神殿編

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 チチチ、チチチと鳥が鳴く声がする。  次にサシャは寒さでブルリと体を震わせてから、うっすらと目を開いた。寒い。体が冷え切っている。  視線の先は水たまりと、いびつな石畳があり冷たい雨が絶えず降り注いでいる。その水たまりに半ば浸かるような格好で、金色の小鳥がチチチっとサシャを見上げ鳴いていた。 「お前、そんなところにいたら寒いよ」  サシャが思わずかじかんだ手を伸ばすと、小鳥は人懐っこくサシャの指に飛び乗ってきた。きゅっと指をつかむ足と小さな体重に、かわいらしくて笑いがこぼれる。  小鳥は安堵したようにプルプルプルと体を震わせて、チチチと鳴いた。  金色の美しい小鳥は、きっとどこかで飼われていたのだろう。雨に濡れて水をはじく姿が宝石の中で光る金のように、見事だ。  見ていると恐怖や悲しみに暮れていた心が、すっと穏やかになっていく。  逃げ出して死んでしまってもいいと思っていたことも、神殿の神子になってしまったという恐ろしい事実も、ずっと遠くにあった。  軒先から落ちてきた雨粒が小鳥に降りかかり、チチチと小鳥が鳴きながらプルプルと体を震わせる。 「こんなところにいたら危ないよ。どうしたの、迷ったの?」  応えたのは森の声だった。 「まったくだ。こんなところにいると実に危ない」  気づくのが遅れたのは、身体が冷え切っていて判断が遅れたからだった。サシャの目の前に黒いマントとフードを目深に羽織り、静かに立っている男がいる。  瞬間的に、顔を見ずともサシャは相手が誰のか察した。 「イシュア…さま…」 「サシャ。立てるかい?一先ず屋根のあるところに行こう」  延ばされた大きい手に、サシャは手を伸ばすことができずそれをただ見つめた。小鳥がチチチ、というようにサシャの指先で鳴き、イシュアの手に飛び移る。 「あ…」  思わず小鳥の行動に声をこぼしたサシャの手を、イシュアは引いていた。立ち上がらせ、抱き寄せる。  途端に森の香りと、花の匂いに包まれサシャの心は震えた。 「こんなに凍えてしまったのか。大丈夫だよ。おいで」 「でも、僕は…」  サシャはかじかんで動かない体のまま、行かれないと難色を示す。  自分は偽物なのだ。優しくしてもらう理由も、迎えに来てもらう理由も、ましてや神殿に戻る理由もない。 「話をするだけだよ。ここで話していては凍えるばかりだろう」  静かに抱き寄せ、ほとんど抱き上げるようにして歩みだす。  それは抵抗を許さない絶対的な力だった。抱き寄せられイシュアへ触れたとたんに、剣呑だった王都の空気が深い森の柔らかさに変わる。  急に視界が開け、曇りがかった空から光が差したように見え、サシャは息をのんだ。  人通りのない静かなレンガ造りの家を、雨粒の光が祝福したように照らしている。石畳の間から芽を出した雑草はエメラルドのように、家の内側から漏れる光は琥珀のようにあたりを彩り始めた。  天から降り注ぐ光は帯のように地上を照らし、サシャを迎える梯子のように地上へとその手を伸ばしていた。  こんなに世界は美しかったのかと、見とれている間にもイシュアは迷うことなく歩き宿の看板を掲げた一つの館の扉を開いていた。  場末の宿は黒の者が出入り来るような所ではない。特に神殿は、黒の領域と言ってもいい総本山だろう。木造とレンガによって作られた宿は、雨宿りの客がラウンジでくつろいでいたが、黒の者は一人足りとていなかった。  フロントにいた赤毛の男は神殿のマントとフードを被った体格のいい男と、軽々と抱かれている存在に震えあがった。身体を固くしてイシュアを見つめる。  その風体が見えなくても、イシュアは特別な存在であると一目で誰もが察し得るものがあった。まとう空気からして、黒の者の中でもさらに上位に位置すると本能的に感じずにはおれない。  