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 なるほど、人間は慣れの生き物だ。  夜明けと共に起き、朝食を作って食べ、少し眠る。  昼食を作って食べ、気が向けば前任者の置いていった本を読み、昼寝する。もしくは水浴び。  日暮れ前にアンクァスが夕食になるものを持ってくるのでそれを食べ、暗闇が訪れればまた寝る。  天候が安定していたこともあって、二日ほどそんな生活をしていたら、なんだか都会にいた頃より体が軽いとさえ思うようになった。十二分な睡眠がとれているからだろう。ユカを食べるコツと適量も覚えたから、もう腹がむやみに痛むこともない。  キャスカのほうも似たようなものだった。だいたいアンクァスの吊っていったハンモックの中で静かに眠っている。その姿はまるで羽化するのを待つ蛹のようだった。大きく羽ばたく日に備え、じっと力を蓄えている。  実際この儀式とはそういう意味のものなのではないか。九条はそう思い至った。  オメガは初めての発情期を迎える前、眠くなるとも聞いたことがある気がする。日本ではオメガの最初の発情は平均して十七から二十歳の間らしいから、キャスカの年齢にもちょうどあてはまるだろう。連綿と続いてきた儀式が実は合理的に出来ているというのもよくある話だ。熱帯雨林の環境では、無防備に寝ていたら動物に襲われる。ならば見張りを立てて隔離すればいい。それが長年の間に儀式として位置づけられていったのだろう。  ここで休養を取り体調を整え、祭を迎えれば、あとは不特定多数と交わって、一族のために子を産み続ける。  短期間で会話が出来る程度に言葉を覚えられるのだから、キャスカは頭がいい。そして若い。そんな少年が一生を未開の森の中で過ごす。もったいない気もするが、彼らの中では当たり前に続いてきたシステム。  部外者の俺がどうこう考えることじゃない。そもそも他の未開の国の最下層のオメガに比べたら、敬われているだけずっとましだ。  俺も、さっさとこいつを言いくるめて、手柄を持って帰らないと。  とはいえ、相変わらずセックス以外のアプローチをなにも思いつかない。この二日、本当によく寝ただけになってしまった。  焦りを抱えた三日目、異変が起きた。  食料を持ったアンクァスが、やってこなかったのだ。  そもそも時間の概念などないに等しい彼らだ。食事にしても、たまたま九条の生活リズムと、神子であるところのキャスカに沢山食べさせなければならない事情が重なったために一日数回食料を運んでいたが、本来森の中では「手に入ったときに口にする」ものらしい。  だから初めは、アンクァスがやって来なくてもさほど気に留めていなかった。重労働をするわけでもないので、そう腹も減らない。  だが太陽が中天に上っても、そして傾き始めても彼は姿を見せなかった。先住民といえども日が暮れればそれだけ大型の獣に襲われる危険が増す。だから九条の感覚ならまだ昼に近い三時には夕食の材料を携えてやってきていたものなのだが。 「今日はもう来ないな」  気になって小屋の外に出ていると、いつの間にか眠りから起き出したキャスカが隣りに立ってそう言った。 「なにかあったのか?」 「ベンタロンで倒れた木に道がふさがれたか、村で病人やけが人が出たか。取り仕切るのに忙しいんだろう。アンクァスは次の長だから」 「一番偉いのは神子じゃないのか?」  アンクァスの態度から、てっきりそう思っていたのだが。訊ねると、キャスカは言った。 「俺は産むだけだ」  なぜだろう。いつもの淡々とした調子のなかになにか自嘲めいたものを感じて九条がキャスカの表情をうかがおうとしたとき、彼はもう歩き出していた。 「おい」 「行くぞ。日が暮れれば身動きがとれなくなる」 「行くって――」  わけもわからず、九条はキャスカのあとを追った。ただ歩くだけでも、森の中をよく知るキャスカとはぐれるのは得策ではない。なにしろ地面に見えてその実空洞になって倒れた大木の上に葉が降り積もっているだけ、という危険な場所があちこちにあって、初日のようにまたうっかり踏み抜いたら怪我をする。擦り傷程度ならどうということもないが、骨でも折れたら医者もいないのだ。  キャスカが向かったのは川だった。傍らの藪の中で棒を二本調達してきたキャスカは、一本を九条に手渡すと告げる。 「川の中に入れ」  それがあまりにいつもの調子と代わらなかったから「ああ」とうっかり従いそうになって、はたと我に返った。 「――川にはピラニアがいるんだろ!?」  危うく騙されるところだった。  だがキャスカはいっこうに取り合わない。 「ほんの少しだ。入ったら水面を叩け。寄ってきたところを俺が刺して仕留める」 「水面を……叩く……?」  釣りは嗜んだことのない九条だが、普通、魚を捕ろうとするときは静かにするものではないのだろうか。不承不承浅瀬に入って棒の先端で水面を打つ。すかさず「もっとばしゃばしゃと!」と現場監督の檄が飛び、九条は半ばやけくそで棒きれを水面に叩きつけた。  