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 ふ、と鼻先を光がかすめた気がした。  ふわふわとたゆたう光に誘われるように九条は体を起こす。衣類はびしょ濡れだが、幸い怪我はないようだ。  ああ、俺、森に出て、そしたら凄い音がして――雨が。  ベンタロン、と呼ばれる嵐に巻き込まれたのだ。かたわらの木が倒れてきたところで記憶は途絶えている。見た目は立派に立っていても、中が空洞になっている木があるから気をつけなければいけないと案内人(セルバティコ)に言われていた。最もそのセルバティコのあとを追って出て、こんな目に遭っているわけだが。  確認したとたん肉体が感覚を取り戻したのか、ぶるっと震える。  ――寒ィ、  ここは熱帯雨林だ。  つい昨日まで、ジャングル特有の嵐があることも、夜は冷えるなんてことも考えてみたことはなかった。少し前までは、日本のごく恵まれた企業のサラリーマンだったのだ。それがこんな、闇をさらに濃く煮詰めたような闇の中でひとり震えることになろうとは。  そのとき再び、視界の隅を光が通り過ぎた。  まるで九条を誘っているかのように。  複雑に絡み合った植物に足を取られないよう、注意深く立ち上がる。闇しかないと思っていた一画がぼんやりと明るくなっていて、足は自然とそちらを目指した。  なにしろ暗闇で様子をうかがいながらだ。なかなかたどり着けずもどかしい思いをしていると、ざわ、と木立が鳴った。  ――ピューマか?  ピューマはジャングルの長だという。襲われれば日本人としては体格に恵まれた九条も為す術はなく腹の中だろう。こんなときに限って、ああいう獣は内臓の柔らかいところから喰らう、という日頃忘れている知識が脳裏をよぎった。  身構えて、息を潜める。辺りを見渡したところでなにも見えない。気を取られたせいで、あれだけ注意していたのにもかかわらず踵をとられて無様に転んだ。 「……ッ!?」  濡れた足元は滑り、前後も高低差もわからないまま転がり落ちる。 「……ってぇ、」  この俺としたことが、なんて無様な――起き上がろうとしたとき、九条の視線はあるものに釘付けになった。  転がり落ちたのは沼のほとり。月明かりを結晶化させたような白い花が水面から凛と立ち上がっては、ぽん、と開く。蓮の花が開くとき、音がするのだということを九条は初めて知った。  言葉もなく見とれていると、今度は花が宙を舞った――ように見えたのは錯覚で、無数の白い蝶が一斉に羽ばたいたのだった。蝶の群れが水辺で羽根を休めていたらしい。  さっき見た光もこれか。  暗闇に白が目立つだけでなく、その羽根の鱗粉が複雑に月明かりを跳ね返すのだろう。きらきら、きらきら、まるでなにか囁き合うかのように輝いている蝶の群れる先に、そいつはいた。  ――人?  こんなところに。  すぐさま先住民に結びつかなかったのは、突然現れた少年から荒々しい気配が微塵も感じられなかったからだ。  ――それに、  九条の視線を釘付けにしたのは、少年の見事な銀髪だった。  白く輝く蝶は、その褐色の肌をした少年の周りをまるで語りかけるように舞っている。時にその褐色の肩にとまり、またすぐに離れ、少年が戯れに水を弾けば、それを楽しんでいるかのようにひらりとかわす。  ずっと横顔を見せていた少年が、蝶を追ってこちらを振り向く。無様に這いつくばっている九条の姿に気がつくと彼は、長い睫に縁取られた目をしばたかせた。  ああ、睫まで銀色だ。  意識は、そこで途切れた。
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