第7話 夕陽の部屋(後)

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第7話 夕陽の部屋(後)

佐々木が出て行ってから3ヶ月が経った。 9月も中旬を過ぎ、暑い日々が続く中にも、いつの間にか秋の気配が漂う季節になった。 雅美は、日々というものが、こんなにも淡々と過ぎて行くものなのか、と感心した。 昨日も1週間前も1ヶ月前も、何も変わらず同じ事を繰り返している。 朝食を取り家事をしてファミレスに出勤してテレビを少し見て風呂に入って寝る。 考えなくて良いので、バラエティ番組をよく見たが、点けているだけで面白くも何とも無かった。 母親は自分を19歳で産み、41歳で亡くなった。 薄幸な人だと思っていた。 自分がいなければもっと自由に生きられたのに、自分の存在が幸せの足枷(あしかせ)になったのだろう。 ずっと、そう思っていた。 でも、最近、もしかすれば、自分の存在が生きる糧になっていたのかも、と思うようになった。 もし、今、佐々木との子供がここにいたら、とても貧しいかも知れないが、こんなに寂しくは無かっただろうし、こんなに刹那(せつな)的な気持ちで生きることも無かっただろうと思った。 いや、貧しくても生きることにもっと前向きになっていただろう。 そう思えば思うほど、子供を作ってくれなかった佐々木を恨めしく思った。 (もちろん、もし、子供がいたら生活に困窮し、苦しんでいただろうが・・・) 母親が亡くなった歳まで、あと4年。この淡々とした日々を過ごし、いつの間にか母親の歳を越えるのだろうな、と思うと、この先が思い()られた。 今日は早番だったので、まだ、明るい内に部屋へ戻れた。以前と同じように、佐々木が勤めていたスーパーで食材を調達して帰ってきた。 佐々木と暮らしていた時は、食事を作るのも楽しかった。今は、とにかく手を抜いて作っている。 食材を冷蔵庫に片付け、一息ついていると、ドアをノックする音がした。宅配便も含め来訪者など珍しい事だ。選挙も近いのでどこかの候補者への投票依頼だろうか、などと思いながらドアを開けた。 ドアの外には、佐々木と葵が立っていた。佐々木はキャリーバッグと綺麗な紙袋を持っており、葵はリュックを背負っていた。 雅美は事態が飲み込めず、黙ったまま突っ立っていた。 「久しぶりだね。中に入ってもいいかな」佐々木が言った。 「あっ、ああ、どうぞ」 「いや、それよりも、夕食がまだなら食べに行かないか?」 そう言って、近くにある『ガスト』に誘った。 夕方の少し早い時間だったので、まだ混んではいなかった。 佐々木と葵が並んで、雅美が向かい側に座った。 「どうして?」雅美が訊いた。 ・・・・・ 話は、3ヶ月前の日暮里のルノアールに戻る。 佐々木が雅美に連れられてルノアール来ると、見知らぬ男性(所長)が待っていた。 見知らぬ男性が、雅美を遠ざけ、二人相対して座った後に佐々木が口を開いた。 「どのような御用ですか」 「私は雅美さんと付き合っています。別れていただけませんか?」所長が言った。 「あり得ないですね。雅美と何を企んでいるのですか?」 所長はため息をついて言った。 「やはり、判りますか。実は、雅美さんから、あなたに、そう言うように依頼されています」 「何の為に?」 「佐々木さんが、ご自身の心に呵責無く、葵さんの所、()いては、元の奥さんの所へ戻れるようにです」 「どうして?」 「最近元気の無いあなたをとても心配しています。雅美さんは催事会社の社員の方に聞いて、その原因を知っています」 「雅美の考えそうな事だ。馬鹿なヤツだなあ」 「あなたのことをとても愛しておられます」 「ありがたい事です」 ここで、コーヒーが運ばれてきて話は中断したが店員が去ると、話は続いた。 「ここは雅美さんの気持ちを汲んで、雅美さんと別れていただけませんか?」 「何を言っているんですか。雅美を一人に出来る(わけ)など無いじゃないか」少し語気強く佐々木が言った。 「でも、それが雅美さんの望みなのです」 そう言ってから、雅美が恋人屋本舗に来て話をした内容を佐々木に伝えた。 佐々木は腕組みをして考え込んだ。 「雅美さんはあなたを葵さんの元に戻すことが自分にとっても一番良い選択なのだと言っています。