すると。 「うわ……ッ」  思わずそう声を上げてしまうほど、一斉に辺りが銀色の魚影で埋まる。 「動物が入ってきたと勘違いして集まってくるんだ。そこを突く」 「なるほど。――おまえな」  やはり微妙に危険の伴う作戦だったのではないだろうか、これは。  抗議する間もなくキャスカは「どけ」と九条を下がらせ、尖らせた棒に次々ピラニアを串刺しにしていった。  ピラニアを持ちかえり、火を熾す。キャスカは、ピラニアの身は薄いので丸ごと食えるよう揚げたらどうかという九条の提案を受け容れて、実に手早く夕食を作り上げた。 「――って、おい」  頭までカリカリに揚がった香ばしいピラニアにかぶりついたところで気がついた。 「おまえ、自分で飯の調達出来るんじゃないかよ!」 「出来ないと言ったか?」  あらためて問われて気づく。 「言ってない、か……」  生命力の坩堝のようなジャングルで、銀色の髪のキャスカの存在はどこか現実味がない。そのうえアンクァスのあの尽くしようだ。勝手にそう思い込んでいた。 「じゃあなんでなんでもかんでもアンクァスにやらせてるんだ」 「神子の儀式の世話人は、次期長候補が勤めると決まってる。発情期近いルスと接しても、抜け駆けして間違いを起こさない冷静さが長の条件だ」  なるほど、七日間の隔離は、斎戒沐浴と次期長のテストを兼ねた合理的なシステム……なのか? 「ドMだな」  もしも長候補と神子、どちらかまたは双方が恋情を抱いていたのなら、地獄のようなシステムではないのか。すぐ近くにいながら手も出せず、これから村中の男に孕まされる相手の身の回りの世話だけをする。されるほうだってつらいだろう。  いや、そもそもオメガのくせに初対面からまぐわうだの味見だの言い出す神子だ。根本から貞操観念が違うのかも知れないが。 「それに」  幸いにして「ドM」の意味はわからなかったのか、キャスカはなんの反応もせず、ただ汚れた指をちろりと舐めた。 「先代の神子が教えてくれた。神子は繁殖以外なにも出来ないと思わせておくのが重要だ、と。でないと、非保護欲が薄れる。ただでさえ見た目も他と違って生まれつくしな」  確かに繁殖の能力に優れている上にすべてにおいて主導権を握るとなると、嫉まれることもあるのかもしれない。長と神子とで権力を分担しているのもそのせいなのだろうか。 「人間は多くを持ちすぎる者のことを憎く思うものだ」  そう語るキャスカの横顔は、とても十も年下の少年とは思えない、ひどく大人びた色をしていた。 「……実際そうでなくとも、なにかを持っていると思われただけで嫉まれることもある。部族から一歩も出ず、与えられたものだけを喜んで食べ、ただひたすら子供を産み続けるのがいい神子だ」  キャスカは首から下がった真珠を揺らしてみせる。 「アピス族の中で白い物を身につけることができるのは神子だけ。ユカを掘り起こしに行ったり狩りを自分でしないという目印だ。そんなことをしたらすぐに汚れてしまうからな」  自分で狩りをしない目印。  ――いや〈させない〉目印か。  てっきりアピスの神子は丁重に祭り上げられて、なに不自由ない暮らしをしているものだと思っていた。だが、この口ぶりでは。 「……おまえ、ほんとうは神子であることが嫌なのか?」  ことあるごとに「まぐわうか?」と訊ねるくらいだから、抵抗はないものと思っていたのだが。 「嫌?」  キャスカはかすかに笑ったようだった。 「そんなことを考えてどうなる」  残すと虫や獣が来るから全部喰え、と告げて、虫も殺さぬような美貌の少年はピラニアの頭をがりがり囓る。 「……この見た目では逃げようもない」  答えになっていない答えは、常に淡々とした彼の心の揺らぎを映しているような気がした。  考えてみれば残酷な話だ。頭も良ければ自制もきくこんな若者が、森の中に閉じ込められてただひたすら子供を産む道具にさせられる。  そりゃ、喰うには一生困らないのかもしれないけど―― 「無能で、ただ子供だけ産んでることを望まれるなんて、奴隷とどう違うんだ」  思わず口に出してしまって、自分で戸惑う。  俺だってずっと思っていたはずだ。オメガはオメガらしくめそめそしていろと。 「なんだってそう淡々としてんだ。自分のことだろう」  キャスカはひとつ、またたきしたように思えた。 「気性の浮き沈みが激しいルスは好まれない。それに、ルスはみんなのものだから、誰かひとりを特別に扱ってると思われないよう、あまり感情を外に出さないようしつけられる」  銀色の睫は翼のように、表情の掴みにくいかんばせに影を落とす。  そう、影。  今気がついた。  なにもかもが太陽の下に己を曝け出しているようなジャングルにおいて、キャスカが九条の目を惹きつけるのは、どこか彼の中に計り知れない影のようなものの存在を感じるからだ。権力も、策略も存在しない、ただ日々生きることだけを考える。そんな暮らししかここには存在しないと思っていたのに。  油で汚れた唇を拭い、キャスカは九条をじっと見つめる。  「まぐわうか?」 「まぐわわん!」  