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サシャは闇の中にいた。
目を覚ますと同時に、そっと肌に土の気配を感じる。
ああ ここは坑道だ。
掘られつくし、人一人として入り込まなくなった残骸のような坑道だ。
血脈のように道はうねり、たわみ、上に下に。
そして果てへとたどり着く。
人がかろうじて一人、立って歩けるような狭い幅と、頭上に張り巡らされた空気の管。地面はひやりと冷たく、そして妙に暖かい。岩がゴロゴロと背骨を押していた。
何も出なくなって、皆が焦燥に駆られながらも掘り進んだ道だ。
光が届かないために、誰もがここにいるのを長くは好まない。
その中でサシャは異質だった。少しでもこの鉱山が続くようにと、こうやって毎日土と会話をした。宝石の跡や石炭の存在を探して。でも何も返ってこなくなってしまった、その山の谷だ。
何もない、宝石もない、炭坑もない、価値あるものは何もない見捨てられ、打ち捨てられた残骸だった。
土しか残らない虚無の果て。闇の中では天も地も無くなる、皆に背を向けられた土地。
だがサシャはそこがたまらなく好きだった。
サシャは時折、誰も行かなくなった坑道をそっと尋ね、そして火もつけずに奥まで歩むのが好きだった。
感覚だけを頼りに、あたりを好きなだけ進む。足場は悪く、突然躓いたり出っ張りに肩を打つこともあったが、密かなこの闇歩きを彼は幼いころからずっと続けていた。
誰にも言ったことはないが、サシャはそこでいつも不思議な光の拍動を見ていた。天も地もない、右も左もない坑道にごろりと横になる。
そうすると、不思議と鉱山の脈動がサシャに流れ込んでくるのだ。
特に同じ鉱山で働いている者たちの活動は姦しくて、掘っているつるはしを握るその掌。気を付けるようにと後方から叫ぶ声、彼らを心配している土運びの女たちのざわめき。空気ポンプの大きな脈動が余韻となって、彼らが去った後でも土から響き返してきた。
それらが混然一体となって、生命を叫んでいる。
そのほかに大きく聞こえるのは、地下に流れる水の音と、地上で息づく植物や動物たちの息吹だ。
大きく手のひらを広げて、天へと延びていく強大な緑の意思は地中のどことも知れず方々に満ちている。
そして本当は遠くなるはずなのに、地中にまるで光の根があるかのように、光の気配が強くなる。
しかし、その光は地上に満ち溢れている、生命の源とは遠い気配を内包していた。
言葉にするのならば、こういうではないだろうか。絶望、と。
決して、自分の思い通りになどならないと知って、嘆くことも忘れた諦めの先にたどり着く、絶望の気配が光からにじみ出ている。
それは宝石のように光り、孤独と共にサシャをいつも誘った。
その絶対的な寂しさと絶望を思うたびに、サシャは見ず知らずの光に深い親近感を持ち、心の中で語りかける。
なんでそんなに寂しいの?なんでそんなに悲しいの?
どうして、そんなに一人なの?僕も一人だよ、大丈夫だよ。寂しいのも悲しいのも同じだよ。
いつも鉱山に入るたびに、そう声をかける。
今も同じ、孤独と絶望の気配が聞こえた。サシャは岩の壁をたどるように起き上がると、ふらふらと歩みだした。いつもは痛むはずの膝が、なめらかにサシャの体を立たせる。
体が妙に軽かった。足場の悪い真の暗がりを、サシャは壁に手を添え、一歩一歩前に歩んでいく。
いつもの気配が近い。あの絶望の声がとても近くから聞こえる。足場はごろごろと乱れ、壁についている手は探すように闇を幾度も掻いた。それでも、あの気配がすぐそばにある。それはたまらない誘惑だった。
やがて頬を風がなでると、風と森の優しい気配が甘く鼻孔をくすぐった。闇が薄くなっていると思った瞬間、
突然視界が開けた。
その光に目がくらんで、サシャはまともに瞼を開けることすらできない。この闇の中に、突然昼日中の眩い光がそこからはあふれ出ていた。
どうしてこんなところに光が?
