55人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
私の小説は、私の傷と血でできている。
私が傷つき血を流すほど、佐倉アサの小説は幻想的な世界を浮かび上がらせ、SAKURAの小説はキラキラと輝く。
これまでだってそうして小説を書いてきた。流れる一滴一滴の血を拾い集めて紡ぎながら一編の物語を描く。
私は小説を書き続けるために、もっと傷つき続けた方がいいんだ。幸福や安らぎは私の小説を腐らせる。
コンコンという控えめなノックの音の後、私の返事を待たずに扉が開いた。
「先生、田之中さんがいらっしゃいました」
秘書モードの蘭が言う。
「今、書いてる。それ持って行って」
私は振り返りもせずに言い放つ。
蘭は私の後ろに歩み寄って、プリンターの吐き出し口に溜まっている紙の束を手に取った。
「サクラちゃん、最近ちょっと根を詰め過ぎじゃない?」
「大丈夫」
「ちょっと休憩したら?」
「うるさい」
私が吐き捨てるように言うと、蘭はそれ以上何も言わずに書斎を出て行った。
私は書くしかない。それ以外に私にできることはない。キーボードを打つ手を止めてはいけない。文字を編み続けることだけが私の生きる価値なのだ。
私にはキラキラとした人生なんて必要ない。それらはすべて、私が紡ぐ言葉の中で登場人物たちが謳歌してくれる。それで満足だ。
コンコンとノックの音がした。
返事をせずにいると、再びコンコンとノックされる。蘭ではなく田之中だろう。原稿を渡したのにまだいたのか。
コンコンさらに繰り返されるノック。
「先生、少しいいですか?」
またファンサービスだとかサイン会だとか言い出すのだろうか。もうその話は聞きたくない。
「執筆中にすみません。今日は会ってほしい人がいて連れてきているんです。5分でいいのでお時間をいただけませんか?」
扉の向こうから田之中が神妙な声を発した。
誰かを連れてきている? 他の編集者も引き連れて私を説得しようとでも言うのだろうか。
面倒臭いが私もいい大人なだ。気安く口をきいているが、田之中はいわばお取引先。田之中や田之中が連れてきた人物に会うのもビジネスのひとつだ。
私はそう自分を説得してパソコンを打つ手を止めた。
田之中はあくまでもビジネスの相手だ。今後はもっとビジネスライクに付き合うようにしよう。
私は立ち上がって書斎のドアを開けた。
「あ、先生、ありがとうございます」
「いえ、ちょうど少し休憩をしようと思っていたところだったので」
リビングに行くと、田之中が連れてきたという人物が勢いよくソファーから立ち上がりガバっと頭を下げた。
「はじめまして、美田花梨です。いきなりお伺いしてすみません」
ん?
「この子ボクの姪なんです。ボクの部屋から勝手に先生の本を持って行って読んでたみたいで……」
あの日、花梨さんは叔父さんの家にあった本をと言っていた。それは田之中の部屋だったのか! 私の担当だから私の本の一冊や二冊はあるだろう。
「先生の本を気に入ったようなので、それなら直接先生と話してみないかって誘ったんですよ」
私が返事をしないからか、花梨さんはずっと頭を下げたまま固まっている。
え、え、え? これ、まずくない? 私がSAKURAだってバレるじゃん。どうしよう、どうすれば……逃げよう。
私はそろりそろりと後ずさりして書斎に向かう。だが、すぐに何かにぶつかった。
「逃げちゃダメ」
蘭は私の耳元で囁くとガバっと羽交い絞めにした。
「ちょ、蘭、離せ」
「ダ、メ」
その言い方ちょっとかわいいじゃないか。抵抗しようとしたけれど、蘭を振りほどくことができない。
長年キーボードを打つことしかしてこなかった私が、二人の子どもを毎日抱きかかえている蘭に勝てるはずもない。
そしてそのままソファーにドスンと座らされてしまった。当然のごとく、蘭も私の腕をつかんだまま隣の席に座る。
私が座ったのを合図にしたように花梨さんが顔を上げた。
「え? アサクラさん?」
「……はい……」
気まずい気まず過ぎる。それに、花梨さんの顔が失望に変わるのを見るのが怖くて顔を上げられない。
「花梨、SAKURA先生のこと知ってるのか?」
「喫茶店のお客様だよ」
「アサクラさんがSAKURA先生だったんですか……って、私、作者の先生に作品勧めたんですか? うわぁ、恥ずかしい」
花梨さんの声を聞く限り失望している様子はない。
私は恐る恐る顔を上げた。花梨さんとばっちり目が合う。花梨さんは不思議なものを見るようにマジマジと私の顔を眺めていた。
「あ、あの……ガッカリ、してませんか?」
「へ? ガッカリ? びっくりしましたけど、ガッカリなんてしませんよ」
