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奏
上着を持ってきてよかった。
昼間は半袖でもちょうどよかった気温は夕方になってぐっと下がった。大きめのリュックに入れておいた長袖のパーカーを羽織る。横を見ると梓も同じようにショルダーから長袖シャツを出して羽織っていた。
私服の梓を見ることはあまりない。春先だとワイシャツの上に会社指定のジャンパーを羽織っていたし、夏はクールビズなのかネクタイなしで会社指定の半袖シャツ姿。夜の会うときでも大抵は仕事帰りで同じ服装。
服飾に興味はないしどこのブランドなのか全く分からないが、思ったよりもカジュアルな装いだった。
関空から函館空港、そこからは時間優先で道内の移動にも空路を使う。昼前に札幌丘珠空港に到着して、JRの駅近くのラーメン屋で遅めの昼食をとった。
口実にしたラーメン屋が済むとすることがなくなってしまう。目的地を聞いてくることもなく梓は隣を歩いていた。至るところに掲げられた標識を目印に歩道を歩いていく。
目指す場所に近づくにつれて動悸が激しくなってきた。何か言った方がいいとは頭では考えてもうまく言葉にできない。何も言わずに隣にいてくれる梓の存在に救われた。
一人でならきっとここまで来ることもできなかっただろうから。
テレビや雑誌などで見たことのある風景が視界の隅に入る。
車両は一方通行になっている道路を入り……。交差点……目の前の喫茶店の人が救急車を手配してくれたって言ってたっけ。
不意に足が動かなくなった。
特別なことなど何もない光景。
交差点を通過する車の音もどこか遠くへ流れていき、人通りの多いはずの場所にただ一人立ち尽くしているかのような錯覚に襲われた。
「奏」
不意に耳元で声が聞こえる。その声を合図にしたかのように、再び周りの景色が動きはじめた。いつの間にか梓が手を握っている。
「奏、少しだけ待ってて?」
穏やかに微笑んだ梓がゆっくりと手を離して駆け出した。一人にしないでと声をかける間もなくその姿が角に消える。周囲の景色が再び凍り付いていく。
「……なで、奏!!」
再びの声に意識を呼び戻される。肩で息をしながら梓が覗き込んでいた。随分と走ったのか頬は高潮し、吐く息が白く見えるかのようだ。その手には……。
「は・な……」
小花で纏められた上品な花束。もう一方には馴染みのないロゴの入ったスーパーの袋。
はい。そう渡され思わず受け取ったものの、足は縫い付けられたようにその場から動かなかった。
この辺でいいかな。呟きながら梓がナイロンから出した缶ビールをガードレールの支柱に沿って置いていく。しゃがんでゆっくりと手を合わせた梓が振り返って見上げた。
「奏。おいでよ」
梓の声が凍りついた足元を溶かす。まるで歩き方を忘れたようにぎごちなく歩み寄り、寄り添うように隣にしゃがみ込んだ。
梓から渡された花束を缶ビールの横に立てかける。
「…………っぅあ――」
両手を合わそうとした瞬間、涙が溢れ出した。次から次へと止め処なく流れていく。梓の手が泣く子を宥めるように背中をさすってくれていた。
「……ごめっ――コ……イチ……ずっと、これ、なくて」
いなくなったことにすら向き合えずに現実からずっと目を背け続けた。認めていなかったのだから泣けるはずもない。
あの日止まった時間がやっと動きはじめた。
辺りが薄暗くなるころ、梓がゆっくりと腕を引いて立たせてくれる。長時間しゃがみ込んでたせいで足が痺れてうまく立ち上がれなかった。感覚が戻るまで梓にもたれかかるように俯いた。
「コーヒーでも飲んでいこうか?」
いつもと変わらない穏やかな梓の声につられて無意識に足を運んだ。振り返った先の喫茶店へと入る。
いらっしゃいませ。初老の店主に案内され周りからはやや独立したテーブルへと座った。そのままカウンターの中に戻った店主が濡れタオルを差し出してくれる。
長時間、交差点でしゃがみ込んでいた男二人の様子は店内から見えていたのだろう。小さく礼を言ってタオルで顔を抑えた。きっと酷い顔になっている。
梓がコーヒーとサンドイッチを注文する声が聞こえた。
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