王宮編

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「お待ちください!私はまだ納得しておりません!」  羽のような服をまとい、ライセンの前でその者は平伏した。七色に染め上げられた羽織が、風になびいてまるで羽のように広がる。  美しき鳥と、彼のことを宮中の者は称賛する。幾重にも重ねられた衣は、軽さを出すために最良の改良を施されていた。  彼が動くたびに、まるで鳥が舞っているようだと人々は陶然とする。  ライセンは静かに相手を睥睨すると、宮中の多くの者たちが出入りする大空間で、わざとこのような騒ぎを起こされたことに内心辛酸をなめる思いがした。同じ齢で幼い頃は、些細なことでも笑いあって楽しく可笑しく過ごしていたのに、いつの間にこんな関係になってしまったのか。 「なぜ私がおまえを納得させねばならない。私はお前を私のコミュニティに迎え入れるつもりはない。それだけだ」  ライセンの声音にトゥーンはしおらしくも項垂れた。 「わたしが、わたしが皇子の気に障ったのであれば、本当に申し訳なく思います。ですが、わたしはずっと生まれたときより皇子の元で、皇子のために生きたいとずっと思ってまいりました。どうか、私を捨てないでください、どうか、どうか!」  さめざめと哀愁をもって泣く美しき鳥に、人々が静かに集まり始める。彼の姿は、打ちひしがれて捨てられた美しき人そのものだった。  その茶番を見るたびに、ライセンは反吐が出そうになる。 「劇場で泣いていたらどうだ。お前に同情する観客もさぞや集まることだろう。私はお前の観劇にうんざりしている。騒ぎ立てるほど見苦しいことはない。いい加減にしろ」  嫌悪感を隠そうともせずに、ライセンは足早に立ち去る。美しき鳥は、悲しみに身を震わせ観客を沸かせているようだった。  護衛についていた近衛が、皇子に耳打ちする。 「このような大事にするのは、皇子のためになりません。トゥーン様はお血筋もよく、宮中で目立つ存在です。なぜ、つくられるコミュニティに加えるのを今になって拒まれるのですか」  ガイエという近衛は、ライセンが幼い頃より側で守ってきた男だった。コミュニティは別であろうとも、気心が知れている相手だった。それゆえに、相手もきちんと危険を警告してくる。  年も30歳に近く、教育係も兼ねている存在だった。兵装に身を固め、肩からライセン皇子の色である深紫のマントをまとった恰幅のいい黒の者だ。顔はどこか厳しくも面倒見の良い気質が見て取れた。  諭告は大いなるリスクを伴う。権力のある相手に逆らい、注意するなどよほどの覚悟がなくては出来ないからだ。ガイエの忠告にライセンは中庭へと歩を進め、誰もいなくなったことを確認してから息をついた。 「わかっている。私は、トゥーンが納得するまで3回も話し合いの場所を持ち、訣別の詫びとして、相手から要求された金品を三回渡している。それでいながら、あの騒ぎを起こされたのだ」  皇子の真摯な対応を聞いて、それを疑ったことのなかったガイエは大きく息をついた。 「…皇子、ここにきてトゥーン様を拒むのは手数のいることです。形だけでもあの方はコミュニティに収まれば満足するでしょう。もとより愛されることよりも、己が脚光を浴びることが大切な方なのです。もう少しうまく出来ないものですか」  容赦ない評価は、まさしくその通りだった。  幼い頃は、もっと普通の言葉が交わせていた。共にいて楽しい時間があったのに、今は嫌悪ばかりが相手に募っていく。  鳥だの、羽だのと馬鹿げた与太者の騒ぎに、ライセンはこみ上げた吐き気を、ぐっと押しとどめた。今更なのだ。自分が温情をかけ、関わったのが愚かだった。相手の血筋を甘く見ていたともいえる。  宮中の魑魅魍魎が跋扈するこの空間で、筒井筒の関係などどこ吹く風であると気付きもしなかった自分が愚かだった。 「その通りだ。その通りなのだが…」  マムフェの姿を思い浮かべ、ほっと内心息をつく。花のような美貌は、トゥーンのような押しつけがましい偽の容貌とはまるで違う。風のように涼やかで、野の花が咲いたように可憐だ。  真実の美貌がこれほどまでに無垢で、心を動かすのだとマムフェに出会ってライセンは初めて知った。飾らず嘘のない表情は、ころころと変わるたびに心を鷲掴みにし、翻弄した。  