花梨さんはニッコリと笑った。その笑顔を見て体の力が抜けていく。もう逃げないと確信したのか、蘭がようやく私の腕から離れた。
「だから大丈夫だって言ったでしょう?」
蘭がやさしい声で言う。
「サクラちゃん、デビュー前に読者と会ったときに、ものすごーくガッカリされたのがずっとトラウマなんですよ」
「蘭、ばらさないでよ。恥ずかしいじゃん」
「そうやって駄々をこねてる方が恥ずかしいよ」
蘭にそう言われて私は俯くしかない。
私たちの会話を聞いていた花梨さんが「ああ」とつぶやく。
「どうかしたの?」
上目遣いに花梨さんの様子を伺いながら尋ねると、花梨さんは笑みを浮かべる。
「その読者さんは先生に恋をしていたんですよ」
「え?」
「作品を通して先生に恋をしていたから、理想との違いにびっくりしちゃったんですよ」
若干表現をやわらかにしてくれているのは花梨さんのやさしさだろう。そして、花梨さんは笑顔のままつづける。
「私、先生の作品は大好きですけど、先生に恋をしているわけじゃないのでガッカリなんてしませんよ。先生とお話できてうれしいです」
「あー、そ、そっか……」
あれー? なんだろう、ちょっとフラれたような気持ちになっちゃったな……。すると蘭が私の脇腹をギリッとつねった。
「イタっ」
思わず蘭を見ると、なんだか張り付いたような笑みを浮かべている。ちょっと怖い。
私たちのそんなやり取りを気にする様子もなく花梨さんは口を開く。
「目の前でガッカリする顔を見ちゃうのはショックだと思いますけど……、それってすごいことだと思いますよ」
「すごい?」
「それだけ先生の作品が素敵だってことじゃないですか。小説の世界を飛び越えて、作者に恋をしてしまうくらいなんですから」
そうかな、そうなのかな。どうしよう、すごくうれしい。すると再び蘭が脇腹をつねる。
私は蘭を睨みつけたがそっぽを向いてしまった。
そこからしばらく雑談をしたのち、田之中と花梨さんは帰って行った。
私はしばしソファーに座って考える。
自分が傷つくのが怖くて、頑なに読者に会うのを避けていたけれど、少しならば会ってもいいんじゃないだろうか。
一人の女子高生の言葉で、15年以上変わらなかった気持ちをコロッと変えてしまうなんて情けないような気もするけれど、私の気持ちは確かに動いていた。
この年になってもう一度あんな風に傷ついたら、二度と立ち直れないんじゃないかという恐怖もある。だけど、この年だから仕方ないと思えるんじゃないかとも思う。
蘭はテーブルの上を片付け終えて、私の向かいのソファーにドカッと座った。
「お疲れ様」
とりあえず労いの言葉を送ってみたが、蘭は唇を尖らせて不機嫌そうな表情を隠そうともしない。
「蘭、私、サイン会のこと考えてみようかな」
「へー、そう。いいんじゃない」
蘭はやっぱり不機嫌そうに言う。
「どうしたの蘭? 蘭だってその方がいいって言ってたでしょう?」
「そうね、何年もずっと言ってたよね。でも、私がどれだけ言っても聞こうとしたかったでしょう」
「あ、うん、まあ……それは申し訳ないというか……」
「それが、あんな若い子のひと言で心変わりとか、最悪」
「いやいや、花梨さんがどうとかじゃなくて……」
すると、蘭がギロッと私をにらんだ。怖い。
「よりによって、どうしてあんなに年下なのよ」
「へ?」
「サクラちゃんは、ずっと年上の人しか好きにならなかったでしょう!」
「確かにそうだけど……へ?」
「どうして今更あんなに年下の子なの?」
「いやいやいや、別に花梨さんのことを好きなわじゃないし。あの子は読者であって……」
「そんなの、私、バカみたいじゃない」
「蘭?」
怒りに満ちていた蘭の顔がゆっくりと崩れて泣きそうに見えた。
蘭はテーブルの上の布巾を握って立ち上がると、それを私の顔に向かって思いっきり投げつける。
突然のことで私は反応することができず、濡れた布巾を顔で受け止めてしまった。微妙に痛いし、微妙にくさい。
「ちょっと、蘭?」
蘭は立ち上がってリビングの奥にドスドスと歩いていき、チビを抱き上げる。
「今日は早退します。失礼します」
なぜだか怒気を孕んだ丁寧な口調で言うと、蘭は私の顔を見ようともせずに出て行った。
急に静かになった家に一人取り残され、私は深いため息をついた。
やっぱり現実の世界の人間は難しい。
私は書斎に戻りパソコンに向かう。とりあえず小説の中に避難しよう。
キーボードを打つたびに生まれていく世界に私はいつでも救われてきた。同じように私が書く小説に気持ちを寄せてくれる人がいるのならば会ってみたい。
私は小説の向こうにいる読者に想いを馳せながら言葉を紡いでいく。
おわり
最初のコメントを投稿しよう!