身では時間的な制約のほうが問題だ。  驚きを隠せない梓を、奏が腹を抱えて笑っていた。こんな笑顔が見れるならいいか。  移動は飛行機。ここからなら空港も近い。旅程は梓の休みに合わせて一泊二日、やや強行軍。  行き先は。 「奏の行く場所についていくよ」  奏が戸惑ったように視線を泳がせ、ようやく小さい頷きを返した。プレッシャーにならないようにと「おいしいラーメン屋さんも探しておいて」と言い付けた。これならもし奏が思い切ることができなかったとしても逃げ道になるから。  奏が小さく息を吐いてフローリングの上で仰向けに寝転がった。 「メガネ歪むよ?」  横からメガネを外してローテーブルに置いてやる。 「俺の顔見える?」 「全然」  きっぱりと言い切る奏に、半分の距離まで顔を近づける。 「ここからは?」 「梓だってことが分かる程度」  更に半分距離を縮める。 「これなら?」 「見えるよ」 「この辺に傷跡あるんだけど見える?」  眉間の辺りを指で示しながら尋ねた。目を細めて奏が睨みつけるように梓を見る。確認できなかったのか首を傾げながらやや上体を起こした。  額が付きそうなほどの距離に奏の顔がある。  あった! 傷跡を見つけた奏が眉間を指で触れた。  奏までの距離をゼロにする。それから軽く啄ばむように唇を重ねた。  奏が口づけに応える前にその身を離す。  それが、梓なりのけじめだ。 「別にいいのに」  呟く奏の前髪をかき混ぜた。自分が意外と我慢強いことに満足する。 「梓はどうして別れたの?」 「気になる?」 「うん」素直に頷かれてどこかくすぐったくなった。奏の中に占める梓の割合は今どれくらい? 「梓が振られるとか想像できないし……振った?」 「どっちもハズレ」  口を開きかけた奏が、言葉がうまく見つからないのかそのまま口を閉じる。 「お互いにね、逃げちゃったんだと思う。自分に向き合うこととか、話し合うこととか……すれ違い始めてた現状を見てみぬ振りして過ごしてるうちに元に戻れなくなったんだ」  空気が重くならないように軽く笑ってみせた。言葉に出すと胸の錘が再び重く圧し掛かるような気がする。 「怖かったんだと思うよ」  奏が呟く。 「梓は優しい。そんな梓から離れることがきっと怖かったんだと思う」 「奏、俺のこと買いかぶりすぎ」  慰めてくれたのだろうか。思い切り持ち上げられた気がして落ち着かない。 「俺ね。いっつも相手を追い詰めてしまうんだ」  思い込むと相手の気持ちを置き去りにして突っ走ってしまう。相手が悩んでいても無神経に「大丈夫」なんて言い切って自分に引き寄せようとしてしまう。  相手の気持ちを考えること。ずっと答えを導きだせない梓の課題。 「そんな風には見えないけど」  疑うような目で奏に見られて苦笑いがこぼれる。 「だって反省してるもん。直そうと努力してるんだよ、これでも」  首を傾げておどけて見せると奏がつられて笑う。ああ、いい表情してくれた。思わず頬に触れたくなって、慌てて意識を逸らせた。触れたらきっと次はキスしたくなる。そして次は。  相手の気持ちを考えること。梓が触れても奏はきっと嫌がらない。だけどそのことを後悔するときがくる。身代わりにしてしまった罪悪感に苛まれる奏なんか、想像するだけで嫌だった。
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