そのものが本来訪れることはない場末の宿に来るとなれば、誰もが緊張するのは当たり前ともいえた。  30畳ほどの小ぢんまりとしたラウンジは、水を打ったように静まり返り固唾をのんで侵入者を見つめる。  雨に濡れそぼった風体からしても異様だったが、黒の者を赤の者が阻めるはずもない。 「部屋を一つ。暖炉の火に当たれる部屋を」 「は、はい」  赤の者が震えて頷く。続けてイシュアは注文を出していた。 「何か食事を」  途端に、その部屋にいた者たちが声にならないざわめきを発した。フロントにいた赤の者がまるで自分の尻尾を踏まれたかのように、目を見開く。  この神殿の男は黒の者ではない。偽物だと誰もが思った瞬間でもあったろう。  途端に赤の者の態度が横柄になる。不穏な空気にサシャはイシュアの腕の中で、恐怖に震えた。自分のせいで大変なことがまた起きてしまったと。  息を殺し、きゅっとイシュアに縋っている手で布をつかむ。 「忌み餌?うちで忌み餌は用意なんてするはずがないだろ!あんた忌み餌が欲しいなら雨の中に戻るんだな!あんたに似合いの…」  イシュアの手が、とん、とカウンターに置かれる。それは怒りも何もない静かな動作だった。だが、それだけでその場にいた者たちは、びくりと誰もが震えた。 「私はお前の意見を聞いているのではない」  フロントの男はそれでも、偽物だとどこかで考え、それに縋っているようだった。黒の者は食事をしない。忌み餌を欲しがるのは色の薄いものだけだ。 「う、うちは前金だ!3万ルフ!忌み餌が欲しいなら用意してから言え!」  ルフというのはこの世界の通貨単位である。3万ルフはおそらくこの場末の宿が三か月かけて儲ける値段であった。この程度の場所に宿泊するのならば、30ルフあればことたりる。  泊まらせず追い返すつもりであるのは明白だった。3万ルフは持ち歩いているような金額ではない。  イシュアはすっとマントの中に手を潜らせると、やがて一つの金貨をカウンターに置いた。それを見た瞬間に、赤毛の男が凍り付く。 10万ルフ金貨。王都では最も高価な通貨単位であり、この場末の宿では全く流通しない硬貨だった。サシャは呆然とその硬貨を見つめた。  彼はわずか1000ルフのために、神殿への身代わりを引き受けたのだ。そのはるか上を行く見たこともない硬貨に、今更ながらイシュアがとんでもない人物なのだと思い知らされる。  ラウンジにいた茶の者が、イシュアを追い出すつもりで強気だった赤の者の変化を見て援護のために立ち上がり歩み寄ってきていた。  神殿の名をかたっている偽物が、とその男の顔にも書かれていた。途端に、赤の者がハッとした表情で歩んでくる茶の者へ手を上げ来るなと制し、イシュアに深々と礼をした。 「大変失礼な態度をとり、申し訳ありませんでした。早急に部屋を用意いたします。部屋へご案内いたします!」  鍵を用意し、フロントの奥に声をかける。陰でやり取りを見守っていたのだろう。女中三人が慌てて飛び出してきた。  茶の者がカウンターに置かれた10万ルフ金貨を見て、呆然とイシュアとサシャを眺める。  金貨は簡単に手に入るものではない。金貨そのものに価値があり、地位の高いものたちがその権威の象徴として使用する通貨でもあった。  盗難や盗賊行為で手にしたとしても、すぐに盗品だとわかるため使用困難な品物でもある。逆に身分の保証であるともいえた。 「こちらへ」  女三人は慌てた様子で、階段を上り案内していく。イシュアはサシャを片手に抱いたまま軽々とそのあとに続いた。 「すげぇ、10万ルフ金貨なんて、俺、初めて見たよ…釣り出せんのかよ…」 「用意できるわけがないだろう…」 「その前に、3万ルフ神殿からぼったくるのかよ…、やべぇな」 「…あぁ…俺はもう終わりだ…」  断末魔の叫びのようなやり取りが、フロントでなされていた。  部屋は暗く狭く、そして窓は小さかった。