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 日が暮れれば、あとは寝るしかない。九条は一応寝室になっている部屋に引き上げて、蚊帳を張り巡らせた簡素なベッドに潜り込んだ。キャスカは自分のハンモックで寝るようだ。  七日、彼がここを去るまでに資源開発の邪魔をしないよう、言いくるめなければならない。セックス抜きで。  あらためて唸ってしまう。  それなしで他人との距離を縮めるって、どうしたらいいんだ?   九条家に生まれついたおかげで、幼少の頃から周りにはいつも人がいた。大人たちはもちろんのこと、子供たちも自分たちの立場をわきまえた者ばかりだったから、こちらから相手の気持ちをくみ取る必要はなかったのだ。  就職も当然九条グループに入った。もちろん、仕事は人なみ以上に成果を出したつもりだ。けれどもやはり、頭ごなしに怒鳴られたり、成績を嫉んでいびられたりなんてことはなかった。今回の左遷が人生で初めての汚点だ。  男も女も放っておいても寄ってきたし、仮に去って行く者がいても気に留めなかった。去って行ったのがいったい誰だったのか思い出す暇もなく誰かと関わってはいたし、それで困ることもなかった。  待てよ、俺。  誰かひとりと本当に親密になったことが、今まで一度もないんじゃないか――? 「……まじか」  思わず声に出てしまった。二十代も後半にして、いまさら思い知った驚愕の事実。  さすがに頭を抱えたとき、小屋の外から唸り声が聞こえた。  ウォ、――  なにか大型の生き物だろう。ピューマか、ジャガーか。その鋭い牙がありありと想像できる、重みのある鳴き声だ。この森の中には虫も動物も沢山いるはずなのに、なぜか息を潜めてその声をじっと聞いているように思えた。  じっと耳を澄ませていると、それはどこか淋しい響きを持っているように思えてくる。  彼らは森で無敵の王様だ。そんなはずはないのに。応える声のない咆哮は、ただ虚しく響き続ける。  この静けさがいけない。濃い闇がいけない。嫌でも自分自身と向き合う時間が長くなる。動物の声がどこか淋しげだなんて、センチメンタルなことを考える。 『頭を冷やすいい機会だと思って行ってきなさい』  早くも叔父の思惑通りになっているのが悔しい。九条は頭から布団をひっかぶり、無理矢理目を閉じた。      誰かが呻いている。  そう思って目を覚ますことは良くあったから、今回もわかった。それが自分の呻き声なのだと。  夢を見た。いつもの、決まった夢だ。  あれはまだ十代の前半。自分を取り巻く幸福が、この先一ミリも違わず日々続いていくものなのだと思っていた頃。  ある夜目覚めると、家の中の様子がおかしかった。九条の家は広く、自室にいれば人の気配を感じることもまれだったが、今夜は特に神妙に静まりかえっている。なのに、どこか空気はざらついているような気がした。奇妙な感覚の正体はそれだった。  だから、トイレをすますといつもならまっすぐ部屋に戻るところを、邸の中をうろついてしまったのだ。  深夜だというのに、来客用の部屋に灯りがついているのが、コの字になった廊下から見えた。父の仕事の関係者が内密な話でもあるのだろうかとも思ったが、だったらなおさらこの時間はおかしい。  万が一出入りを見とがめられたら一発でアウト。悪い相談ほど昼間、明るいところで――父や叔父たちと同席すると、冗談交じりにそんな言葉を耳にしたものだった。  じゃあ、誰だ。  はやる気持ちを抑えて歩み寄ると、途端、なにかが砕け落ちる大きな音がした。  代々美術収集家でもある九条家には、名工の遺した磁器や陶器が季節ごとに飾られていたが、おそらくはそのどれかが割れた音だ。  子供の頃から厳しく触れてはいけないと言われていたそれらを割った者がいるというだけで恐ろしく、九条はその場に凍り付いた。続けて聞こえてきたのは男の声だ。 