5

1/1
1527人が本棚に入れています
本棚に追加
/33ページ

5

 トラブル続きで疲れもたまっていたのだろう。そのあとはぐっすり眠って、目覚めると腹痛はすっかり収まっていた。  一時は内臓に直接虫でも入り込んだかと思ったほどだったのに。  寝乱れた髪をかき上げながら腕時計に目をやる。幸い、日本から持ってきたダイバーズウォッチは壊れておらず、それによると時刻は昼過ぎだった。寝室を出る。キャスカのハンモックはもぬけのからだ。  外に出てみると、すぐ鼻先を極彩色の鳥がかすめていった。いつの間にか数羽小屋の周りに集まってきているらしい。川を遡上して来る途中で泊まった民家にも、その鳥はいた。なんでも、人間がいる場所は他の動物が寄りつかないため安全だと判断して、逆に近づいてくる鳥なのだという。危険なはずの人間の存在さえ、この広大な森林に暮らす動物からすれば「生きるためなら利用する」ものなのだ。やたらと虫が寄ってくるのも人間の体から出るミネラルを取り込もうとするためらしい。  あらためて小屋の背後にそびえる木を見上げる。近くまで行ってみると確かに樹液がしみ出していて、辺りには動物の足跡が遺されていた。  九条は携えてきた容器に樹液を採取した。昨夜の件でこいつがほんとうに万能薬であることは立証されたので、少し備蓄しておこうと思ったのだ。ついでに体の露出した部位にも塗りつける。すると、小屋を出た途端にまとわりついていた小さな蠅だか蜂だか蚊だかわからないものは本当に寄ってこなくなった。  キャスカはあの嵐のあとの月明かりで初めて会った沼で水浴びをしていた。相変わらず辺りを白い蝶が舞っている。 「俺の回りには蚊みたいな虫しか寄ってこないのに、なんでおまえの回りには蝶が寄ってくるんだ?」  声をかけても、もともと全裸に近い姿で過ごしているからか、キャスカは恥じらうふうもなく愉快そうに口の端を上げた。十も年下とは思えない余裕の乗った、艶然とした笑みだ。 「ひとりにされて心細かったか?」 「違う」  どうもいいように虚仮(こけ)にされている。今までの人生、九条にこんな口の利き方をする奴はひとりもいなかった。どうにもこうにも調子が狂うのはそのせいだ。 「俺はただ、昨夜の礼を」  聞いているのかいないのか、キャスカはつうっと水の中を滑るように泳いでいってしまう。蓮の葉と花の間を小魚のように。まるで水が進んで割れて受け容れているかのような、しなやかな肢体に目を奪われる。癪だと思うのに、だ。 「おまえにあそこで死なれると、虫や獣が集まってくるからな。川まで運べばピラニアが一瞬で綺麗にしてくれるが、おまえの体は大きくて、俺には少し手に余る」 「ああそうかよ」  苦々しく言い返せば、それを期待していたようにキャスカは楽しそうに笑った。そしてこともなげに付け足した。つい、と今度は仰向けに水の上を滑って。 「まあ、ほおっておいても治ったとは思うが」 「え?」 「おまえ、昨日ユカをがっついていただろう。村でも、加減を知らない小さな子供がときどきあれをやる。一度に食べ過ぎだ」  食べ過ぎ。  言われてみればユカとかいうあの芋のもちもちした食感は、でんぷん質故だろう。加えて、魚が塩辛い味付けだったこともあり、アンクァスが作ってくれた湯冷ましを大量に飲んだ。結果腹の中で膨れて――つまりはただの消化不良。  う、嘘だろ……。  九条グループと言えば日本でも有数の大グループだ。その家にアルファの男子として生まれつき、学校に行けば常にスクールカーストの上位、社会人になってからも優秀な能力を買われてヘッドハンティングも経験した。  その、俺が。腹痛ごときで。  思わずがっつり膝をつきそうになる。こんなところに来たくてきたわけではなかったが、誰も自分を知る者がいない土地で良かったと今だけは心の底から思った。  しばらく呆けたまま気ままに水浴びするキャスカを眺めていて、ふと気づく。 「わかっていたのに薬を持ってきてくれたのか」 「魘されていただろう」  すう、とまるで水と一体になったように肢体を遊ばせながらキャスカは言う。あまりにいつもと同じ淡々とした調子だからうっかり流してしまいそうになったが、それは。  ――心配してくれたってことなのか?  オメガなんかに情けをかけられたいと思ったことはない。むしろそんなのは屈辱だ。  けれど確かにあのとき――くり返し見るあの悪夢から目覚めたとき、暗闇の中に誰かがいてくれてほっとした。  なんだって?  九条は胸の中に浮かんだ感情を打ち消すようにかぶりを振った。  ほっとした?   オメガなんかに助けられて? いや、それは痛みが取れたからだ。