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夏休みも、半ばに入っていた。
相変わらず蒸し暑い夜、俺と母さんは、俺が作った質素な夕飯をとっていた。
「……母さん」
「……何?」
「一億じゃなかったね」
「そ、そうね。……でも、四千万も入ってたじゃない。なかなか今日日、そんなに貯金がある家ってないよ」
俺は箸を握りしめると、中腰になって言った。
「最初の振込額はほんとに一億あったよな⁉ ビックリしたよ! でもその後六千万減ってるの見てもっと仰天したわ!」
「お、親っていうのは時に、生活のために我が子の貯金にちょこっと助けてもらう時があるものなのよ。だからお父さんも、こうつい、ちょこちょこっと使っちゃったのね」
「それはお年玉をこっそり生活費に充てるみたいなレベルの話だろ!? 家一軒買える金額が消滅してるじゃねーか!?」
口から飛ばしてしまった飯粒を回収してから、俺は茶碗の中の米をかき込んだ。
「第一、そんな金があることを母さんは知ってたんだろ? さっさと下せばよかったのに」
「何ともない子供のお腹を、平気で開けられる親なんていないわよ。まずいお金じゃないとは聞いてたけど、どこの銀行にいくら入っていて、どうしたら下せるのかも知らされてなかったし。第一、そんな額を管理できる甲斐性が、お母さんにあると思う?」
「なぜ胸を張る……」
「それに、できるだけ手を付けずにとっておきたかったのよ。人生、いつ何があるか分からないでしょう。そんな時のためにこれを取ってさえおけば、きっと何とかなると思ったしね」
「そうだな。父親が何年も蒸発したりとかするしな。ていうか、振り込んだ張本人が六千万も手付けてるじゃんかよ」
そうね、と困ったように笑いながら、母さんはどこか嬉しそうだった。俺にも分かるくらい、浮ついている。
母さんは、例の金の通帳を持っていたわけじゃない。だから貯金がその時々でどれくらいあって、どんな状態になっているか、ずっと知りようがなかった。
今日見た口座からは、年に十数回、そして直近ではつい一週間前に金が下されていた。
当然俺や母さんではない。では、誰が?
もし、のこのこと帰ってくるようなことがあれば、こっぴどく文句を言ってやろう。
色々片手落ちが過ぎるんだよあんたは、と。
ふと母さんが、コトリと箸を下した。
「十治。本当はね、お父さんも私も、あなたを育てるのが怖いと思ったことが何度もあったの。私は結婚も出産も後悔してないけど、十治には父親のいない生活をさせて、しかも怖い人たちが押し掛けてくるような家で……なんていうか、あなたには他の人たちみたいに、もっと普通の……」
「他の人ってのを引き合いに出していいんなら、俺、大抵の他の人と比べても、親には恵まれてると思うけど」
うつむいていく母さんに向かって、できる限りさらりと口にしたつもりだったが、母さんはぱっと顔を上げると、目を見開いた。
その目頭がみるみる潤んでいく。
まずい、これは恥ずかしい展開になる。
「ごちそうさま。洗い物俺やるから。明日俺も新しいバイトだから早く寝なきゃだし、母さんもな」
「うん……明日は配達の方?」
「いや、回転ずし」
「私食べに行っていい?」
「いやそれはやめてくれお願い」
きっぱりとそう告げて、俺は自分の食器を流しに持って行く。
とりあえず、そんな出所も分からないような金を、調達した本人の話も聞かずに使うわけにはいくまいと、買い替えるかどうか悩み続けている黒ずんだ食器用スポンジを睨みながら、俺は空の茶碗の中に水を溜めた。
終
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