『なにが運命のつがいだ――今すぐ出て行け! この淫売』 「う、」  今度ははっきり呻き声が口に出て、九条ははっきりと目を覚ました。目を開けたはずなのに辺りは真っ暗で、一瞬、まだ夢の中かと戸惑う。  文字通り右も左もわからない中で、ひとつだけはっきりしたものがある。痛みだ。 「は、らが……」  猛烈に痛い。内臓が直接引き絞られるような痛みだ。どうして、と一瞬よぎった疑問はすぐにいらだちに変わった。  どうしたもこうしたもあるか。こんなところに送られて、直接川や森から採った物を腹一杯食べたのだ。そのときは平気だったが、目に見えない細菌にやられてもなんら不思議ではない。  日本を出るときやたらめったら予防接種をしたのに。ヤブ医者め。  そのヤブ医者も九条の人間であることも忘れて毒づく。 「薬……」  どこかにそれくらいあるはずだ、と思ったが、こう暗くてはどう探したらいいのかもわからない。それにもし、セルバティコが持っていたほうの荷物にしか入っていなかったとしたら?  身悶えているうちに寝台からも転がり落ちた。日本でなら考えられない自分の無様な姿に思わずじわりと目尻ににじむものがある。床の上に直接寝れば得体の知れない虫が寄ってくるかも知れず、早くベッドに這い上がらなければと思うのに、体が動かない。 「…………て、」  あまりの痛みに気を失いかけたとき、ドアが開いたような気がした。気配は迷いなくこちらに近づいて、九条の体を支え起こす。 「落ち着け」  淡々とした響き。キャスカだ。 「どうした」 「は、腹が……痛くて」  言ってしまってから、しまったと思った。過酷な森で暮らす彼らのことだ。腹が痛いくらいで大騒ぎしている都会人なんて、ざまあみろくらいのものだろう。  だがキャスカは「わかった」とだけ応じると、すぐさま立ち上がった。  ――どこへ、  口にもしなかったのに、この暗がりにも関わらずキャスカは九条の不安を感じ取ったようだった。 「すぐ戻る」  縋ってしまった。先住民の子供なんかに。しかもオメガの。  そうは思ったが、腹の闇雲な痛みには勝てない。体裁を取り繕う間もないままキャスカが戻ってきたときには、半ば意識も飛びかけていた。 「これを飲め」  なにかが口元にあてがわれる。これ以上このジャングルのものを口にするのには抵抗があったが、特におかしな臭いもないことだけかろうじて確認し、九条はそれに口をつけた。 「――っ、」  とたんに吹き出してしまう。 「に、にが……ッ! なんなんだ、これ……っ!」 「聖なる木の樹液を水に溶いたものだ。たいがいのことはこれで治る」  塗っても、飲んでもいいということなのだろうか。それが本当なら大した万能薬だ。そういえばセルバティコもそんなことを言っていた気がする。信用に値するとしても、あまりに苦すぎた。こんなに苦いということは、現地人ではない自分にはそもそも不適合ということなのではないだろうか。  そんなことをうわごとのようにくり返して抵抗を試みると、キャスカは淡々と応じた。 「わかった」  ほっとしたのも束の間、ぐいっと首の後ろを掴まれる。  強制的にあおのいた瞬間、柔らかいものが唇に触れた。  瞬間、苦いはずの液体が酷く甘く薫る。  ――のは気のせいだったのか、続いて流れ込んでくる液体はやはり喉が焼かれるほど苦い。九条は盛大に噎せた。それでもキャスカは再び口移しで液体を流し込んでくる。再び噎せ返りそうになったとき、舌先に柔らかなものが触れた。  キャスカの舌だ。  瞬間、頭の中で、苦み以外を感じる機関が、ぶわっと広がった気がした。そんなものがあるとして、だが。  だが確かに泡沫のような快感が体中を覆って、ほんの少しだけ苦みが和らいだような気がした。  なんだこれ。こいつが〈神子〉だから、なのか?  呪術的な能力など信じたことはない。  だがこのとき九条は、液体がとろりと喉を下っていく感覚を、たしかに心地良いと感じた。
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