閉め切っていてどこかじめじめとしているそこに、女三人が出入りして慌てて火を入れた。  暖炉には安い薪がくべられ、火が起こされ、小さなベッドも整えられる。パタパタと出入りしている中サシャが震えるのを慰めるように、チチチと小鳥がどこからともなく現れた。  狭い部屋に差し込む狭い光の下にイシュアは立ちサシャを抱いたまま、影のように動かなかった。  清涼な鳴き声に女たちは一瞬驚き手を止めたが、慌てて作業を続ける。  サシャは突然また現れた小鳥に、ほっとしながら指に停まるのをみてほほ笑んだ。恐怖が幾分か和らぐ。抱いている体の力が抜けたのを見て、イシュアは口元に笑みを浮かべた。 「忌み餌は小鳥のためだったんですね」  皿を持ち入ってきた女が、必死でかき集めたような果物とわずかばかりの干し肉を盛ったそれをテーブルに置きながら、イシュアに話しかける。  だが全く返答もしないで、彼は彼女たちの動きを待った。  とりなしも通じないのを見て、恐れた表情を隠しもせず女たちは手早く火をおこし、ラグとクッションを敷き詰めると慌てて部屋から出ていった。  イシュアはサシャを抱いたまま、暖炉側のクッションの前まで行くと、腕から降ろした。そして大切な壊れ物の包装を解くように、フードを外す。あふれた銀髪に同じようにフードを外し、イシュアは微笑んだ。  長い金髪がさらりと光の海のように肩から溢れ落ちる。 「マントも服も脱いでしまわないといけない。このままでは体も冷えるばかりだからね」  手早く首元の紐が外され、濡れそぼった外套が外される。途端に重たい枷が外れたようにサシャの体が軽くなった。深く重く、外套は水を吸っていたのだろう。  イシュアが暖炉のそばにある立てかけに外套をかけると、そこからポタポタと水が滴った。  パチパチと暖炉で、木が爆ぜる音が静かな室内に響く。イシュアは濡れそぼったサシャの服の帯に手を伸ばした。そこで、帯をほどくその手を見てはっとサシャが息をのむ。 「光ってる…」  それは美しく微細な文様だった。繊細な文様はきめ細かに描かれ、大きな唐草模様となっているようだった。 「ああ、光のない所だと私の光脈が見えるだけのことだよ。私の方が先に脱ごうか」  イシュアが自分の外套を手早く脱ぎ、暖炉側にそっとかける。その指先のみならず、手やその腕まで光の筋は淡い輝きを放っていた。慣れたしぐさで自分の着ていた神殿服を脱ぐと、その文様のあでやかさにサシャは息をのんだ。  下肢にはスボンを履きこんだままだったが、その胸、その肩、その背まで驚くほど綿密でいながら、大胆な図からが描かれていた。  鳥だ。鳥が大きく手を伸ばし羽ばたいている。  サシャは細かな文様がいくつも折り重なり、唐草を描きながらも見たことのない素晴らしい鳥が浮かびあがるその光に声を失った。その一つ一つは息づく生命のように、瞬き、時には薄れ、またきらめく。  サシャのボタンを頓着なく外しにかかっているイシュアの背は、淡く瞬いていて彼の命のようだと、サシャは陶然と見とれ目を奪われた。  いつの間にか、イシュアはサシャの服も脱がし、その刻印を空気にさらしていた。  一切の服を奪われ、サシャは心もとなく、かといってどうすればよいのかわからず立ちすくんだ。  そっとイシュアの指先がサシャの刻印に触れる。刻印はイシュアの光を求めるように、七色の光を放ち、うねり、輝いた。  その下で冠がサシャの小さな性器を食い締め、鋭い光を放っている。 「大丈夫だよ。私が怖いか?」  イシュアは刻印に手を触れたまま、視線を合わせ問いかける。それにサシャは返答することすらできなかった。金の者は柔らかく微笑むと、サシャを抱きしめた。  直接触れた肌が暖かい。きらめく光がまるで自分の中に入り込んできたかのように、触れたところから途方もない安堵と、ざわりと何かが首をもたげる感覚があった。  落ち着くような、落ち着かないような、もっと触れていたいと思いつつも、恥ずかしいと強烈な羞恥を覚える感覚だった。 