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リビングに出るとソファーに座って悠々とコーヒーを飲む男の姿があった。
男は構仁社(こうじんしゃ)出版の編集者、田之中藤一(たのなかとういち)。女子の寝室に断りもなく入り込み、乙女が寝ている布団を容赦なく引き剥がそうとする鬼畜だ。
田之中のはす向かいのソファーに腰を掛けると、すかさず怪物――もとい、蘭が私用のホットミルク(ぬるめ)をテーブルに置いた。
朝一番はホットミルクを飲まなければ調子が出ない。さほど寝ていないので、朝一番感はあまりないのだけれど。
笠井(かさい)蘭は私の5歳年下のいとこで、今は私の秘書のような家政婦のようなことをしてもらっている。出産して会社を辞めたのを機に、私の身の回りの世話をしてもらうようになった。それに対してはきちんと給料も支払っている。
二人の娘を同伴して出勤することもできる職場はなかなか快適なのではないかと思う。今もこのリビングの半分を占拠している子どもスペースにはもうすぐ2歳になる小さい方のチビがスヤスヤと眠っていた。5歳の大きい方のチビは保育園である。
自分で言うのもなんだが、かなり好待遇で雇っていると思う。そんな素晴らしい雇い主のオッパイを握りつぶそうとする従業員はどうかと思う。
だけど、それを面と向かって言ったら見捨てられてしまうので絶対に言えない。
「で、今日は何?」
私は寝起きをたたき起こされてすこぶる機嫌が悪い、というフリをしながら田之中に言った。
「だから、次回作の打ち合わせでしょう。すぐに出すって言ってから何日経ってると思うんですか」
「そんなのできてるよ。蘭、書斎のデスクにあるから持って来て」
「はい」
私の言葉に、優秀な秘書風を装った蘭が書斎に向かう。私は余裕の笑みを浮かべてホットミルクを飲んだ。
「できてるなら言ってくださいよ。ボクだって口うるさく言いたくはないんですから」
田之中はうれしそうに笑みを浮かべる。
「先生、これですか?」
秘書を装っているとき、蘭は私を「サクラちゃん」ではなく「先生」と呼ぶ。その区別がよく分からない。
私は蘭が持ってきた紙の束の表紙を確認して小さく頷いた。蘭はおもむろにその束を田之中の前に置く。
「ありがとうございます。拝見します」
田之中も恭しく紙の束を持ち上げて視線を落とす。
どうしてこの人たちは芝居じみたやり取りをしたがるんだろう。まあ、私もちょっと面白くてそれに乗ってしまうのだけど。
蘭はキッチンから自分のカップを持ってくると私の隣にストンと座った。
「サクラちゃん、今回はどんな話なの?」
もう秘書役は終わったらしい。
私はしがない小説家をしている。売れっ子作家とまでは言えないが、いくつか連載を持ち、そこそこの数の書籍も発行している。おかげで蘭に給料が払える程度の収入はある。
「先生……」
書き上げたばかりの原稿を半分ほど流し読みした田之中が暗い声をあげた。
「なかなか面白いでしょう?」
「面白いと思いますよ。思いますけど、これ百合の原稿じゃないですか! ボクがお願いしていたのは、小説ブルームの新連載の企画ですよ」
「いや、あれはまだ締め切りまで時間があるし……」
「そう言っていつもギリギリじゃないですか」
「ギリギリでも締め切りに間に合うじゃん」
「百合小説は頼んでもいないのに出してきて、どうして本業のブルームはやる気がないんですか」
「頼んでもいないのにってなんだよ!」
蘭は私と田之中のやりとりには興味がないようで、田之中がテーブルに置いた原稿を引き寄せて読みはじめた。
私には三つの名前がある。
ひとつは本名の浅倉咲楽(あさくらさくら)。
もうひとつは、月刊小説ブルームへの連載をはじめとした幻想エンタメ小説を書く佐倉(さくら)アサ。
そして最後は、百合小説家・SAKURAである。
どれでも「サクラ」で通るという便利な名前なのだ。本名が一番ペンネームっぽいのも笑えるし、私のネーミングセンスはなかなかだと思う。
「分かった、じゃあ裸で寝ている女流作家の部屋に土足で踏み込む鬼畜編集者の話を書くよ。それでいい?」
「よくありません! それ、どう考えてもエロ路線になるでしょう。書けるんですか? エロ」
「書けるよ、書かないだけだよ。書けるよ!」
「へー、じゃあちょっとその話を作ってみてくださいよ」
「私の口からエロい言葉を言わせようとしてるのか? エロ編集者!」
「自分が言い出したんでしょう。そもそもボクが来ることがわかってて裸で寝てる方が悪いんです!」
「女の寝室に平気で入る方が悪いに決まってるだろっ!」
「まあまあ、どっちも悪いってことでいいじゃないですか」
蘭が落ち着いた声で言う。いや、オッパイを握りつぶそうとする蘭が一番悪い気がするよ。私はその言葉を飲み込んで息をついた。
「どうしてもそれが書きたくなっちゃったの。ブルームのもある程度考えてあるから、それは今日中にやるよ」
「本当ですね」
「はいはい。本当です」
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