出会いは僅かな時間の逢瀬だった。触れた手のひらは幼く優しく柔らかい感触がした。激情に押し流され、手を出してしまいそうになるほど、マムフェは儚くも美しい夢のような存在だった。  必死で距離を縮め、ここまでやってきたのだ。  出会ってから一年以上過ぎようとしている。パートナーとして成人した自分の横に、彼を据えると決め、彼の出自を知ってからコミュニティに入れる者を彼一人だけにするため動いていた。  彼一人だけが自分のコミュニティにパートナーとして入るのであれば、誰にも嫌な目にあわされずに済む。丹念に自分だけが彼に愛を囁き、交われる唯一の者となれる。  それは甘い独占欲の匂いが満ちていた。何も知らないあの美しいマムフェを、自分だけのものにできるのだ。これ以上の幸せがあるだろうか。  トゥーンが、幼い時から自分の側にいたがる性質であるのは知っていた。コミュニティが別であるため、将来自分のコミュニティに入りたいと懇願してきた幼少時に、冷たい返事をしなかった。友人であったからだ。  その時に、コミュニティに入ることを誓約した書類を交わしていた。わずか8歳の時である。  トゥーンの父親は現王の弟に当たり、ライセンの叔父でもある。その叔父が二人を性急に結び付け、書類作成まで導いていた。兄や姉たちは静かに反対したが、幼いライセンは友情を踏みにじられたと、逆に意固地になってサインしたのだ。  後のことを考えるようにと、長兄は穏やかにライセンを諭した。 「今、お前の運命をここで決めるよりも、成人の頃合いに定めたほうが良いものだよ。トゥーンにとっても、お前にとっても」  今になって、幼い自分をライセンは恥じ、同時に嫌悪もした。  5番目の王位継承ということもあり、ライセンは自分の感情に素直であることが許された。まっすぐで飾らない、正直でやんちゃな皇子は誰からも愛されかわいがられる存在だったのだ。  王座に座らない皇子は、臣民となって王家を盛り立てていく。  どう考えてもライセンに王座が巡ってくることなどありえない。それゆえに甘やかされて育てられていた。  そのまっすぐな気性は、未だに変わらない。  王の性質と、民に愛される資質は違うものだと、長兄をはじめとした兄弟たちからはよく聞かされた。王であるのならば素直で、自分の要求に正直であるのは美徳ではなく愚鈍なのだと。  ライセンは同時に、自分が愚かでいるのが許されているのも、よく解っていた。王位継承権から遠く、自分の衝動に正直でいられることは黄金に勝る価値があることも、よく理解していたのだ。  長兄ならば、トゥーンを平然とコミュニティに入れることだろう。そして、ただ彼を現実的に愛さないだけだ。いや、その前に8歳と雖も文書を取り交わすようなミスはすまい。  していたとしても、一度も寝室を共にしないで、その存在を黙殺してしまうだろう。  そうしない選択肢を自分で選んでいるのは、ライセンが素直であり自分の心に正直でいられるからだった。  ガイエは困った人だというように、大きなため息をつくと何かを言いかけてハッと後ろを振り返った。  中庭には噴水が中央にあり、東屋がひとつそのそばに設置されている。石を敷き詰められた床は磨き上げられ、クリーム色の光を返していた。その周囲にはアーチ状に屋根を配した回廊が四方から伸びており、人の来訪がすぐにでも予期できる。  特にこの空間は音の反響が大きく、噴水はそれらを緩和するために置かれているようなものだ。  ガイエは足音で誰が来るのか、すでに察しているようだった。  足音すらそろえて近衛の者が幾人か歩いているその中心に、兵装で長い黒髪を美しく編み込んでいる一人の女性がいた。 「お前のアホウ鳥が、新しい演目を中央回廊で披露していたぞ。やっと愛想が尽きたのか。若干遅きに失した感もあるが」 「姉上」  ライセンは困ったような笑みを浮かべる。  ガイエは少しばかり離れた床の上に片膝をつき、相手を直視しないように下を向いていた。声がかかるまで控えるのが近衛の礼儀でもある。姉の近衛たちも、少しばかり離れた場所で剣をつき、やや下を向いて控える。こちらのほうが近衛の身分が高い事を示していた。  王位継承権第二位の姉は、宝石を髪に編み込んで飾る半面、兵装で闊歩する女性だった。