そして苔のような柔らかい匂い。水の音。耳をすませば、地底とも思えない自然の気配すらする。
暖かな春の匂いに鼻が慣れてきたころ、やっとサシャは目を開けてあたりを見渡すことができた。
彼は切り立った断崖絶壁の端に立っていた。そしてそこから下を見下ろし、巨大な空間が開けているのを目にして、息をのんだ。
光が溢れている。
その光は頭上から降り注ぐのではなく、巨大な窪地そのものが発光しているようだった。
見下ろして目を凝らせば、美しい草原が広がっている。滝の水音とともに、ふわりと冷たくも心地よいしぶきが、風に乗ってサシャの頬ではじけた。
不思議な空間だった。
その中心から、まるで天を支えるように一筋の光が伸びている。天から光が伸びているのではなく、それはまさしくその場所から生まれた光が、天へと一筋伸びているかのようだった。
ピンと張りつめた光の大元には、金色の動物たちが遠目に集まっているのが見える。思い思いに、緑の草原で休んでいるようだった。そして、何よりもサシャは一人の男の姿を認めると思わず大きな声を張り上げていた。
「イシュア様!」
サシャの声が、幾重にも重なって響き渡る。その声に自分も驚きながらも、彼らが気付くのを祈るような気持で待った。
金色の生き物たちすべてがこちらを認めるように首をもたげる。その中でもイシュアがそっと立ち上がるのを確かめると、嬉しくなった。彼は崖の端に立っているサシャを見つけると、すっと何かを手繰り寄せるように手を伸ばした。
途端に光る虹のような階段がサシャに伸びてきた。その上を金色の見事なヤギが、安定した足取りで登ってくる。
オーロラのような階段はやがて自分の足元に届き、続いてヤギがたどり着くとサシャの目の前でブブンと鼻を鳴らした。まるで挨拶でもしているような鼻息に、サシャの心は踊った。嫌がられていない。自分は彼らに受け入れられている!
銀色の者として、コミュニティにすら拒まれ、存在を軽視され続けたサシャにとって出迎えまで来てもらえるのは、望外の喜びだった。
ヤギは優しくサシャに身を寄せると、ぺろぺろとサシャの手を舐めた。
可愛さに見事なつのを撫でてやると、ヤギは小さな尻尾をフリフリと揺らす。そして目で語りかけるように自分の背中を示した。
不思議なことに、語りかけられている内容がサシャに沁みとおっていく。
「乗っていいの?ありがとう」
金色の毛はつるつる、ふかふかとサシャの手のひらで踊った。その背をまたぎやすいようにとヤギが手足を折り、サシャを迎える。一人の成人男性がたやすく乗れるほどの、大きな雄ヤギはサシャを乗せると、ゆっくりと立ち上がった。
自分が見ている風景とは違う世界がヤギの角越しに見える。サシャは踊る気持ちで首筋に縋りついた。ヤギも応えるように、優しく鼻を鳴らす。階段は生き物のように、色を変えながらもサシャたちを待っていた。
安定した足取りで、それでも飛ぶように階段を下りていく。自分で降りるよりもはるかに速いスピードでサシャは草原に降り立っていた。
降り立った平原は頭上の崖から見ていたよりもずっと広く、そして奥には屋敷の存在までもあった。深い森と草原や、滝も見える。風は心地よく吹き抜けて、森の木々を揺らし時折花びらを舞い上がらせた。
金色の生物たちは歓迎するようにサシャの周りにくると、ヤギの周りを取り囲んだ。金色の小鳥がサシャの肩に止まり、チチチっとさえずる。
あれ、この子と会ったことがあったような気がするとサシャは虚ろに思い出しながらも、ゆっくりとヤギから降りた。
少し離れたところから彼らを見つめていたイシュアは、サシャを迎えるように両手を広げる。それだけで、サシャは躊躇なくその胸に飛び込んでいった。
イシュアにしっかりと抱きしめられると、その温かさに嬉しくて、息さえ忘れそうだった。
「不思議な子だね。ここまで来てしまうとは」
柔らか声音にはサシャを受け入れる優しさがあった。それに甘えるように、美しい金の瞳を見返して、サシャが告げる。