「大丈夫だよ」  イシュアはサシャを難なく抱き上げると、暖炉の前にあつらえられたラグとクッションに座った。優しく抱き寄せられ、そっと頭に口づけられる。  サシャはイシュアの膝の上に抱かれる形で収まっていた。 「まだ髪が濡れているな。寒くないか?」  イシュアの腕の中から彼の美しいきらめきと、その容貌を見つめる。寒さよりも不思議な高揚感と、羞恥心があった。何しろ全裸だ。  イシュアの文様と自分の刻印が触れるたびに、甘い波が体に沸き起こる。これは人生で初めての感覚だった。面映ゆくむず痒い。全身が、湯に浸されている心地よさと安心していいのか戸惑うような恐怖がある。 「あ、あの…」 「なんだ?」  真顔で問い返され、サシャは赤くなって横を向いた。恥ずかしいが嫌なわけではない。やめて欲しいわけでも、遠くに行ってほしいわけでもなかった。  ただ心もとないのだ。混乱して、どうしていいのかわからない。  イシュアは赤くなって横を向いたサシャの額に口づけを落とすと、柔らかにほほ笑んだ。 「かわいらしいな。本当にお前はかわいい。嫌でないならこのままでいてくれ」  サシャの沈黙を埋めるように、パチパチと暖炉は声を上げ火は二人を優しく包み込んだ。やっと暖かさが染みてきて、こわばりが取れていくような気がする。  イシュアはそっとサシャの銀髪を梳くと近くに盛られていた果物を一つ取り、手渡した。 「まずは腹ごしらえをしよう。お前はもっと肉を付けなくてはね」  自分の分もサシャを抱いたまま、柑橘系の果実を手に取り、皮をするすると剥く。サシャが驚くほどにイシュアは食べることを、忌避しない。隠れて食べなければという意識もなければ、当然のこととしてその行為を行う。 「夕食を私が食べないとなれば、台盤所の者が残念がるな…。お前に刻印があるとはいえ、交わったこともないお前の居場所を探すのは、骨が折れた。カヤは見張りに出していた神兵が勝手に帰っていたと怒り心頭だったが、お前が無事で私はほっとしたよ。お前にはお前の考えがあるだろうから、出ていくのは構わないが少し私と話をしてくれるとありがたいね」  イシュアは剥き終わった柑橘の実をサシャに手渡し、驚きに目を見開いているサシャの手からまだ剥いていない実を手に取った。  それをするすると剥き、果実を口に運ぶ。そして、その酸っぱさに苦笑をこぼした。  だがサシャは、渡された果実よりもイシュアの言葉に胸をざっくりと切られた思いがした。  出ていくのは構わない。その言葉は逃げ出したにも拘らずサシャを酷く傷つけていた。  でも、銀の自分が求められないのも当然のことだ。  その前に、自分から逃げ出したのだ。  思いもよらず、涙がほろほろと零れサシャはゆがんだ視界のまま美しい金の者を見上げた。いきなり泣き出した銀の者に、イシュアが目を見開き何か困ったようにつぶやくと、優しく髪を撫でてくる。 「私はお前を責めているのではないよ。困った子だね。少し、落ち着けるようにしようか」  そっと髪をなでていた手はサシャの頭を支えるように、そして持ち上げるように力を添えられた。  ゆっくりと光が溢れてサシャに近づいてくる。イシュアの光脈は彼の肌を彩り、サシャに触れるたび水の中で鳴る鈴の音のごとく、心地よい何かを震わせた。  その顔が近づいてくるのを、サシャはただ惚けて見つめていた。何をされるのかすら、まったく予想がついていない。  イシュアの顔が直前まで近づき、唇が触れた瞬間、体中に歓喜の嵐が吹き荒れた。  それは春が来たとき、一斉に咲き誇る花のように、風のごとくサシャを浚った。呆然としているサシャの唇をイシュアの舌が開かせ、次の瞬間神の酒のように熱いものが、胃の腑まで落ちていった。  一瞬で全身を駆け巡り、ふわりとした高揚感を与えていく。  あまりの衝撃にサシャは手に持っていた柑橘の実を強く握り、さわやかな芳香をあたりに振りまいていた。  