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イシュアがベッドで泥のような眠りに落ちたサシャを静かに見下ろしていると、部屋につながる一つの扉が開いた。この巨大なドームにはいくつもの扉が各所につなげられている中心地でもある。
だが神殿の深部であるこの場所に訪れることができるのは、一部の許された者たちだけだった。
入ってきたカヤを見て、イシュアはゆっくりと立ち上がると中央のテーブルへと歩みを進めた。カヤもテーブルへと歩みだす。
「神子が一人行方不明になったと、部屋子の一人が騒ぎ出したので来たのですが」
部屋子とは、神子の世話をする者をいう。ここに神子として訪れる者たちは、必ず自分の部屋子を連れてくる。
「誰がいなくなった」
イシュアの問いかけに、カヤは奥のベッドで眠る神子をちらりと見やった。
「あなたのもとにいるのならば安心です。しかし、あの毛むくじゃらで箒のようだった彼を、よくもまあきれいに磨き上げたものですね」
「お前がまともな部屋子を付けないから、こういうことになる。彼は銀の者だから食事をしなくてはいけないのも忘れていたか?」
イシュアはゆっくりと椅子に腰を下ろし、水差しからコップに水を注いだ。側に立っていたカヤは素直に頷いた。
「まったく念頭になかった私の失態です」
「あれがなんで神殿に入ってきたのか、探る必要もあるだろうな。だが刻印が出ている以上は私の神子だ。無下に扱わないように。お前が部屋子になり彼の世話をしろ」
サシャはここに来たものの何も持たず、教養もなく、世話をする者もいなかった。そのためカヤが部屋子を側の者に頼んだのだが、厭うた者は下の者に部屋子を押し付け、さらに下のものへと回された。
最終的には閉じ込めればよいと判断され、サシャは青の道へと閉じこめられたのだった。
あの道はイシュアのもとに続く道であり、イシュアの中庭に続く扉は許されたものにしか開くことができない。先にあるものを知らない彼らは地下牢として利用することを思いついたのだろう。
「わかりました。丁度よいので公文書館の者に彼の教育を頼みましょう。彼の光酔いの具合はいかがですか」
ちらりとイシュアはカヤを一瞥したが、やがて息をつくと立ち上がる。
「おそらくまだ思考に整合性がなく判断力と決断力が弱い。いずれはよくなるだろう」
「わかりました」
「それから、外の者に食料配布を行っている頻度を徐々に増やしていけ。神殿が配るとなれば王族も表立って何も言うまい」
金の者の決断に、カヤは静かに頷いた。そういった決断をイシュアが下したのは、サシャがあまりにも哀れだったからだろう。それほどにサシャは小さく弱かった。黒の者たちが占める王族は特に食事を嫌う。同時にそれはその行為を必要とする者たちへの蔑みでもあった。
「面と向かっては言わないでしょうが、内心はどうでしょうかね」
懸念にカヤは口元をゆがめ、苦く笑う。イシュアはまるで気にすることなく一つの扉へと歩みだした。
「関係のないことだ。贄の準備は?」
「整っております」
「お前はあの神子を私のそばの部屋へ連れていけ。青の間を使用すればよい」
カヤは承った印に胸に手を当て、視線を下げた。イシュアはそれ以上何も言わず一つの扉より先に進んでいった。その廊下の先は贄の間と呼ばれる。
閉じた扉を見送ってから、カヤは厄介な銀の者を世話するために踵を返した。
サシャが目を覚ました時、水の底のような光が辺りに散っていた。天井から落ちてくる光は全て光玉のものだろう。
炎のように揺らめく光が幾重にも重ねられ、部屋を覆っている。ゆっくりと身を起こせば、昨日までとは打って変わったような、青いシーツと、柔らかな布団にくるまれていた。部屋にはちろちろと水が流れる音がする。