「僕は、こんなに寂しいところに、イシュア様がいるとは思っていませんでした」
イシュアは少しばかり体を離し、まじまじと銀のサシャを見つめると、やがて困ったように笑った。
「本当に困った子だ。私はお前に隠し事もできないようだね」
「隠し事?」
不思議に思い、サシャが問い返したときだった。メキメキメキ、と何かが声を鋭くあげた。
突然平地だと思っていた草原に、巨大な木が一本伸び始めたのだ。それは千年の時を一瞬で過ごしていくかのように、目の前で幹をうねらせ、葉を茂らせ、地を揺るがした。
サシャは驚きのあまりイシュアにしがみつくと、それを優しく金の者は受け止め頷いた。
「大丈夫だよ。これはお前の木。この平原に来た印として、ここに根を下ろしたのだよ。ほら、見てごらん、葉が銀色に茂って輝いている。嬉しそうに水と光をはじいて、やんちゃなお前のようだよ」
その巨木はふるりと身を震わせるように、光と水をはじき、辺りには虹色のプリズムが舞い踊った。森の気配と甘い水のにおい。そして優しいイシュアの匂いを木は纏っていた。
銀色の葉は目覚めたばかりの春に酔いしれ、手を高く高く伸ばすように枝を茂らせている。
だがよく見ると、その生命にあふれた一つの大きな枝が、オレンジ色に変わり今にも枯れて朽ちそうだった。
イシュアはサシャを難なく片腕で抱き上げ、腕に座らせると静かにその枝を見つめた。そして肩に手をついて自分を見下ろしている銀の者を見上げる。
「おいで、あの枝を折ってしまおう。それができるのはお前だけなのだから」
サシャを二の腕に座らせてまま、とん、と地を蹴ればイシュアは羽が生えているように彼を抱えたまま飛んでいた。そして、重力などないように、宙を歩く。
サシャは突然の出来事に驚いて、イシュア首に縋りついた。それに、金の男がふふふと笑う気配が振動で伝わり、怖くないのだとそっと力を抜く。
初めに見えたのは、少し遠くなった草原だった。こんなところから落ちたら大変なことになると本能的に怖くなり、また、きゅっとイシュアの首に縋りつく。
「大丈夫だよ。ここは私の領域。お前に怪我を負わせたりはしないよ。さあ、前を見てごらん。お前の枝が直ぐそこにあるだろう」
促されておずおずと視線を辿らせると、そこには先端が既に枯れ始めたオレンジの葉が茂る枝があった。思った以上に枝は太く、簡単に折れそうにはない。
けれども、本能的にサシャはこれを折らなければ駄目になると悟っていた。
「何が」駄目になるのか解らない。「何を」悟ったのかも解らない。「何故」なのかなど遠い世界のようだ。
それでも折らなくてはだめなのだ。イシュアはサシャの決意を言葉にせずとも受け止め、従うようにその枝へとすっと近づいていく。宙には見えない床があるような、すべらかで安定した動きだった。
見れば、それは拳の太さほどもある立派な枝だった。これを折るのは並大抵ではない。力がないサシャからすれば、すさまじい重労働であるのは知れた。力で簡単に折れる枝ではないと。
それでもサシャは手を伸ばし、ぐっと掴むとそれを揺さぶった。ガサガサとオレンジ色の枯れかけた葉が抗議のように鳴りさざめく。
『お前はいいのか、お前が望んだ事だったじゃないか』
葉はさざめき、サシャを音で止めようとする。
『お前の望みが叶うためではないか、それを捨ててどこに行けるというのか』
『お前を受け入れるコミュニティなど存在しない』
『お前にこの冬は越せないぞ』
ガサガサガサ、と言の葉が辺りに響き渡る。サシャは半ば体重を全てかけるような動作で、その枝を折ろうとしていた。
『お前を受け入れるものなど誰もいないと、この先思い知らされることになるぞ』
『お前は、お前は、お前は、………騙されているのだ!目を覚ませ、覚ませ!』
ざわめきは深く、枝はしなるたびにサシャを苛んだ。
ああ、そうだ。僕は自分で望んだんだ…。
何を?
