覆面作家は覆面を脱げるのか?

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 書くのが楽しいのは断然百合なのだ。幻想エンタメも嫌いではないが、どちらかといえば生活のために書いているという意識が強い。  私の言葉に、田之中はまだ疑いの眼を向けながらも牙を収めた。 「先生、寝室に入られるのが嫌なら外で打ち合わせしましょうよ」  田之中はコーヒーを飲みながら言う。 「ヤダよ。もしも誰かに聞かれて、私が小説を書いてるってバレたらいどうするの」 「別にいいでしょう?」 「イーヤー」 「ガキですか」 「サクラちゃんはガキだよねぇ」  蘭の声にチラリと横を見ると、蘭はまだ原稿に目を落としている。百合小説を読みながら相づちを入れるなんて器用だな。 「年上に向かってガキってナニ」  私は二人に対して言ったのだが、反応したのは田之中だけだ。 「本当に年上なんですか? とてもボクより年上とは思えない言動なんですけど」 「立派なアラフォーだよ」 「ダメだよ、サクラちゃん。作家なんだから言葉は正確にね。この間お誕生日だったから、アラフォーじゃなくてジャスト40歳だよ」  蘭は聞いていないのかと思うと、ちゃんと聞いている。本当に、そういう合いの手はいらないから、蘭は大人しく小説を読んでいてほしい。 「とてもボクより10歳も年上とは思えませんね」 「若々しいってことか!」 「ガキくさいってことです」  田之中からは作家を労わろうという気持ちが感じられない。 「サクラちゃんが一番大人っぽかったのは中学生くらいだよね。あの頃は、いとこの大人っぽいお姉ちゃんって感じだったのに……」 「私が大人に見えてたのは、蘭がまだ小学生だったからでしょう」 「ああ、それはそうかもね。成長してないだけなんだね」  素直に納得されるとちょっと傷つく。 「先生がガキかどうかはどうでもいいんですけど……」  田之中は失礼なことを平然と言うと急に表情引き締める。 「百合小説を『佐倉アサ』の名前で出してみませんか?」  田之中はどうして急に編集者みたいなことを言い出すんだろう。 「イーヤー」 「どうしてですか?」 「キャッキャウフフしてるキラキラした百合小説と、ドヨーンとしたドロドロの小説を書いている人間が同じだと思われたくない」 「思われたくないって言っても同じ人間ですからね」 「そもそも、名前を変えて別レーベルで出そうって言ったのはそっちだからね」  デビュー前からずっと書いていたのは百合小説だ。だが、プロを目指しはじめてから百合以外も書くようになった。そうして20代終盤でブルームの小説新人賞を受賞してデビューすることになったのだ。  デビュー後、百合小説も書きたいと編集者に相談したとき、別名・別レーベルでの出版を提案されたのだ。  会社勤めをしながら作家活動をしていたので、会社と佐倉アサ、SAKURAの三足の草鞋だった。睡眠時間を限界まで削ってでも、SAKURAとして百合小説を書くことを止めなかった。 「10年近く前のことですからね。今は百合も受け入れられてきてますし、佐倉アサ先生の百合小説は話題になると思うんですけど」 「イーヤー。SAKURAのイメージを壊したくない」 「大事なのは『佐倉アサ』じゃなくて『SAKURA』ですか」  私を支えてきたのは百合小説だと思う。SAKURAの小説が陽だとすれば、佐倉アサの小説は陰だ。SAKURAとして小説を書けるから佐倉アサの小説も書ける。ここは一緒にしてしまうべきではないと思う。  ただ、百合小説の発行部数は、佐倉アサの小説の3分の1程度かしかない。佐倉アサの名前で書けば、百合を読まない層にも読者を広げられる可能性はある。  冷静に考えれば私にもそれくらいの計算はできる。それでも、SAKURAはSAKURAとして大切にしていきたいのだ。 「だったら佐倉アサ先生のサイン会でもしませんか?」 「だったらの意味が分からない」 「サクラ先生、まったくサイン会したことないでしょう? ファンサービスも大切な仕事ですよ」 「ぜーったい、いーやー」 「あれも嫌、これも嫌って」 「本を古本屋に売るとき、サインがあると『汚れ』『落書き』扱いで売値が下がるんだよ」 「なんで古本屋に売られることを考えてるんですか。サインをもらいに来るファンは簡単に売りませんよ」 「そんなの分かんないじゃん」 「それならSAKURAの方のサイン会はどうですか?」 「もっとイヤ!」 「どうしてですか! 百合の方が好きなんでしょう。素敵な出会いがあるかもしれませんよ」 「お前はバカか! バカなのか! バカなんだな!」  田之中はボリボリと頭を掻いて冷たい視線を私に投げる。 「先生も百合なんでしょう? 先生の本のファンならワンチャンあるかもしれないじゃないですか」 「本当にバカだな。百合が好きだからガチなんて安直に考えんな! バーカ、バーカ」 「語彙が本当にガキになってますよ」 「BL好きの女子はガチBLか? 百合好きの男子はガチ百合か? 違うだろうが」 「それはそうですけど……」 「田之中さん、サクラちゃんにはトラウマがあるから……」 「蘭!」  私はキッと蘭を睨む。蘭は私に睨まれたところでまったく堪えていないようだが、それ以上のことは話さなかった。 「サイン会が嫌なのは分かりましたけど、今は書けば売れるものではないですからね。何かファンサービスをして販促もしないと」 「SNSはやってる」 「え? 本当ですか?」 「蘭が」 「……」 「はい、私がやってますよ。佐倉アサの弟子っていう設定と、SAKURAの友人という設定で」 「どうしてそんなに頑なにファンとの交流を避けるんですか? 先生は「私の本なんて誰も読んでないに違いない」とかって定期的に引きこもるじゃないですか。直接ファンの声を聞いたら、そんな不安は吹き飛ぶでしょう?」  田之中は生意気にも子どもを諭すような口調で言った。  読者から届く感想は読んでいる。それらの言葉を励みに小説を書いている面も大きい。それでも、私は実際に私の本を手に取る人をほとんど見たことがない。  だから、感想や応援の言葉を見るとうれしいと思うのだけれど、どこか現実味がなくて私の妄想ではないかと思ってしまう。田之中や蘭が偽名で送っているんじゃないかと勘繰ることもある。  実際に直接読者と会って声を聞けば、そんな不安は無くなるのかもしれない。だけど、それだけはしたくなかった。 「サイン会も読者と直接会うこともしない。だけど、何か考えるから今日はもう帰って」  私はそれだけ言うと立ち上がり書斎に移動した。 「ご足労頂いたのにすみません」  秘書モードの蘭の声が書斎まで届く。 「いえ、ボクはこれが仕事ですから。……サイン会をしてほしいって声は編集部にも届いているんですよ。蘭さんからも先生を説得してください」 「やってみますけど、無駄だと思いますよ」 そんなやり取りが次第に遠のいていく。田之中が玄関へと移動しているのだろう。
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