見たこともないような調度品が並び、その一つには高価で通常は共用する水時計も存在した。
世界は一日を12刻とし、28日をひと月とする。ひと月は12月で一年とされた。今日は17日。
ぼんやりと時計を眺めて、24日になったら自分がいかなくてはいけないところがあると、思い出した。この神殿から街に出て、王宮に近い屋敷の小さな家に行かなければお金はもらえない。
この冬を越すこともできない。
扉が控えめにノックされた後、軋みもせずに開いた。サシャが怯えたような表情で入ってくる男を見つめると、視線の先で頷かれた。
「目が覚めていたようでよかった。食事だから起きるように。動けるかい?」
「…カヤさま…?」
「そうだよ」
まだ疲労の大きいからだで、サシャが身を起こす。痩せた体を見てカヤは扉を振り返ると足早に出ていき、続いて三人の女たちが部屋にわらわらと入ってきた。
めいめいに服と靴を持ち、ベッドの周りまで足早に歩んでくる。
「彼女たちに服を着せてもらいなさい。終わったら食事にいくからそのつもりで」
振り返りもせず出ていく。半ば呆然とその背を見送っているサシャの周りには、昨日彼を磨き上げた女たちがいた。
今更裸を恥ずかしがる理由もなく、促されてベッドの横に立ち上がると女たちは一様ににっこりと微笑んだ。
「おめでとうございます」
三人にそろって祝われ、何のことだかわからず目を白黒させる。サシャの様に女の一人が服を着せつつも、説明を始める。
「冠のことですわ。神子は冠がなくては神子としての役目を果たせませんから」
「役目…?」
サシャがきょとんとした表情で、反芻するのを聞くとそれ以上に女たちは何も言わず仕事をこなしていく。何枚ものの衣を美しく重ねて着せていき、最後に青い布で腰を縛った。
三枚ほどの重ね着だったが、ボタンが使われている服を始めてサシャは着た。形としては上から下まですとんと落ちたような衣装を、何枚も重ねて腰で縛るようなものだったがまるで自分で着れる気がしない。
刺繍もふんだんに使われたそれは、白い布地に青い刺繍が施されていた。
「参りましょう」
せかすように靴を履かせて、肩を押す。
扉を開ければそこは、青緑の宝石がふんだんに使われた美しい宝石の廊下だった。廊下の長さは100m程度だろう。押されるように歩み、昨日の同じ巨大なドーム状の空間に出た。
中心にはテーブルと金の男。そして若干渋い顔をしたカヤがいた。遅いと言いたげなのを見てサシャは慌てて走り出そうとし、転びかけたところを女に支えられる。
「ゆっくりおいで」
イシュアは実に面白そうにサシャを眺めていた。小川に架かる橋を越え、側にいくとサシャは当然のように抱き寄せられた。
「いい子だね。おはよう。これから食事はお前ととることにしたよ」
おはようと言われ、サシャは不思議な顔をした。それにイシュアがはたはたと睫をはためかせて見つめてくる。睫は長く金色で宝石のように輝いていた。
あまりの神々しさに息が詰まりそうになり、顔を真っ赤にしつつもサシャは細い体で彼を見上げた。
「おはようというのは、朝という刻限の挨拶だよ。昔の言葉だ。なつかしい言葉だよ」
イシュアが懐かしい表情で語るのを、サシャは素直に見上げた。
「おはよう」
サシャが告げるとイシュアの瞳に慈愛がともり、その温かさに圧倒される思いがした。優しく髪を撫でられる。
今までの髪の毛はガサガサして重かったのに、サラサラと今は柔らかい。軽く滑る髪はサシャの気に入ったものの一つでもあった。撫でられるとたまらなく気持ちがいい。
「お前は本当にかわいらしいね。さあ食事にしよう。そこに座りなさい」
促されるまま、隣の椅子に腰を下ろす。テーブルの上には食材がそれぞれに盛り付けられ、いい匂いをさせていた。
「これを使いなさい」
