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その晩、久しぶりに誘われて飲みに出た。社内では比較的よく誘いを受けるほうだと思うが、歓送迎会などを除いてはほとんど参加することはない。飲み会と言う名目の、コンパ的雰囲気はどうも好きになれないのだ。
今晩の相手ももちろん同僚などではない。半年前から友人関係に変化した元彼というやつだ。誘いを受けたと言っても別に色恋に繋がるものでもなくお互いに近況報告、といった軽いものだった。
まぁ気安い相手なのは間違いなく、別れた今でも一緒にいて楽ではある。
あの人も酒とか飲んだりするのだろうか? 酔って赤くなったりしたら絶対に色っぽいはず。
馴染みのバーに顔を出すと、恭介はカウンターでバーテン相手に歓談していた。前回会ったときよりも髪が短く切られている。付き合っているときは梓の好みに合わせて伸ばしていたのかなんて、今さらなことを考えた。
「恭介、久しぶり」
背後から肩を叩くと、恭介がビクッと振り返る。元恋人の顔を見つけた恭介が笑顔を向けてきた。
「梓、おまえちょっと焼けた?」
恭介が梓の腕をつついていたずらっぽく笑う。「そうかもな」なんて呟きながら、カウンターに着いた。
顔見知りのバーテンは何も言わずともグラスを差し出してくれる。一杯目は必ずブラックルシアン。食後に立ち寄ることが多かったころに冗談で「食後のコーヒーにも酒が入ってりゃいいのに」なんて言ったところ、それじゃあ、と差し出されたカクテルだ。
甘口のコーヒー味と強いアルコールが癖になり、いつの間にかはまってしまった。
「最近どう?」
小さな四角い包みを開きながら恭介が話しかけてくる。恭介お気に入りのスモークチーズ。五年も一緒にいれば大抵のことは分かってしまう。
「特に変わらない。恭介は?」
脳裏に踏切の男を思い浮かべながら、当たり前の顔をして話を繋げた。この感情は誰かに言ってしまうのが惜しいようなそんな気がしたのだ。
「同じく」
恭介が笑う。その表情におや? と気づいてしまった。
「嘘だろ?」
上目遣いにからかってやると案の定だ。恭介の頬が微妙に上気したのが見えた。
なんで分かるんだよ。微かに呟く様がなんとも可笑しい。ああ、やっぱり終わってたんだ、今さらながら実感した。誰かに思いを寄せているらしい元恋人を見ても何とも思わなかった自分にどこかホッとした。
「こんなとこで元彼と飲んでていいのか?」
笑いながら突くと「そんなんじゃない」と頬を膨らませている。恋人未満なんだ、と分かってどうにも微笑ましい。わざわざ誘ってきたと言うことは、何か聞いて欲しかったんだろうかと慎重に問いを考えた。
「どんなヤツ?」
「……店の常連客」
恭介はシティホテルのラウンジで働いている。そこの客と言うことはまぁまぁなランクなのだろうかと想像してみた。
「商談っぽい感じでよく来てて、何回かしゃべったりしてたら昨日名刺渡された」
恭介の頬があからさまに染まる。ということは恭介としても満更でもないということだろう。
「で、連絡したのか?」
「まだ……」
きまり悪そうに呟く恭介に苦笑した。なんというか相変わらず変なところで心配性なやつだ。どうせ頭でグルグル考えてどうにも決心できずにいるのだろう。
梓と付き合うときも、好意を向けてきているのは間違いないくせに思い切れず、半ば無理やり口説き落としたのだ。
「梓の言いたいことは分かってるから黙って」
まさに口に出そうとした苦言を遮られ、思わず口を押さえた。どうやら自覚はあるらしい。分かっているならさっさと連絡しろと背を押したくなる衝動を何とか止めた。
「明日、電話する」
恭介が真っ直ぐにこっちを見て宣言した。思わぬ強気に驚いた。そんな元恋人を見た恭介は少し恥ずかしそうに下を向き、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ、梓のお陰だからな。こうやって自分の気持ちを言おうと思えるようになったの。それが言いたかった」
強くなったんだ。恭介の変化がどこか誇らしく、そしてほんの少しだけ寂しい。
上手くいったら教えろよ。そう言ってやると、恭介が大きく笑って頷いた。
「梓もな。梓の恋人になるやつは絶対幸せだから」
恭介の言葉が素直にうれしかった。幸せにしてやれなかったのに。
「だったらいいけどな……」
思わず片思い中の相手を思い浮かべて、心の中で苦笑いが出た。プラトニックな現状に一喜一憂しているなどと言えば、恭介はきっと大笑いするだろう。
幸せそうな恭介に、どこか引っかかっていた錘が消えたような気がした。
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