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砂の城
それはとても静かに忍び寄って来ていたことを、その時のわたしたちは気が付きもしなかった。
佐山恵麻は通常作業を終え、ホッと一息を吐く。
「ウワっ」
事務仕事は、どうも肩が凝っていけない。と恵麻が椅子を引いた時だった。運が悪いことに、営業係長の數納(すのう)が通りかかり、手にしていたコーヒーを、恵麻はもろ被りさせられてしまった。
「ごめん」
昨日、買ったばかりの服だった恵麻は、熱いと言うよりも、染みになってしまうことの方に気がとられてしまっていた。
「火傷しなかった?」
「大丈夫です」
目を上げることなく答える美紀子は、行き成り手を掴まれ、ハッとなる。
「赤くなっているじゃないか」
言われて初めて、右手の甲が赤くなっていることに気が付いた恵麻は、若干引き気味に笑みを作る。
「このくらいはどうってことないです」
「良いから来て」
數納は半ば強引に美紀子の手を引っ張り給湯室へと連れて行くと、もう一度謝る。
右手を冷やしながら、恵麻は思わず吹き出してしまう。
數納は強面で近寄りがたい印象の持ち主、と恵麻の中で位置づけられている。
「何がおかしい」
「數納課長でもそんな顔をされるんですね」
「それ、どういう意味だ」
「あ、大変失礼しました」
「構わん。昔からこの顔立ちで損して来ているから、大丈夫だ」
「昔から?」
「そうだ。何か不満か?」
しかめっ面で訊かれ、恵麻は慌てて首を横に振る。
その日からだった。
徐々に話すようになり、昼食をともにしていたのが、軽く一杯になり、知らぬ間に二人は深い関係になってしまっていた。家庭に不満があるわけではない。それはまるで子供がいけない、と言われることを夢中をするようなものだった。
何も気が付いていない家族の目を盗み、重ね合わせる躰が燃えるように熱く、恍惚とした情景に、酔いしれていた。
同じ秘密を共有する。そのワクワク感が堪らなかった。
いつでも別れられる、そう過信していたのは、恵麻だけではなかったはず。
しかし、許されない関係はそう長くは続かなかった。
家族の間に小さな亀裂を生じ始めたある日、恵麻は數納へ別れを告げる。
わずかな沈黙の末、二人は別々に席を立った。
お互いが納得済み。
そんな別れだった。と、恵麻は疑うわなかった。ずっとこんな関係っを持つようになってから、二人で取り決めてきたことだった。所詮火遊び。消えればそれまで。
恵麻は会社を辞め、おとなしく家庭に収まることを選んだ。
しかしそのひと月後、恵麻は無残な姿で発見されることに。
恵麻は友人に会うと偽って、數納に会いに行った。
メールで呼び出され、躊躇いはしたが、友達として食事がしたいというフレーズに心を許してしまった。
嫌いになった相手ではない。
久しぶりに会う數納に、恵麻は少女のようにはにかんだ。
人目が付かない場所を求め、數納の運転する車に乗り込んだ恵麻は、内心ドキドキしていた。
一度くらい。これっきりなら。
運転する數納も同じことを考えているようだった。
行き成り唇を重ねてくる數納に、身を委ねる。
家族に、隠しきれる自信はあった恵麻である。
ほとぼりがさめるのを待って、新しい職場を見つけよう。何もなかったように貞淑な妻を演じればいい。
最後のドライブになるはずだった。
だが、數納に別れる気はないことを聞かされ、恵麻は青ざめる。
車を降りようとする恵麻を、數納は力づくで押さえつける。
恵麻は、初めて自分の愚かさに気づく。
數納に初めから下心があった。
あの日、わざと恵麻にコーヒーを被せ、親密を図ったのだ。
顔を強張らせる恵麻を見て、數納は薄笑いをする。
ガードレールを突き破り、海へと車体が呑み込まれて行く数分間、当たり前すぎて気が付かなかった日々が、どんなに大切で幸せだったかを、恵麻は思い知らされるのだった。