イシュアはサシャの手にフォークを握らせると、自ら使い方を見せて口に運ぶ。サシャはわずかに手を補助で使いながらもイシュアに盛られるがまま、それらすべてを口にしていった。
ここで出される料理は不思議なほどおいしく、そしてたまらない匂いがする。一つ一つに特別な味と香りがした。
「公文書館の件ですが、先ほど早馬が届きまして4刻から6刻までなら教育できると」
カヤの報告にイシュアは食事を続けたまま、ふっと息をついた。
「教育か。肉体的な教育は不要だと公文書館には伝えてあるだろうな?」
「今は不要だと思いますが、いずれは必要なのではないですか」
やや憮然とした響で言葉を返してきたカヤに、金の者は冷たい一瞥を向ける。
「それは私が決めることだろう」
「わかりました。ではそのように」
ため息をついてカヤは引き下がる。そのやり取りを呆と眺めていたサシャは、イシュアに頭を撫でられ縋るような視線を向けた。
「お前はこの後、湯あみをしてから少し寝なさい。そのあと4刻から6刻までの間神殿のことについて学ぶことになる。カヤについていけばよい」
絶対者の言葉だとサシャは思った。逆らうことなど何一つできない。
「はい」
頷けばイシュアは満足そうにいい子だとその神聖なる美貌に笑みを浮かべた。
サシャに黒いフードのついたマントを着付けると、カヤは神妙な表情で銀の者を見た。まだ何が起きているのか、どこにいるのかもわかっていない子供の顔がそこにある。
「決してこのフードを外してはいけない。このマントには神殿の印が刻んであるため、めったなことは起きないだろうが、お前が銀の者だと知れればそれは保証できない」
カヤの真剣な表情に気おされたのか、サシャがフードの下で頷く。銀色の髪がさらりと光り不安そうな瞳が緊張にぬれていた。
カヤも同じようにフードを目深に被り、誰なのか判別ができない姿になっていた。
「公文書館に着いても、先生意外にその姿をさらしてはいけない」
「はい…」
きゅっとサシャの首元の紐を止め、カヤは困ったような表情を浮かべる。
「私が思っているよりも、世間の動きは早い。あなたはあなた自身で自衛してほしいのだよ。体調は大丈夫かい?」
カヤの気遣いにフードの下で頷く。これほど厳重にしなければならない外出も不安だったが、彼の後ろについていくとサシャの思いとは裏腹に神殿の外へと案内された。
神殿の出入り口は中央正面に三つ、中央の大門をはじめとして、左右に門があるが彼らが外に出たのは衛兵が二人ばかりの、横に位置した門だった。
神殿は王都の第二中心広場にあり、そこでは月の1から14日まで市が立てられる。14から28日までは王宮に近い第一広場で市が立ち並んだ。
古今東西の者たちが集まり、物資も豊富な場所だった。当然人出も多い。
石畳は人の往来によって磨かれ、神殿には光の作用と効果を求めて大勢の者たちが列を成す。
貧しいものたちも富める者たちもそこに集う、坩堝のような空間だった。
神殿から出たとたんに、サシャは人いきれを感じて息苦しさを覚えた。あの森のような清涼さが失せていき、人の匂いと熱気が鼻の奥を刺す。
カヤはサシャの手を握り、その往来へと踏み出していく。しっかりと握ってくるカヤの手からは彼の、サシャを守るという決意が感じられた。その掌のやさしさに、じんわりと心がうれしくなる。
往来は人の行き交いや馬車の往来が激しかったが、サシャはカヤに連れられ流れるように向かいの建物へとたどり着いていた。
そのまま左へと曲がり、巨大な門へと連なる階段を上る。階段を登りきっところで、カヤが歩みを止めたためサシャも同じくならった。
「ここから神殿の場所がわかるかい?」
聞かれて振り返れば、神殿は階段の上から見ても素晴らしく巨大で荘厳な建物だった。頭上には金の冠を戴くかのように光が溢れ輝いている。