美しく、快活そうな表情で末の弟を見つめると、歩み寄り愛し気に頬へ口づける。  ライセンも自分より少しばかり背の低い姉の頬に口づけて返し、微笑んだ。 「お耳汚しをしたようで申し訳ありません」 「別にいい、お前が悪いわけではあるまい。あれを手放すのは良い決断だと思う。ただ、書面もあるから面倒なことにもなるだろうが」 「過去の自分に、腹が立ちます…」  顔をゆがめて内心を吐露した弟に、姉は肩を叩いて励ましを送った。幼い弟が書面を交わしたのは、叔父の姦計にはまってのことだと誰もが解っている。それだけ非常識なことでもあった。 「今更だ。強引にコミュニティへ居座ったとしても、愛されない者は居辛いだけなのだから。お前の優しさが届かないのであれば、居室を城の端にでも作り実際に遠ざければよい」 「私は、彼を選びません」  しっかりと告げた弟に、姉はそれも良いというように笑った。 「成人の式典で、蓋を開けたら名前を呼ばれず放置されるアホウ鳥もよいな。泣かれようとも喚かれようとも、お前の良いようにするがいい」  なるべく穏便に事を進めたいのは、マムフェに実害が及ばないようにするためだった。最終的には、相手が納得しないのであれば無視することになるだろう。 「叔父上の癇癪で、父上に迷惑をかけることにならなければと…」  書面がある限りは、契約違反だと騒ぎ立てられることもありうる。 「父上はそんなことで動く方ではないよ。叔父上とは元々確執があるのだから、細かいことは気にしなくてよい。お前はお前の進みたいところにいけばよいのだ」  姉はきっぱりと告げると、調練場に行くとライセンに告げて軽やかに去っていく。長女の彼女は、剣術に長けた武人だった。  近衛の者たちが去っていたあと、ガイエは立ち上がるとため息をついた。 「全く、ライセン様は甘やかされていますね。私は少しばかり心配ですよ。先だっても叔父殿を陛下が厳しく叱責したばかりで、鬱憤がたまっていそうでしたから」  ガイエの言葉にライセンが眉を顰める。 「死の谷を叔父上が発掘しているという噂は本当なのか?」  ガイエが苦い表情で頷く。 「罪人を使って、中を掘らせるために鎖でつなぎ、逃げられないようにしたそうですよ。三日間でその場所にいた全ての人間が死に絶えたようです。宮中の兵を勝手に動員し鎖作業に当たらせたので、死んではいないものの20人ほどおかしくして帰ってきたとか。神殿からは強い警告文まで届きました。あの方は常軌を逸しておられます」 「恐ろしいことだ…」  ライセンは掠れた声でつぶやくと、大きなため息をついた。  季節は夏になりマムフェが学舎に通い始めて、1年と半年以上の月日が経過していた。学舎の新学生は1の月から迎え入れられ、カリキュラムは1の月と7の月から大きく変更されていく。  7月から新たに軍事訓練科目が加わり、兵装と共に私物の剣と槍、弓と馬が必要とされる。学舎所有の物も勿論あるが、生徒たちは自分の自宅から愛馬で通えることになったのを喜び、同時に自分の装備も含めて見せ合うのが楽しみの一つだった。  マムフェには変わらず、二月に一度服が届けられていた。季節ごとの装いは日常で大いに役立ち、同時に背も伸び始めた彼にとってありがたいものだった。  成長に合わせて服はぴたりとあつらえられ、仕立てられている。学舎長がマムフェの服をあつらえるためと、二月に一度仕立屋を呼ぶ。それが先方に伝わっているようだと、薄々気づいていた。  礼を言いたいと学舎長に申し出たところ、手紙を書きなさいと言われ、したためたが返事は来なかった。  感謝の言葉は並んだが、ほかに何を書けばいいのかわからないまま箱が届くたびに手紙を書く。  返事は来ない。その繰り返しだった。  6の月の終わりも近い頃、いつもの通り7刻に学舎長の部屋へと行ったときだった。あろうことか、出迎えたのはかつての美しくも華やかなあの男性だったのだ。  驚いて立ちすくんだマムフェの手を取り、部屋へと迎え入れると男性はしげしげと少年を見つめた。 「あつらえた服がよく似合っている。少し背が伸びて面差しも少し幼さがなくなったな。かわいい小鹿よ」  男の長い髪が肩から滑り落ち、高く結っている止めの部分にある宝石がシャラシャラと涼しげな音を立てた。  返答の言葉がうまく出てこないまま、沈黙が落ちる。  