いったいぜんたいどうして今の流れでそうなる。  きっぱり言い切ってしまってから、しまったと思った。  なんで俺はみすみすチャンスを不意にしてるんだろう?  このままこいつとセックスして骨抜きにして、言うことをきかせる。今までずっと簡単にできていたことなのに。 どうしても、キャスカから仕掛けられると、腹の底がふつふつと熱くなって、断らずにはいられないのだ。  こいつが生意気なのがいけない。九条は命令することには慣れていても、されることには耐性がなかった。どうにも調子が狂う。  いや、――九条はピラニアの骨を注意深く噛み砕いて嚥下する。そんな甘っちょろいことを言っている場合か、俺。手柄を立てて日本に帰るんだろう。  だいたい、ことに及んでしまえば生意気な口もきけなくなるはずだ。アルファの愛撫に、オメガは逆らえない。 「なあ、」  つまらないプライドには一旦蓋をすることにして九条が口を開いたとき、森のどこかから獣の声が聞こえた。  いつかの夜聞こえた、大型の獣のように思えるそれだ。  近くにいるのだろうか。聖なる木には動物たちが集まるというが、どう猛な物も含まれるのだろうか。落ち着かない気持ちでいると、キャスカはこうべをめぐらすこともせず、ただひとこと「ピューマだ」と告げた。 「ピューマって」  すぐに小屋に入らないとと腰を浮かせかけた九条に、キャスカは端然と食事を続けたまま告げる。 「いるのは川向こうだ。こちら側までは渡ってこない。川にはピラニアもワニもいるからな。よほどのことがない限り、ピューマは水に入らない」 「でも、吠えてるぞ」  よほどのことがあれば入るということなのだろう。だとしたら早く小屋の中に、と九条は落ち着かなくなるのに、キャスカは悠然と食事を続けている。 「つがいを探してるんだろう」 「探す?」  これだけの森だ。ピューマなんて、いくらでもいるものじゃないんだろうか。辺りにさまよわせる九条の視線からそんな疑問を察したのだろう。キャスカは何匹目かのピラニアを飲み下す。 「ピューマの数もずいぶん減った。一生つがいに会えないまま死ぬものもいる」  それ以上語られることはなかったが、それもきっと開発による影響なのだろう。  別に俺のせいじゃないと思いながらもなんとなく気が咎めて黙り込むと、キャスカがおもむろに唸った。  いや、川向こうから風に乗って運ばれてくるピューマに似た声を出したのだ。  どうやらそれはちゃんと届いたらしく、向こうからも声が返ってくる。 「部族に伝わる鳴き真似だ」 「うまいな」  思わず素直な賞賛が出てしまう。 「アンクァスはもっとうまい。本来は鳥を狩るとき仲間だと思わせておびき寄せるわざだ」  川向こうから聞こえる鳴き声はまだ淋しさを伴っていたものの、ほんの少し生気を取り戻したかのように思えた。キャスカがまた応じる。ピューマが返す――キャスカに感心しながらそのやりとりの響きに耳を傾けているうち、今度は別の感慨が首をもたげた。 「……かえって可哀想じゃないか? つがいがこっちにいるかもって、半端な夢を見ることになるのは」  川幅は広く、ワニや毒蛇、ピラニアが潜む。よほどのことがないかぎり、こちら側には渡ってこれないと言ったのは、他ならぬキャスカだったではないか。  キャスカは微かに笑った。 「ピューマにはずいぶんやさしい。ルスにはつれないのに」  からかうようにそう言われ、九条は我に返った。柄にもなくセンチメンタルなことを口にしたものだ。  なんだ。かわいそうって。  動物ごときの心配をしている暇があったら、考えるべきだ。あと数日のうちにどうにかキャスカを丸め込んで、開発に有利なように話を持っていく方法を。  九条は表情を改めた。都会でなら、落ちないオメガはいない角度で囁きながら、キャスカの華奢な顎を持ち上げる。 「やさしく……されたいのか?」  ぷっくりと、今にも弾ける瞬間の花の蕾のように張りのある唇を、親指の腹で撫でてやる。人肌に触れるのが久し振りなせいか、九条自身、身の内がぶるりと震えるような感覚を味わった。だいたい、こんな状況下、こんな生意気な態度でなかったら、キャスカの容姿は文句なしに美しい。  オパールのような虹彩が、ゆらりと光った気がした。 「まぐわうか?」 「まぐわわん!」  ――俺としたことが。 また断ってしまった。光より速く。  獲物が向こうから転がり込んで来て、あとは美味しく頂くだけだというのに、長年の習い性というのは実に恐ろしい。  しっかりしろ。こいつを文字通り抱き込めなきゃ、俺は一生九条の面汚しだって扱われる。そんなの堪えられないだろう、九条雅斗。  そんな九条の煩悶など当然知る由もないキャスカは、銀色の羽根のような睫を伏せた。 「気休めも今夜一晩やり過ごす役には立つ。暗闇にたったひとりと思うよりいい」  再び鳴き真似を続ける。ひとりと一匹の淋しい鳴き声は、しばらく川の上に響き渡っていた。
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