間違いようがなかった。
ふと自分の行かなければならない場所を思い出して、ほぼ反対のほうへと視線をやると、巨大な塔のような城が遠目に見える。
城は天を目指して、はるか昔から建て増しを続けている巨大建築だった。城の周辺には貴族の屋敷が連なっている。
あのあたりであれば、サシャも土地勘があった。
「一人で帰れるね?駄目なようであれば、公文書館の者に言いなさい。迎えをよこす」
神殿に帰るのであれば、迷いようがない。神殿の中の方が余ほどわからなかった。
「神殿に戻ったら、門のそばにいなさい。私がすぐに迎えに行くから」
「はい」
サシャはいくらかほっとして頷いた。彼の返事を確認してから、カヤが門の前の者に頷く。神殿の者であるのは、そのマントからも察していたのだろう。すぐさま門が開かれ、中から一人の老女が姿を現した。
深々と頭を垂れている。直接その顔を見ずに視線を伏せるのは、相手に対して行う深い敬意の表れだった。
カヤがサシャの手をほどき、公文書館へと向かう様に肩を押す。素直にサシャが向かうとすでにカヤは階段を降り始めていた。
一抹の寂しさを感じながらも、サシャは老女について公文書館へと入っていく。背後で扉が閉まり、ガガン、と鉄の触れる音がすると恐怖で体がびくりと震えた。
「大丈夫ですよ。さあ、こちらへ」
神殿とはまるで違い、廊下は暗く光は届かない。暗さを抑えるために巨大な蝋燭が火を揺らめかせていた。
石造りの壁はそのせいか煤が天井の方までつき、よけいに暗い印象がある。
「この公文書館は、王の命によりこの国の歴史にかかわることなどを保管し、人々に教えるために存在します。神殿の成り立ちとその役目について私が教えることになりますよ」
やがて廊下は中庭につながり、中央には椅子と植物が見えるあたりで、老女はサシャを見た。
「中庭でもいいですよ。部屋もありますが」
中庭の光に幾分かほっとしていたものの、銀の者として姿をさらさないように言われているのを思い出し、サシャは首を振った。
「部屋でお願いします」
老婆は何も言わず右側の部屋の扉を開いて、サシャを招き入れた。途端にその部屋の様子にサシャは言葉を失った。窓は天井まで高く採光には配慮されているものの、両脇を巨大な本棚が設置されているせいで部屋全体を圧迫感が覆っている。
大きな机の上には高く本がつまれ、中央のソファとローテーブルのみがかろうじて、来客に与えられた席のようだった。
「そちらへ」
老婆がそのソファを示す。サシャは圧倒されながらも恐々と腰を下ろした。
「見てわかると思いますが、私は茶の者。黒の方に何かを教えるというのは今まで致したことがありません」
老婆はサシャの向かいに座り、静かに言葉を紡ぐ。サシャは告げられた内容に驚き、正面の老婆をまじまじと見つめた。確かに、茶の者と言われればそうだった。
しかし、サシャ自身からすれば黒の者も茶の者も同じくらい高貴な人々である。大して気にしていなかったともいえる。
「私が茶の者である以上は、誰か別の者をお望みであれば、おっしゃっていただきたいと思います」
老婆の声には淡々とした響きがあり、そこには何の感情も浮かんでいなかった。サシャは何を言っていいのかわからず、じっと老婆を見つめていたが相手も同じように何も言わない。
いくばくかの沈黙が過ぎた後、サシャは怒鳴りやあざけりを覚悟して、震える手でフードをずらした。
銀色の髪がさらりと揺れ、窓辺から降り注ぐ光の中できらきらと光を返す。長い睫は震え今にも泣きそうな表情をたたえていた。
老婆ははっと息をのみ、しばらくサシャを何も言わず見つめていたがやがて息をついた。
「神殿には太古の銀の者たちが住むといいますが、その方たちなのですか?」