夏の気候は照り付ける光が強くなり、乾燥が強くなるため使用人たちは水を乗せた荷車を農耕馬に引かせて、乾かないように間断なく地面を潤していた。その荷車の音が、開け放たれた窓の外から、ぎぃぎぃ、とかすかに聞こえる。  がたごと、ぎぃぎぃ、がだかた、ぎぃぎぃ…。  やがて、荷車が遠ざかっていくと男は、ふふと笑いをこぼした。 「お前は随分と緊張をしているようだね。もっと色々話せると私も嬉しいのだが。まぁ、急いでもいいことはないものだし、本題を言うとしよう」  男の顔を見上げ、マムフェは驚くほど彼の顔が整っていることに気づいた。長いまつげがまるで鳥の羽のようにはためいて、その下の黒い瞳は不思議な色をたたえている。  綺羅とした存在感は、生まれつきのようでもあった。  男は腰に差していた長剣を一本と、短剣を一本、テーブルの上に置いた。向かいの椅子に座っていた学舎長は何も言わず、事の成り行きを見守っている。 「7の月から軍事訓練が始まるだろう。その時、必要となるだろう小物を届けに来た。馬はあそこに居るカイネスの愛馬の若駒で、栗毛の美しい馬を連れてきた。馬は一生の友になる。お前と気が合わなくては、馬も苦しい思いをすることになる。剣は折れれば終わるが、馬は共に生きていくものだ」  指示されたカイネスは、兜をかぶっていないため茶色の髪が見えている。これほど高貴な人の護衛に茶の者がつくのは、マムフェの知識からすると異様なことだった。  目元は鋭いが、忠義を感じさせる口元がマムフェの視線を受けて、きゅっと引き締まる。 「会って気に入らないようであれば、馬のためにもお前のためにならないから、引き合わせるために今日は来たのだよ。会わずとも、不要というのであればすぐに連れて帰るが」  普通ならカイネスが茶の者ということもあり、初めから断る黒の者が多いだろう。わざわざ茶の者が使っている馬の血統を引き立てる必要はないのだから。その中で、マムフェは異端の反応を返した。 「いいえ、僕は会ってみたいと思っています。馬は大好きです。でも、僕は、馬を飼ったことがないのです。世話がきちんとできる自信もありません。それが心配です」  本心から、自分に馬の世話ができるのか不安な表情を浮かべたマムフェに、男は満足そうな頷きを返した。 「お前は小さい。多少苦労があるかもしれないが、馬とは心を通じ合わせる友となるのだから、一つ一つ覚えていけばいい。失敗をしながら共に時を過ごしていける相手なのだから。では案内するとしよう」  途端に、カイネスの他に控えていた黒髪の兵が、戸口へと向かっていく。学舎長は置かれた剣をみつめ、慌てて声をかけた。 「お待ちください、この剣はどうしたらよいですか」  止められた男は、ああ、というように剣を見る。 「この剣は、授業で使うといいだろう。素朴な剣ではあるが、ものは良いものなのだよ」  長剣を取り上げ、柄を握る。柄には、細かな紋章をはじめとした細工が緻密に施され、鍔には目立たぬ場所に青い宝石があしらわれていた。一目見て、年代物だとわかる。  飾り立てた品ではないが、実用性も兼ねた一級品であるのは間違いないだろう。 「僕は、剣を扱ったことがないのでこのように素晴らしい品は、過ぎたものです。いただくことはできません」  はっきりと断りの返答をしたマムフェに、ギョッとした表情を浮かべたのは学舎長だった。ぱくぱくと、何を言い出すのかと言いたげに声にならない空気を吐き出す。  方や断られた男は、心底面白そうな笑みを口元に刻むと、頷いた。 「剣はお前の身を守るもの。過ぎた品にするのか、しないのかはお前の努力次第なのだよ。過ぎた品にならないよう、研鑽しなさい。腕が上がった時、これはなまくらを持つよりもよほど役に立つ」  受け入れ拒否は無理そうだと悟り、マムフェは素直に頷いた。過ぎた品にするかしないのかは、自分によると言われれば確かにそうだ。 「ありがとうございます。見合うよう、努力します」 「よろしい。では馬を見に行くとしよう」  二人の兵が素早く男を護衛し、扉の外へと歩みだす。男に連れられマムフェは厩へと向かっていった。  学舎には備え付けの巨大な厩がある。生徒は7歳から15歳までの黒の者たちが在籍し、学舎で管理している馬もかなりの頭数がいるからだ。