こんな文明の果てた土地で体調を崩せば誰だって不安になる。  けしてオメガごときにほだされたわけじゃない。  ひとり悶々としているうちに、キャスカが水の中で背を反らした。  銀色の髪から水滴がしたたり落ちる姿は、まるで今まさに重い泥の中から首をもたげた蓮の蕾が、窮屈な殻を破って花開いたかのようだった。  水につかっていたからなのか、両の乳首はぷっくりと屹立していた。そうするとそこだけピンクなのがより目立つ。  張りのある褐色の肌は水を弾いて、それこそ全身に真珠を纏ったようだった。    ――こいつが。  九条は思った。  オメガでなかったら。あるいは自分が彼の部族に生まれついていたなら、素直に彼を崇めていたかも知れない。  もちろんそれは、意味のない仮定の話だ。  九条の視線に気がつくと、キャスカはひらひら舞う蝶の羽根の向こうで、いっそう艶然と微笑んだ。 「――まぐわうか?」 「まぐわわない」  またしても情緒もクソもない誘いを、九条は間髪入れずにばっさり斬った。一方で、妙な間など与えず、ばっさり斬れたことに安堵している自分を感じてもいる。  アルファとオメガは、どうしても惹かれ合うという。  でも俺は、絶対に自分からオメガに好意を抱いたりなんかしない。面白いようにひっかかるから、遊んでやるのが好きなだけで。  ――だが昨夜、口移しされたとき、なんともいえない心地よさを感じたことは事実だった。  ばっさり斬ったことで、キャスカもまたいつものように愉快そうに笑って、この話は終わりだと思ったのに、どうしたわけか彼は蓮の中にじっと佇んでいる。 その唇が、問いの形に動いた。 「おまえはなにも感じなかったのか?」  キャスカの不思議な揺らめきを持つ虹彩に見つめられると、その場に縫い止められたようになってしまう。手を伸ばして触れられる距離ではないのに、なぜか首元を抑えつけられているような息苦しさがあった。それでいてその感覚は苦しいばかりではないから厄介だ。かりかりと心臓をひっかかれ る痛痒さは九条がかつて味わったことのないもので、酷く落ち着かない気分にさせられる。  九条はなにかに誘われるように立ち上がり、水の中に足を踏み入れた。  つま先をひたした足元から広がった水紋はやがてキャスカの元まで届き、褐色の腿に触れる。それだけのことをなぜかとても艶めかしく感じて、ぞわ、とうぶ毛が逆立つのを感じた。「ゆうべ、俺は――」  自分でもなにを告げようとしているのかわからないまま、唇は勝手に言葉を紡いだ。  そのとき、ひゅ、となにかが鋭く空を切る音がした。  続いて、ビィン……と鼓膜が震える。反射で音のしたほうに視線を向けると、水辺の木の幹に蛇が矢に射貫かれて縫い止められていた。 朱に近い赤と黒光りする鱗を環状に纏ったその姿は、酷くまがまがしい。 「そいつに噛まれたら、死ぬ」 「……アンクァス」  気づかぬ間に、沼の上に伸びた木の枝の上から毒蛇に狙われていたらしい。危うく命拾いした。  のに、なにか邪魔をされたような気持ちがわき上がるのを、九条は自分で止めることが出来なかった。  邪魔?   ああ、そうか、そうだ。こいつを手なずけるのに話をする必要があって、だから。アンクァスの殺気は、アピスに不利な話をするには邪魔だから。  だからだ、と結論づけてどうにか波打つ心の水面を凪に戻している間に、キャスカは水から上がっていた。アンクァスはなにか言いたげに九条の顔を見つめていたが結局はなにも言わず、仏頂面のまま手に提げてきたものを掲げて見せる。 「夕食を持ってきた。――だ」  聞き取れない名を告げられたそれは、昨日の魚とは様子が違う。全体に毛の生えた―― 「さ、猿」 「嫌なら喰わなくてもいい」 「喰うよ」  そんな「俺の猿が喰えないってのか?」と言わんばかりの鋭い眼差しで睨みつけられたら。 「こいつは旨いが魚と違って少し手間がかかる。まず先に皮をはぎ、それでも残る毛はあぶって綺麗にする。おまえも手伝え」 「俺が?」  アンクァスはまたじろりと九条を睨むと、顎をしゃくった。その先には、さっきの蛇もまだ縫い止められている。 「……わかったよ」  命を助けてやった代償が料理のアシスタント程度なら、破格ということなのだろう。諦観と共に頷くと、アンクァスは、ふん、と鼻を鳴らして歩きだす。それを追ってキャスカが歩きだすと、銀の髪が煌めく残像が目の端をかすめた。ふわ、と蝶があとを追う。   そのさらに後ろに続きながら、少しだけ考えた。  アンクァスがやってこなければ、自分はどうしていただろうと。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!