自問したとたんに、突き動かしていた自分の心が霧散していく。
僕は枝を折ってはいけないんじゃないか…。このまま先へ。このままの枝を。
木の葉のざわめきと対話しているうちに、自分がわからなくなっていたその時だった。
パキーン…。
氷の砕けるような音と共に、枝が視界から消えサシャは身を震わせた。がくん、と枝と共に落ちそうになった身体は、イシュアにしっかりと支えられていた。そして、視線の先にあったのは、かつてあった枝の場所に触れているイシュアの手だった。
幹に向かって裂けたような傷跡を慰撫するように手で触れ、木を撫でる。
折られたオレンジ色の枝は、中途ばかりまで落ちていくと夢のようにふわりと散った。
まるで初めから存在しなかったように。
途端にサシャは恐ろしくなった。
あれは折ってしまってよかったのか?
おのれは言っていたではないか、『お前を受け入れるものなど誰もいないと、この先思い知らされることになるぞ』と。『お前は、お前は、お前は、………騙されているのだ!目を覚ませ、覚ませ!』と。
だが、自分を片腕で抱き上げる男は、美しくそして神々しく、慈愛に満ちていた。
「変化を恐れるのは当たり前のこと。私ですら変化は怖いのだ。お前もそうであるのは当たり前の事なのだよ」
金色の瞳は、恐怖に震えるサシャを柔らかく見上げていた。視線を合わせるとそのまなざしの深さに、サシャは頷くことも、拒むこともできず魅入られるようにそっと見つめたままでいた。
サシャの大樹はイシュアの甘い匂いに、葉を震わせ銀色のしずくを光の庭に散らせていた。
イシュアは銀のしずくを受けて、右手を広げると樹を見つめた。
「ここを出れば、お前は何一つとして覚えてはいまい。ここからお前自身が何かを持ち出すことはできないのだから。天を見上げてごらん」
サシャはその促しに、頭上へと視線を向け今まで見たことのない景色に感嘆の声を上げた。
そこは瞬く光が降り注ぐ、不思議な暗さがあった。
闇だけではなく、暗いその中に無数の宝石が瞬き、少ない輝きが落ちてはあたりに散っていく幻想的な世界だった。小さなきらめきはきらきらと瞬いては輝き、そして闇に一瞬飲み込まれては生まれる。
「これは夜。お前の知らない安らぎと豊穣の世界だ」
「宝石の、鉱脈の明かりのようです。素晴らしい世界なんですね」
鉱山の中で、炎の明かりの中でふいにきらめく宝石の瞬きが、何億も闇を染めて輝く光景にサシャは陶然と見入った。
「そうなのだよ。もう長いこと失われてしまった世界なのだ。お前はこの世界を愛してくれるのか?」
イシュアの問いに、サシャが天へと手を差し伸べ光をめでるように撫でながら頷く。
「勿論です。こんなに美しい世界を嫌いだなんて思うはずがありません。ずっと見ていたいくらいです」
イシュアは頷くと、サシャの頬へと手を差し伸べた。銀のしずくがいくつも宝石のように右手には落ちて、それを天のかすかな光が染めている。爪の先にあったしずくは、サシャの頬に触れると、泡のようにはじけた。
「ならば助けてほしいのだ」
「助ける?」
不思議な響きの言葉だった。サシャはイシュアの指先が慰撫するように自分の頬を撫でているのを感じながらも、怪訝な面持ちを隠すことはできなかった。
自分が何かを助けられるという、それですら嘘のような出来事だ。ましてや、この金の者の助けなど自分にできるのだろうか。
「お前にしかできないのだよ。私はずいぶん長い間、お前の言うように孤独だったのだ。お前の言う、寂しい場所にいるのだよ。どうか、この場所から連れ出してはくれないだろうか?」
不思議な願いだった。
そういえば、ここは鉱山の闇から繋がっている。このまま上へと昇って鉱山の血脈を抜け、地上に出ればよいのだろうか?そんなに難しいこととは思えない。
「僕でよいのなら」
サシャが答えた瞬間、夜だった世界は金色の光に包まれ眩い光があたりを満たした。
すべてのものが輪郭を失い、光に飲み込まれているさなかでそっとイシュアの声がサシャの耳元に響く。
「では、忘れられた世界へ闇夜の踊り子を導いておくれ。炎はしゃれこうべを躍らせ、水は宝石の中に沈む。言葉は闇夜に散り、悲しみは金の音を奏でるだろう。さあ、スズメを連れて行きなさい。お前の道へ」
最後に残った声さえも、光に飲み込まれチチチ、とかわいらしいあの声だけがかすかに響いたあと、全ては消えさった。
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