何度も悩んだ末の結論だと。この決心は固いと思います」 「・・・・」 「ここであなたが拒んでも、雅美さんが承知しないでしょう。もしかしたら、雅美さんが出て行ってしまうかも知れない。それほど、自分の事よりもあなたを葵さんの所へ戻そうと真剣に考えている」 「僕にとって雅美も葵も大切です。どうすれば・・・」 「ここは、とにかく雅美さんの希望に添いましょう」 「でも、そんな事をすれば、雅美を失う。なにより雅美を裏切るなんて出来ない」 「一度、別れてあなたが家を出る。それだけです」 「?」 「その後、あなたが何をしようが、あなたの勝手です」 「つまり・・・?」 「つまり、佐々木さんが大事なものを守るために何をしようが構いません。取りあえず、一度、葵さんと元奥さんのところへ行かれてはいかがですか?」 「何をすれば、良いのでしょうか?」 「それはあなたが決めることです。ただ、言えることは、私が調べた限り・・」 「え? 調べた?」 「ええ、盛岡へ行って少し調べました。調べた限り、おそらく葵さんをあなたの手元に置くのは少し時間は掛かりますが、問題無いかと。また、慰謝料を得られる可能性もあります」 「え? 彩乃から」 「それは無理でしょう。お金を持っていないのですから。たとえ裁判して勝訴しても実質回収できません。熊谷常務からです」 「どうすれば・・・」 「私は、客観的な情報と感想を述べています。何をどうしたいのか、はあなたが考えてください。佐々木さん、しっかりしてください。そうしないと、大切なものを失いますよ」 「はい・・・」 「何をどうしたいのかを決めたら、私が少しは、いや、出来るだけサポートします」 控えめに「少しは」と言っても通じなさそうだったので、「出来るだけ」と言い直した。 「上手くいくでしょうか? 私は雅美も葵も手放したくない」 「やってみないと判りません。でも、雅美さんの気持ちを考えると、何もしなければ両方とも失いますよ」 「判りました。取りあえず、雅美を納得させる為に(別れるふりをして)家を出て葵の所へ向かいます」 「そうしてください」 「あの・・・勤めているスーパーはどうすれば・・・、あっ、僕が決める事ですね。すみません」 「その通りです」 「では・・・」そう言って、佐々木が席を立とうとした。 「待ってください。このまま出て行くと、私に説得されて雅美さんを素直に諦めたように見えますよ。それはマズい。私と雅美さんへの怒りをぶつけてください」 「でも、僕、怒れません」笑えるほど穏やかな人だなあ、と所長は思った。 「それではダメです。いいですか、テーブルを少し強く拳で叩いて、このアイスコーヒーを私に掛けて憮然として出て行ってください」 「そんな事、出来ません!」 「雅美さんを手放したくなければ、やりなさい」 「でも・・・」 「さあ!」 佐々木が意を決したように、テーブルを叩いた。客と店員が振り向いた。 少しにらみ合って、佐々木はアイスコーヒーを手に持ち所長の顔をめがけて掛けた。 手が滑って、コップまで飛んで行った。コーヒーは所長の顔と服に掛かったが、コップは所長が胸と手で受け止めた。 「あっ、すみま・・・」コップを投げてしまった佐々木が驚いて謝ろうとした。 「いいから、行って!」力強く、小声で言った。ほんと、気の良い人だ。心で苦笑いした。 そこから佐々木は頑張った。 部屋に戻り、自分の服と身の回りのもの(と言ってもたいしたものは無かった)を鞄に詰め、勤めているスーパーへ行き、上司に事情を話した。 佐々木が信頼している上司は、佐々木の能力を買っており、事が片付き、東京に帰ってくる事ができれば、必ずこのスーパーに戻って来い、絶対に正社員で採用してやる、と言ってくれた。 盛岡に戻り、熊谷常務に会いに行った。 中々会おうとしないので、スーパーの本部からの帰りを待ち伏せして話をした。 実は、盛岡に戻る途中、佐々木は所長に電話で「葵を取り戻し、雅美と3人で暮らしたい。そのためにはなんでもする」と伝えていた。 所長はその意志を確認してアドバイスをしていた。 熊谷常務には離婚の原因が熊谷常務と彩乃の不倫にある事を告げ、慰謝料を請求した。 佐々木は慰謝料も欲しかったのは事実だが、それよりも離婚の原因が雅美の不貞行為にある、と言うことを証明したかった。