縦割りの授業は、馬にうまく乗れるようになった9歳のころから、多く取り入れられるようになる。  今のマムフェは同年齢の横割り授業しか受けていなかった。  だからこそ、この厩の大きさには心底驚いた。  今は7刻であるため、生徒たちの馬は一頭も残っておらず、かなり静かな状態だった。それでも、見渡す限りの巨大な空間は、壮大だった。  初めて入った厩に、マムフェは好奇心を抑えきれない視線で辺りを見つめる。  大空間に巨大な柱が立ち並び、頭上からは天井のガラス窓から、光が取り入れられている。不思議なことにガラス窓には彩色がなされており、落ちる光は様々な色を帯びていた。  高い天井は巨大な木のように、柱が頭上を支えている。  その壮大な空間を、石の柱と木の柵が区割りで施されているだけで、見渡せるようになされていた。ただし、四方を囲うように、簾が木の枠から降ろされている場所には、馬がいる。  馬がいない場所を明確に判別できるよう、使っていない馬房は簾が巻き上げられていた。  人の気配に、いくつかの馬房から馬が足をかいたり、鳴いたりする声が高い天井に反響した。  その中、マムフェたちは一つの馬房へと歩んでいく。周辺の馬房も使用されているのを示すように、簾が下りている。その中の一つ、鬣はまさしく金色、体色は金色に近い馬が鼻息も荒く前足を鳴らしていた。 「まだこのような大空間には慣れていないから、怖いのだろう。気が強い子だから、怖さや不安を怒りで表現することが多いのだよ。カイネスの馬もそうなのだ。だが、主と決めればその忠義に答える気持ちはとても強い。良い友となるには相性も重要だからね。お前が合わないというのならば、無理をしてはいけない」  首を上下にして耳をピンと立てている馬に、マムフェは見惚れると男に頷いた。 「はい。僕はうまくやっていけたらと思います」  素直に手を伸ばす。途端に慌てたのはカイネスだった。止めようとして動いたところで、男が腕を上げその動きを止める。  全員の目の前で、マムフェの手がばっくりと馬の口に収まった。  噛まれた当人のマムフェは、驚きのあまりそのまま固まり、カイネスは不安そうな表情を隠しもしない。男は笑ったまま、マムフェの手を咥えている馬の鼻づらを撫でた。  途端に、唾液にまみれた手が、馬の口から落ちる。  歯形が赤く残っているものの、本気で噛んでいなかったのは明白だった。  呆然とマムフェは唾液まみれで噛まれた手を見つめていたが、はっと我に返ると同時に面白くて仕方がないというように笑いだす。  子供の無垢な笑い方だった。 「馬は噛むんですね!知らなかったです」  目を輝かせているマムフェに、カイネスは何とも言えない表情で、唸った。 「噛んではダメなんですよ…」  狼狽しきりのカイネスを一蹴するように、男が口を挟んだ。 「本気ではないのだから、そんなに目くじらを立てなくてよい。マムフェ、馬は本気で噛めばお前の手など噛みちぎれる力があるが、そうしないだけの分別があるのだよ。つまりは、頭がとても良いのだ」  マムフェは感心したように、馬を見つめて頷いた。 「そしてとてもやさしい馬なんですね。僕は彼とうまくやっていきたい。名前を教えてくれませんか?」  若駒には幼名があるが、馬主に渡ると同時に新たな名前が与えられるのが通常だった。それを全く知らない問いかけだったが、男は頷いて教える。 「アスランだよ。はるか昔に、もうなくなった言葉なのだが、金色の鬣にそんな感じがしてね」 「アスラン、どんな意味なのですか?」  マムフェの問いかけに、男は何も言わずに天を見上げた。それから、呟くように告げる。 「そうだな、光、というところか…定めの先の希望と、すべての終焉を示すその先の光か。お前の運命の先が明るくあれ、ということだよ」  マムフェはみなまで理解出来なかったが、目の前の馬を見つめた。 「アスラン、僕はマムフェ。少しずつ仲良くなって、いずれは、生涯の友となれたらよいと思っています」  自己紹介に、カイネスはやきもきした表情を隠さなかったが、男ともう一人の兵は穏やかに微笑んでいた。  マムフェは、生涯の友とも呼べるアスランにこの時初めて出会ったのだった。
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