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あの人がカメラを下ろしてから後続車が来るまで約十秒。話しかけるとしたらあいさつと、あとは何が言えるだろうか。
お名前は? いきなり聞くと変なやつになってしまうよな。
お疲れ様です? いや、仕事じゃないんだし……。
いつも見てます。おかしいだろ、ストーカーだよ、それは。一昔前の少女漫画じゃないんだからもうちょっと気の利いた……。けど、いつも通り過ぎてるってもう気づかれてるし。
自己分析をした結果の欠点。思い込んだら突っ走ってしまうところ。
その改善策は「相手の気持ちを考えること」だ。この状況の最善は……まだ、無難にあいさつだけをするのが吉。
あの人にとったら、自分は毎日同じ時間に通りかかる仕事中の営業マンで、ただ数回言葉を交わしただけの相手なのだから。
突発的なアクシデントにでも見舞われて梓が助けるような、馬鹿げた偶然に期待するくらいが関の山だろう。
第一の目標は名前を知ることに決めた。
それなのに、目標を立てた途端会えなくなってしまった。翌週の月曜日、初めて見る無人の桜木の下に動揺した。せっかく中間点で停車できてもあの人の横顔を見ることは叶わない。
「今日は来てないのか?」
開け放した窓から桜に向かって呟いた。目を閉じればカメラを構えるあの姿が鮮明に思い浮かぶ。だけど再び目を開いた瞬間、空白になった幹に肩を落とすのだ。
そりゃ、用事のある日だってあるのだろう。毎週かかさず来ているほうが珍しいんだから。来週は会えるだろうか。
会いたい。
梓の期待を嘲笑うかのように翌週もカメラの人はいなかった。背後で遮断機が下りた瞬間、車を降りて桜の下に駆け寄る。尻のポケットから携帯端末を取り出してカメラを起動させた。なるべくあの人が構えていたのと同じ角度になるように――。
シャッター音が響く。先頭車両が中心に来るように狙ったはずが、型落ち機種のカメラ機能ではシャッター速度が追いつかず二両目が中心に入ってしまった。
運転席に乗り込んでサイドブレーキを戻す。
会いたい――。
社用車のラジオから流れるニュースに、日本列島が梅雨明けしたと聞いた。
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