老婆には畏敬の念からこもる声で、サシャに尋ねる。それに、驚き首を振って否とした。
「あの、ぼ、僕は新しいです、たぶん」
「そうですか。…なんとも、長く生きていると驚くことも沢山ありますなぁ。字は読めますか?」
「い、いいえ…」
サシャは識字できない。泣くような思いで告げると、驚いた様子もなく老婆は壁際まで行き、一つの本を取り出した。
大型の本であり、立派な装飾がなされている。
それをサシャの前までもっていくと、ローテーブルに広げた。
「ではこの国の成り立ちと、歴史についてお話ししましょう」
広げられたそこには、美しい銀の女性が描かれていた。
「およそ500年前、この国は荒れ果てた世界でした。世界は8つに別れ、互いに傷つけあい人は人を殺し、疫病が蔓延し、飢え苦しんだと言います」
見れば銀の女性の下には、苦しんでいる人々や殺し合いをしている人々が描かれていた。
「そのころには、光はこんなに満ちてはおらず、一日の中で光のささない夜という時間が存在しました。今も冬や春、夏や秋がありますが、どの季節でも夜は寒くそして多くの病をもたらしたといわれています」
「光がない時間が?」
サシャは驚いて老婆を見つめた。その驚きを受け止め、老婆は銀の女性の周囲を塗りつぶしている青色を示した。
「光は12刻から6刻までしか射さず、あとは闇の時間があり人々は火を起こすことでその時間を照らしました。市の立つ時間が1から5刻なのはその時の名残だと言われています」
老婆の言葉は歌う様に流れていく。
「この国に憂いた銀の女王は、光の神に身を捧げます。自分の身と引き換えに、この国に光をともしてほしいと」
老婆はページをめくると、そこには光の中に二人の人間が書かれていた。
「銀の女王の訴えを光の神は聞き入れました。夜の闇は払われ、そして銀の女王は光の神の子供を産み落とします。一人は金の子供。一人は黒の子供」
老婆が示した先の子供にサシャは釘付けになった。金色の子供。
「黒の子供はこの国の王となり、金の子供は神殿で光の神に祈る存在になりました。黒の子供にはすべてを破壊することのできる剣を。金の子供には光を生み出す力を。
二人の力は大きく、追い払われた夜の闇は苦しみとともにこの世界から去っていったのです。
8つに分かれていた国々は、今の王のもと一つにまとめられ国は繁栄を約束されました」
老婆がページをめくろうとしたところで、サシャはおずおずと、だがしっかと金の子供を指示した。
「金の子供は…金の子供は神殿にいるのですか?」
老婆は頷くと、金の子供を指した。
「今も神殿は金の子供がその神殿の役目を継いでいるといいます。何代目かわかりませんが、今もいることでしょう。その金の子供の話をしましょう」
老婆がページをゆっくりとめくる。
そこには金の人とその足元に首を垂れる人々が描かれ、青い球がいくつも背景に浮いていた。
「神殿の役目は、光玉を作ること。王を補佐することにあります。金の者は光玉を作ることができる唯一の人です」
呆然とサシャはその絵を見つめた。
「黒の王は世界を統治する力として、すべてを破壊できる剣をもってこの国の悪しき者たちを薙ぎ払いました。
一方金の者は光玉を作る力を手に入れ、神殿で神の力を発揮するのです。光玉を作るのは簡単なことではありません。
光玉は、金の者とその相手として認められたものが交わり、金の者の精を受けることで産み落とされます」
老婆は淡々と金の者に傅く黒の者たちの絵を示した。
「この者たちは、神子と呼ばれ17歳以上の誰とも交わったことがない清童のみが資格を得ることができます。神子となり金の者に慈しまれた者は、その家系に栄華を約束しますが、神子は5年ごとに入れ替えられるため時が過ぎればその誉は去るといわれています」