与えられたそれは、よりどころもなくさまよっていたサシャの心を落ち着かせ、安心感を与えると同時に体を楽にしていた。  今まで感じたことがないような、すっきりとした力が体の中で走り回っている。小さな花火は足の先から、髪の先までも巡るとすべての不安はぬぐわれ、恍惚とした心地よさだけが残された。  サシャは自分の全身に、イシュアと同じような光脈が走っているのにまるで気づかなかった。 「落ち着いたかい?」 「…はい…」  イシュアの問いかけに、サシャが頷く。そして手に持っていた柑橘にふと目をやり、自分の手が果汁に濡れていることに気づくと、慌てて口元に運んだ。  その様子に、イシュアが笑いをこぼす。 「お前は元々どこに住んでいたのか教えてくれるか」  彼の問いかけに、サシャは口の中で香る果実を飲み込んでから、思いをはせるように横を向いた。そして、暖炉の火を眺めながらぽつりぽつりと話し始める。  目の前の火は炭鉱の坑道で燃える炎のようだった。そうだ、自分はそこからきたのだ。 「南の果ての国に、僕は長いこと住んでいました。そこは炭鉱と宝石鉱山があって、色の薄いものたちが沢山働いていたんです。あの辺りはみんな色が薄くて、黒い者はいなくて、山で実をとって暮らしていました」  実といったことで自分の手にあった果実を思い出したのか、ひと房口運び、ふっと息をついてからサシャは話をつづけた。イシュアはサシャを腕に抱いたまま、自分も果実を口に運んで優しく見下ろす。  サシャは不思議と高揚した気分の中、無性に空腹を覚えて柑橘を口に運ぶ。みずみずしい果実は、咀嚼するとあの鉱山の暮らしを思い出させた。 「肉とかそういう高価なものはほとんど口にできませんでしたが、近くには川もあって時折自分で魚を捕らえて焼いたりしていました。僕は小さいころから鉱山にいて、親がどうなったのかも知らないんです。でも、鉱山にはそういう人たちが沢山いて…」  柑橘を口に運ぶ。そして、遠い日々を思い出すような表情を浮かべた。どこか体が恍惚として、同時に幻覚でも見るように、かつての日々が思い出される。  半ば酔った状態で、サシャは言葉を紡いでいった。イシュアのことや神殿のことはもう、頭の中になかった。  鉱山には誰とも知れぬ子どもたちがいたし、大人たちもその子供たちを仲間として受け入れていた。奔放な性環境と、貧困の中で人は短命でありながらも沢山の子供を産んだ。 「僕は銀の者で、僕ほど色が薄いものもいなくて。でも鉱脈を見つけるのがうまくて、重宝されていました。今まで生きられたのはそのおかげです」 「それはお前が土と相性が良いからだね」  イシュアの言葉は遠くから、頭の奥で震えるように響く。サシャはとろりとした微笑みを浮かべ、イシュアを見つめた。 「それでも僕は、銀の者で誰かに求められたりもしない人間だから、毛虫って呼ばれていました。ただ鉱脈を見つけるときには呼ばれて、見つけたら沢山忌み餌を分けてもらえた。夏は川で魚をとろうとした事もあるけれど、そんなにうまくはいかなくて…」  呟いては、川で何度も魚に逃げられたことを思い出す。川の中に入って、気配を押し殺して手を沈める。そして、迷い込んできた魚を岸へと投げるのだ。だが、川は冷たくサシャはよく凍えて思ったように採れる方が珍しかった。  食事は忌むべき行為とされていたため、協力して食べ物をとることすら嫌がられる。誰かと食べる事などまずありえなかった。  皆が皆、ほそぼそと糧をとっていた。大部屋で生活し、病気になれば放られる。  それでもサシャが生きてこられたのは、鉱山があったからだった。 「二年前から、鉱脈が見当たらなくなって、めぼしい石炭も宝石も出なくなってしまいました。それでも、何も出てこないまま一年半は掘り続けました。でも、半年前に鉱山は閉鎖されて、僕たちは売りに出されることになったんです」  人身売買は公然と行われている。 