時間をかけ大切に作り上げた城が、波にさらわれていくように崩れ去って行く瞬間だった。
恵麻名義で借りたレンタカーに遺書。
無理強いされ、死を共有させられたのは數納と認知されていることを知らず、恵麻は海の底へ沈んで行った。
――それから数年後。
數納弥生が営むカフェに、一人の女性客が訪れる。
静かな面持ちで窓際の席に座り、表通りに目をやりながら一杯のコーヒーをゆっくり時間をかけて飲み干し、帰って行く。それはしばらく続き、真夏とは思えない底冷えがする雨の日、珍しくその女性は男性とともにやって来た。
始終顔を伏せている連れの男性に、弥生は顔を顰める。どこかで会った気がしてならないのだ。
「あの、お客様、以前どちらかでお会いしたことがありませんか?」
お冷を足し弥生は、思い切って男性の方へ尋ねる。
男性は何も答えようとはしなかった。
何の気なしに弥生は、女性客の方へ目をやる。
さっきまでそこにいたはずの女性の姿はなく、弥生は細々とした声で自分の名前を呼ばれ、ギョッとなる。
男性客がしっかりと弥生を見ていた。
あろうことか、それは醜い顔に変形してしまった數納だった。
「あなた」
二人の夫婦生活はだいぶ前から冷え冷えとしていた。
「お前か、あんなことをしたのは?」
さびそうに言う數納に、弥生は腰を抜かしながら後ずさる。
突然、店のドアが開く音がして、弥生はここぞとばかりに救いを求める。
その躰の冷たさに、ギョッとした弥生が目を瞠る。
あの女だった。
躰から水が浸された女が弥生の腕を掴む。
「もう良いわ數納さん、奥さんも一緒に行きましょ」
「嫌よ」
店中のガラスがしなり、恵麻は静かに微笑む。
「楽しくやりましょ。お茶でも飲んで」
「それは……」
「お前が俺に持たせていたお茶だよ。さぁ飲めよ」
無理やり口に注ぎ込まれそうになり、手で振り払う。
「酷いな。僕の躰を思ってお前がブレンドしてくれたハーブティだぞ」
「大丈夫。まだたくさんあるから。ね、奥さん」
弥生の躰の自由が奪われる。
「止めて」
「どうした? ただのお茶だぞ」
「止めて」
「ほら、お前が作ったのと同じ味だろ? いやもっとおいしいかな?」
冷たく言い払った數納が口元を上げる。
數納は空になった袋をチラつかせていた。
「楽しい。仲間が増えるのね」
女がポットの中身を、弥生の口へ容赦なく注ぎ込む。
數納が体の不調を感じるようになっていたのは、恵麻と関係を持つだいぶ前からだった。
むせ返る弥生の目には恐怖が灯る。
逃げ道はなかった。
ふいに店の扉が開き、二人の姿が消える。
「どうかされました?」
「出たのよ。夫の幽霊が」
「幽霊って、こんな顔でしたか」
すべては弥生の犯行だった。
恵麻の墓石の前、手を合わせていた親子がそっと顔を見合わせる。
恵麻が犯した罪は許しがたいもの。しかし、全部を責めるには、心苦しいものがあった。全面的に恵麻に非を被せ、あろうことか、弥生は悲劇の妻を演じ、損害賠償の訴訟を起こしていた。
腑に落ちない全容に、この時を待っていたのだ。
「さぁこれからは未来に向かって行かないとな」
そう言って立ち上がった父親に、恵麻そっくりの娘が微笑む。
「しかし技術の進歩ってやつは凄いな。あれ、何ていうんだっけ」
「3D」
「あの桐山さんって人に、礼をしたいんだが、お前、連絡先判るか?」
「分からなくもないけど」
そう言いながら、娘は後ろを振り返る。
ぼんやりと佇む女性に、娘は頭を下げる。
娘がその気配に気が付くようになったのは、5歳のころ。
名乗らなくても、それが母だとすぐに分かった。
何も知らない父親が、振り返り娘の名を呼ぶ。
娘は小走りで父親の元へ行き、もう一度振り返る。
それが、母との最期の別れになった。
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