サシャは唇を震わせ、そっと自分の腹を撫でた。そこに浮かんだ印は神子の印ではなかったか。10日間で自分はここを去るのではなかったか。
ただの代わりだと聞いていたのに。
サシャは自分が震えているのにも気づかなかった。老婆が様子を察して言葉を止めたのにも、まったく気が付かなかった。
わななく唇で、かすれた声を振り絞る。
「あ、あの…間違えて神子になってしまったら…どうしたらよいのですか…」
老婆はしばらくじっとサシャを見つめていたが、やがて平坦な声音で語り始めた。
「五年たてば解放されます。時が満ち、神子である資格を失えばよいのです」
「そ、それ以外に。その資格の者が印を渡せるとか、そういう…」
「神子になるというのは名誉なことなのです。時に清童でないものが偽り、神子となれないことなどがありましたが、そのものは斬首とされるのが通例です。神子になるというのはとても栄誉あることなのです」
この世界では15歳で婚姻を行うことも多い。特に大貴族などは子孫を残さねばならない観点から、それ以前に子供を儲ける努力をする。
幼少期から性が開放的な世の中で、神子となるものは隔離し特に性の管理は徹底して行われる。その代わり名誉ある職を終えれば、一族には歓待され迎え入れられた。
黒の者は神子となるものを、大切に子供のころより育てる。17歳になっても清童であるものがほとんど存在しないが故に、養育には細心の注意が払われていた。
「あの…本来なるべきではないものが、神子となってしまったときは、どうなってしまうんですか…」
サシャの質問に、老婆は静かな視線をひたと向けしばらくは何も言わなかった。
沈黙が織りのように降り積もり、高く積まれてもなおサシャは恐怖に震えていた。やがて老婆が、静かに語り始める。その声音は鋼鉄のように硬いものだった。
「神子となれぬものに刻印は現れません。刻印が現れた以上は神子であり、選ばれた特別な存在です。たとえどのような色の者でも」
最後の一言に、サシャがびくりと体を揺らす。
「銀の者でもです」
まるで自分の恐怖を知っているかのように、老婆から告げられサシャは震えあがった。
「でも…」
老婆は静かに息をつくと、朗々と歌を歌う様に言葉を紡ぐ。
「神子の地位は幾度も政治や政変によって狙われてきました。光玉はただ光るだけの玉ではないのです。割って粉にして飲めばたちどころに病気が治る。寿命さえも延びる。金の者に慈しまれれば、その家は光の玉を手に入ることができるのです。だからこそ、力のある貴族たちはこぞって神子の輿入れを狙っている」
老婆が話す言葉は遠い国の言葉のようで、サシャにはまるで理解できなかった。自分はどうすればよいのか。どうしたらよいのか。何に巻き込まれたのかすらもわからなかった。
「恐れながら、あなたがもし、神子だというのなら、まずは5年間神殿で生きる覚悟を決めることです。どんな理由で神子の列に加わったのだとしても、あなたに逃れるすべはないのです。あなたは選ばれ、そして逃れられないのです。ご自分の責務を全うされるのが第一だと、そう申し上げます」
サシャは大きく震え、青ざめ震える指先で無意識に下腹を撫でた。本来自分は神子になる予定の者ではなかった。
何も知らず、何もできない。周囲は黒の者しかいない選ばれた園で、ただの代わりとして送られてきた自分に何ができるというのだろう。
それは純然たる恐怖だった。自分は少しの間ここにいて、ただ元の場所に帰るはずだったのに。
「…今日はもうお帰りください」
突然老婆に告げられ、びくりとサシャは震えた。自分は何がまずいことをしたのかと、すがるように見つめた先で、柔らかに老婆は微笑んだ。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。5年もあるのですから、ゆっくり色々なことを覚えればよいのです。顔色が悪いから、今日は終わりにしましょう」