彼らのように家を持たない労働者たちは、雇用者から部屋とわずかな賃金が与えられる。雇用者は彼らのような者たちを、必要があれば売り買いして人手としていた。  生まれ落ちたときから階級は定められており、色の薄い者たちは雇用者によって住居を与えられ生き延びていた。その小屋で生まれた子供も、雇用者の財産となるため隔てなく育てられる。  王都であれば才覚のある者達は取り立てられることがあるものの、南の果ての炭鉱となれば生涯山を掘削していたに違いない。  それが、鉱山の閉鎖でサシャの定めが変わったのだろう。 「王都に出てきて、たくさんの人や大きな建物を見て驚きました。南の果てと違って、いろいろな人がいて、色の濃い人が多くて…。僕は毛虫だから値がつかなくて、マシャリ家の地下で働くことはできたけれど、大部屋に入れてもらえなかったんです」  思い出したのか、すっとサシャは深い息をついた。  銀の髪はサラサラと流れ、今磨き上げられたサシャは水の中で輝く光のように美しい。ただ、どこまでも弱くどこまでも細い体は哀れなほどだった。 「マシャリ家か」  そっとイシュアが呟く。現王族にほどなく近い貴族の一族だった。 「僕は大部屋に入れてもらえないから、お金をためて大部屋に入れてもらうために稼がなくてはいけなくて。でも、忌み餌もなくて。色の濃い人たちは何も食べないから、残飯もなくて」  サシャの困窮は想像以上だったろう。大部屋に入れてもらえなければ、冬の寒さをしのぐのは難しい。 「地下で倉庫の片づけをしたりすると、すこしだけお金がもらえました。僕はなんとかそれで忌み餌を買って、路上で寝たりしてました。でも、大部屋に入れてもらえないのならばもうこの冬は越えられないのもわかっていて」  ふっと絶望のため息を漏らし、サシャは小さくうめいた。 「そうしたら、神殿に行って10日だけ神子の代わりをしてほしいと、そういわれました。予定していた神子が死んでしまって、代わりの者が王都に来るまで10日かかるからと。そうしたら、1000ルフくれると言われたんです。少しの間の代わりでいいからと」  とろりと夢を見る表情で、サシャは呟き銀の瞳を輝かせた。1000ルフはサシャにとって夢のような金額だったろう。  死を前にして突然開かれた扉へ、サシャは一も二もなく飛びついたに違いない。それがなんであるのか全く知らずに。  サシャの手から、柑橘がポロリと落ちて床に転がっていく。恍惚とした表情は酔いの深さを滲ませていた。 「1000ルフあれば、大部屋に入れる…」  ゆったりとした仕草で目を閉じていくサシャを静かに見守っていたが、やがて吐息から力が抜けていくのを見るとイシュアはもう一度唇を重ねた。  深く唇を合わせ、自分の唾液を流し込んでいく。  酔いに溺れたサシャはあまりにも甘美な蜜を、本能的にちゅっちゅっと音を立てて吸い取った。ごくりと飲み込み、やがて酩酊状態になりだらりと脱力する。  その体には美しい光脈が現れていた。  17歳を超えて清童であるものは少ない。サシャはおそらく、銀の者として忌み嫌われていたために相手にもされなかったのだろう。  ざんばらの髪に、汚れた指先。痩せこけた手足に誰が欲情するだろうか。  この世界での性は乱れてはいるが、契りを交わすということには深い意味を持つ。情をもって契りを交わすことが是とされているため、肉体交渉はコミュニティの一角を形成する。  特に労働者たちは、その環境ゆえに自分たちの輪に招き入れるという意味を持ち、性交渉を行う。そして、集団で子供を育てていくのだ。  サシャはその輪に入れなかったということなのだろう。  銀の哀れなる異端者。  イシュアはそっと癒すようにその髪へ口づけを落とした。  あとはただ、暖炉で火がパチパチと時折爆ぜては、二人を照らしていた。
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