(離婚した時には何も決めずに単に離婚届に判を押したので) 元部下のそれも大人しい佐々木の申し出を熊谷常務は一蹴した。それはそれで構わなかった。 その連絡を受けた所長は、裁判所への訴状提出の旨を記載した弁護士名での内容証明を送った 慰謝料は300万円を請求した。 ここまでで、10日掛かった。 訴状を提出し、第一回の口頭弁論が開催されるまで1ヶ月必要だった。口頭弁論の為に佐々木も盛岡に来た。 相手が認めなければ判決までに半年~1年ほど必要だと聞かされ(なお且つ、裁判で勝てるとは限らないと所長から説明され)、心配で(たま)らなかった。 長期戦になると思い、佐々木は、昔の知り合いの催事専門会社の社員(東京で葵のことを知らせてた人)に頼んで、盛岡での仕事を手伝わせてもらっていた。ビジネスホテル代も経費として催事会社から出たので助かった。 長期戦を覚悟したが、口頭弁論から1ヶ月後、相手方弁護士から和解を求められ、慰謝料を200万円に減額して決着した。 相手弁護士も色々調べて、スーパーの多くの従業員が不倫を証言していること、またラブホに入る写真もあることから、争うのは不利と判断したようだった。 その結果を持って彩乃に会いに行った。彩乃は佐々木と熊谷が争っていると言うのを聞いて、ある程度覚悟していたようだ。 彩乃が佐々木との復縁を望んでいるのは、単に生活の安定が欲しかっただけなので、佐々木が戻ってくる切る札として葵を手元に置いている様子だった。 佐々木の姿を見つけると、葵は飛びついて来た。一緒に東京へ行くか、と問うと、まだ6歳なのに、自分の服とお気に入りのおもちゃをリュックに詰め、家をでる用意を15分で済ませた。 彩乃も佐々木との復縁が無理と判ると、葵が邪魔なだけなので、敢えて抵抗はしなかった。最近付き合い始めた男性から子供は要らないと言われていたので、好都合かも、とも思ったようだ。 葵を連れ出したという話を所長にすると、所長は慌てた。 「そんな無茶をしてはいけない。親権は先方にあるんだから」 「でも、一緒に来たがっているし、僕も一緒にいたい」 「両親が納得し、子供が望んでいても、一旦決まった親権をそんなに簡単には変更できないんです」と諭した。 ショックを受けて黙ってる佐々木に所長が続けた。 「まあ、連れ出してしまったことは仕方が無い。親権変更の調停申し立てを急ぎましょう」 その日は盛岡のホテルで葵と話し込んだ。 葵は、それまでの事を一気にはき出すように喋った。彩乃は子供の目から見ても、かなり乱れた生活をしていたようだ。それを聞いていて少し可哀相な気もした。 一通り聞き終わった後で言った。 「雅美さんを覚えているかい?」 「うん、覚えている」 「雅美さん、好きかい?」 「うん、やさしいから大好きだよ」 葵はよくスーパーに佐々木を訪ねて遊びに来ていた。佐々木が不在の時には、雅美が葵の相手をしていたので、仲が良かった。 「雅美さんと一緒に暮らすのはイヤかい?」 「ううん、雅美さん好きだよ。今、一緒に暮らしているの?」 「一緒に暮らしていた」戻った時に受け入れてくれるかどうか判らなかったので、そう言った。 「結婚しているの?」 「いや、してない」 「どうして、結婚しないの? 好きは人と一緒に暮らす時は結婚するんだよ」 人を好きになり、その人と結婚して一緒に暮らす、単純なことだけれど、それを維持するのは難しい。でも葵の口からその事を聞くととても新鮮だ。 「そうだね、結婚しようかな。でも、雅美さんがOKしてくれるかな?」 「結婚してくださいって、ちゃんと言ったの?」 「いや、言ってない」 「ダメじゃない。指輪は買ったの?」 「いや、買ってない」 「ダメじゃ無い。嫌われるよ」 そういえば、一緒に暮らしていた時、アクセサリーの一つも買っていない。 「そうだね、買わなきゃね」 新幹線で上野まで戻ってから、マルイの『canal 4℃(カナルヨンドシー) 』で指輪を買った。サイズが判らなかったので、指が同じような印象の店員のサイズを参考にした。サイズの調整は後でも出来ると言ってくれた。 山手線で日暮里まで行き、舎人ライナーに乗り換えて、舎人駅から雅美と一緒に暮らしていたアパートに向かった。 3ヶ月離れただけで、とても懐かしかった。 雅美に事前に連絡はしていなかった。 