老婆に怒りの表情がないことに安堵し、サシャは素直に頷くとカヤに言われていた通りにフードを目深に被った。震える体に鞭を入れ、立ち上がる。
「明日からは2から3刻の時間にしましょう。神殿にも伝えておきます」
「はい」
サシャは消えそうな声で頷くと、老婆とともに廊下に出た。すすけた廊下の中に、ぽつぽつと暗い蝋燭の光がともっている。自分が働いていた鉱山もこんなだったと思いだし、少しほっとする。
扉が開き、サシャは老婆に深い感謝の礼をしてから、背を向けた。階段を下りていく途中で背後の扉が重い音を立てて閉まる。
相変わらず人々の往来は激しく、サシャは重い体を引きずるようにして巨大な広場の先にある神殿を見上げた。
歩みださなければと思う。けれども、身体は一歩も動かなかった。
帰りたくない。このままどこかに逃げ出したい。
唐突にその思いは胸の中に湧き出し、サシャを捕らえた。
神殿はただの優しい人たちがいる所ではない。自分は間違って神子になってしまったんだと彼らが知れば、絞首刑にされたりしないだろうか。
本当は、こんなに優しくされる資格が自分にないと知っているからこそ、足元から恐怖が這い上がってきた。あんなにイシュアが優しいのも、カヤが気遣ってくれるのも、食事も全て自分が受け取る資格のないものだ。
本物の選ばれた神子ではないのだから。
サシャは静かに神殿を見つめた。往来は激しく、通り過ぎるものたちは敬意を表すように神殿を見上げ、深い祈りをささげてから通り過ぎていく。
信仰と尊敬。尊厳と誇り。
見上げるほどに、荘厳な建物は重く高く巨大だった。自分は何一つとしてここにいる資格などない。
逃げ出してしまえばいい。
そうだ、逃げ出してしまえばいい。
冬を越えられなくてもいい。このまま死んでしまっても。
この刻印も全てなかったことにして、別の場所へ。
逃避が重たい体を突き動かしていた。ずるずると足を引きずるようにして神殿から遠ざかり始める。
一歩、二歩。
遠くへ。できるだけ遠くへ。
騒がしく人通りの多い往来の中を、サシャはよろよろと神殿から遠ざかるように、歩み始めていた。
誰もサシャに気を止めるものなどいない。その中をただ歩く。
自分がどこへ向かっているのかも、どこにいるのかも解らないまま、ただ歩き続ける。
やがて、ぽつ、と冷たい雫が頬に落ちてサシャはふと歩みを止めた。今度は鼻に、そして次は手のひらに。
ポツポツと降り始めたそれは、一斉に天から降り注ぎ雨となった。
雨になると今まで騒がしかった道は、あわただしさを見せた後に人の気配が消えた。サシャはその中でも、ゆっくりと神殿から遠ざかるために歩く。
どのくらい歩いただろうか。
道幅は狭くなり、家も小さく貴族の邸宅などではなく、小ぶりなレンガ造りの家ばかりが立ち並び始める。家の中から時折人の声や、子供の声がもれて生活の匂いが感じられた。
雨は長く降り続きそうだった。
サシャは疲労を感じた体で、脇道をみる。
細い路地には家が続いていた。人通りはない。
そこに入り込むと、サシャは家と家の間の隙間にそっと入り込んだ。そのままズルズルと座り込む。雨は家の屋根からサシャの頭に、ポツン、ポツンと一定のリズムで落ちていく。
もう秋に向かっている季節の雨は冷たく、座り込んだ路地からは土のにおいがした。
どうして普通に暮らせないのだろう。
どうしてこんなに事になってしまったのだろう。鉱山での暮らしは簡単で、決して楽ではなかったけれどこんなに追い詰められたのもしなかった。
そのままウトウトと、襲ってきた睡魔に身を委ねサシャは目を閉じていた。
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