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第一章 あまのじゃくの神隠し #1
グレーのリノリウム材の床に映り込む、ソファの足の影。オレンジ色のランプの明かり。その影を踏む品のいい茶色い革靴。
パンビース生地の銀灰色のスラックスから覗く細い足首の、空間にくっきりと現れた稜線が一種の奇跡的な描画に見える。
室内はやや暗く、窓際の重厚感がある木製のデスクに置かれたランプの間接光だけがほのかに辺りを照らしている。
窓にはブラインドが下がり、締め切られているが、かすかに漏れる光から、まだ昼間だとわかる。
仄暗い空間にカチリと陶器のこすれる音が響く。静かすぎて、その音で火花が散りそうだ。
空になったカップとソーサーを持った手がゆっくりと動き、低いダークチェリー色のテーブルに茶器を置いた。
そっと取っ手から離された指が、驚くほど白くて細い。爪は整えられて、磨かれた貝殻のようだ。
華奢な手首をリネンの袖がくるむ。オレンジの光が、織りの粗いリネン生地の表面を舐めて複雑な影を刻む。スラックスと同じパンビース生地のジレ。外されたボタンの隙間から、サスペンダーが覗く。
シャリッと生地のこすれる音がして、長い足が組み直された。
クッションの効いた皮革の背もたれに深く腰掛け、青年はゆっくりとため息をついた。
ちょうど、冷めた紅茶が胃の腑に落ちていくのを感じたからだ。
栗色の猫っ毛の襟足をやや短く刈りそろえ、長い前髪を耳の後ろへ流している。形のいい耳、細いおとがい。柔らかな線で描かれた唇に、すっと通った鼻筋。
何もかも完璧な造作だ。
物憂げな栗色の瞳は、先ほどから一心にある方向に視線を注いでいる。
何もかもまろみのある暗がりに沈んでいて、緩やかな眠気を誘う午後だ。
そのまどろむ闇がいきなりつんざくような汽笛の音で破られた。
鼓膜を叩く激しい音はやがて消え入る風のように弱まっていった。
「ちょっと待っててね、晶良ちゃん」
煌々と明かりが漏れる給湯室から若い女性の声が聞こえてきた。
「おなかがすきました、陽向さん」
今までしっとりと仄かな闇に紛れて気配を殺していた青年が焦れったそうに口を開いた。
「大体、カップラーメンに栄養なんてほとんどないんだから」
湯気の立つ味噌ラーメンの器を持って、髪をポニーテールに結わえた陽向がぶつくさ文句を言いながら出てきた。クルーネックの薄い空色のシャツに、洗いざらしのカプリパンツ姿は夏に向いた涼しげな服装だ。その胸元に一言主の宿る磐座のかけらのネックレスが見え隠れしている。
晶良と呼ばれた青年は嬉しそうにカップ麺と割り箸を受け取って、組んでいた足をただし、膝に乗せて蓋を大きく開けた。
「いただきます」
そう言うと、お茶のお点前のようにカップを持ち上げて、おいしそうに麺をすすり始めた。
「はぁ。生き返りました」
まさに生き返ったといえる。腹が減ると晶良は文字通り力が出ない。彼は人一倍食っても、それがちっとも肉にならない特異体質なのだ。
「一時にご飯食べたばっかりじゃん……」
壁に掛けられた時計は二時を指している。午後一時に陽向の持ってきた二段重ねのお重を、晶良は一人で平らげたばかりだ。
陽向は腹の減り具合だけは相変わらずの晶良を、呆れた目で見つめる。
「ほんと、そんだけ食べてちっとも太らない晶良ちゃんがうらやましいよ。じゃあ、あたし午後の講義があるから大学に戻るね。なんかあったら電話ちょうだい」
陽向はそう言って、一人がけのソファに置いていたトートバッグを肩に掛ける。スニーカーの靴底がリノリウムの床をキュッキュッと鳴らす。
灰色の鉄扉を開き、一度振り返る。陽向が片手を上げて振った。
「じゃね」
「わかりました。何かあったら電話しますね」
晶良の言葉を合図に鉄扉は閉まり、また静寂のまどろみが戻る。
あっという間に麺を食べ終えた晶良は、勢いよくスープを吸い、テーブルに空っぽの器を置いた。
「はー……、おなかすいた……」
物欲しげにもう一度器の中を見下ろすけれど、麺のかけらも残っていない。それがちょっと寂しいと思いつつ、何か物色しようと晶良は腰を上げた。
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