もし、雅美が新しい生活に踏み出していたら、それを邪魔する気はなかった。葵と二人で暮らしていくつもりだった。 ドアの前に立った。 受け入れてくれるのかとても心配だった。 ドアをノックした。 ・・・・・ 「どうして?」ガストのテーブルを囲み、各々のオーダーが済むと雅美が訊いた。 「色々と気を遣わせてしまったね。ありがとう」 取りあえず、葵を取り戻す行動の切っ掛けを作ってくれたのは雅美だ。 ただ、その先の言葉を言い出せなかった。 佐々木は迷っていた。 もし、雅美にもう付き合っている人ができていたら・・・。 もし、雅美に自分と葵を受け入れてくれる気がなかったら・・・。 言い(よど)んでいたら、葵が言った。 「何してるの? 結婚してください、と言うんでしょう?」 佐々木は(あわ)て、雅美は驚いた顔をした。 結論がバレたのだから、迷っていても仕方が無い。 『canal 4℃』の紙袋をテーブルに置いて言った。 「結婚してくれないか? 葵と一緒の僕と」 雅美は、3ヶ月前に別れてから、佐々木ともう一度会えるとは思っていなかった。 佐々木には恨まれていると、つい先ほどまで思っていた。 それが今、結婚を申し込まれている。 事情が飲み込めていない。 戸惑いながらも、自分が一生手に入れることが出来ないと思っていた、家庭と家族を手に入れようとしている。 頭が混乱し、結婚したらどうなるのか・・・との様々な条件や状況などを考えている余裕も、それを考えるつもりも無かった。 なので本能のまま答えた。 「結婚できるのですか? 嬉しいです」涙が出てきた。 紙袋を空けて、指輪を取り出した。 小粒だがダイヤが入っていてキラキラと美しい。いままで、イミテーションの指輪しか知らない雅美には眩しく、心ときめいた。 「はめてみて」佐々木が言って、指輪を受け取った。 雅美の左手を取り、薬指にそっとはめた。サイズはピッタリだった。そのまま、佐々木は右手で雅美の左手を握っていた。雅美が力を入れて握り返した。 その時、葵のオーダーしたチーズインハンバーグのセットが届いて、佐々木と雅美は手を離した。 「うわー来た! 美味しそう! 食べたかったの」葵がはしゃいだ。 雅美は左手にはめられた指輪を目の高さまで上げて、見入って涙ぐんでいた。 佐々木は、心配事が全て解消してホッとした表情をしていた。 三人三様の表情だが、そのテーブルからは幸せな雰囲気が溢れていた。 ・・・・・ 後日、佐々木、雅美、葵の3名が恋人屋本舗を訪れた。 「今回は色々とお世話になりました」佐々木と雅美が頭を下げた。 「ショチョウサンですか?」葵が言った。 「はい、そうです」所長が応えた。 「ありがとう。お父さんも、雅美さんも3人で暮らせるのはショチョウサンのおかげだと言っていました」 「どういたしまして。お父さんと雅美さんが頑張ったおかげですよ」 「ところで、お礼をさせていただきたいのですが・・・。僕も少し調べました。離婚の慰謝料請求も親権変更の申し立ても、成功報酬合わせて各々最低で60万円程度でした。合計で120万円程度でもよろしいですか? 最低額で申し訳ないのですが・・・」 200万円の慰謝料があるので、何とか支払えるだろうと思い、佐々木が言った。 「そうですねぇ。では、合わせて30万円いただけますか?」 「え?」 「まあ、恋人屋本舗の仕事なので・・・。それをするために、たまたま弁護士の資格を使っただけです」 「でも・・・」 「大丈夫、今回は私しか動いていない(=所員に払う必要が無い)ですから」 「ありがとうございます」佐々木と雅美は何度も頭を下げた。 谷中銀座を日暮里の方へ向かう3名を所長と拓也は表に出て見送った。 「良い笑顔でしたね」拓也が言った。 「ああ、あの笑顔が何よりの報酬だよ。達成感がある。この仕事をしていて良かったと思う瞬間だ」 それは拓也も同じ気持ちだった。おそらく他の所員もそれを知っている。 「もう、涙は二度と見たくない・・・」ボソっと所長が呟いた。 「え?」 その問いかけには応えず「さあ、事務所に戻ろうか」と所長が言った。 日暮里に向かう階段、『夕焼けだんだん』が夕陽に照らされていた。 第7話 夕陽の部屋(後) 完
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