神殿編

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 活動時間である1刻よりも早い、12刻前という時間帯であるにもかかわらず、宿屋の入り口は立派な馬車と30人以上の神殿兵騎馬小隊に占拠され、赤毛の主人は禿げ上がる思いだった。  昨夜の雨が靄になって、秋を思わせる匂いがしている。  非活動時間にも関わらず細い路地には馬の吐息と、見物人の喧噪が渦巻いていた。見事な馬たちと甲冑を着込んだ黒の者たち、そして神殿の象徴である黒いマントが小さな路地に整然と並び、先頭に立つのは四頭立ての大ぶりな馬車だった。  黒く塗られた馬車は、霧の中で所々に使われている金の装飾を煌かせ、けぶるように輝いている。見物人たちは畏怖の念を抱いてこの集団を見つめ、成り行きに興味を隠せないようだった。  特に宿屋の主人は、蒼白を通り過ぎて紫の唇を震わせこの集団を見つめていた。  あの暴利な金額を吹っ掛けた相手の迎えとしか考えられない。自分の進退は崖っぷちを通り越しすでに、奈落の底にある心地だった。  馬から何人か降りると、恭しく馬車の扉を開けた。中から神殿服を着ている、長い髪を高く結い上げた黒の者が現れると同時に、騎乗している兵士たちも一斉に馬上で敬礼した。  美しく乱れのない動きに、路上で見物していたものたちは、おお…と感嘆の声を漏らす。  見事なパフォーマンスを見ることができ、彼らとしては実に楽しいイベントだったに違いない。  だが、宿屋の主人はまさに、地獄の底にいる心地だった。 ぱくぱくと口をあけて言葉にならない何かを呟く彼に、馬車から降りてきたカヤが優雅な一礼をする。 「昨夜うちの者が宿泊したと思いますが、どちらの部屋になりますでしょうか。案内していただきたく」  3万ルフを請求した主人は、青ざめたまま手元にあった10万金貨を差し出した。握りしめられていた金貨は、べたついてやや生暖かい。それをカヤはすぐ受け取らなかった。 「き、昨日多大な請求をいたしまして、申し訳ございません!お代は結構ですからこれをお持ちいただければ!」  カヤは事の次第をまったく理解していなかったが、これを受け取らないことには話が進みそうにはないと、後ろで控えているものに目配せした。  すすすっと一人の神殿兵が動き、差し出された金貨を受け取る。 「それで部屋は」  カヤの冷たくも静かな様に、主人はがくがく震える体で、宿屋に入ると階段を上った。 「う、うちで一番いい部屋を用意したかったのですが、すでに使用中でしたので、こ、こちらに」  転げそうなさまで階段を上がって二つ目の簡素な木の扉の前に立ち、なぜかノブを回そうとする。その様に、カヤは手をそえて制した。 「あとはわたくしが」  混乱状態の主人は、部屋のノブに手をかけていた手を外し、深く礼を取った。今にも跪いて泣き出しそうな彼にカヤが階段を指し示す。 「どうぞ、お下がりください」  ぎこちなく、打ちのめされたように主人が去っていきやがて遠くなったことを確認してからカヤは中に声をかけた。 「イシュア様、おられますか」 「入れ」  中から優雅な声が聞こえる。このやり取りに当然ながら中の男は気づいていたのだろう。  カヤは扉に手をかけると、引き開いた。  扉が少しばかり開いただけで、そこは光あふれる森のようなかぐわしい匂いがした。薄く戸を開け、カヤは中に滑り込んだ。後ろ手に扉を閉め、中の内情を見て絶句する。 「サシャに光脈が出てるじゃないですか!まさか、交わったんですか?!」  暖炉の前で抱き合っている二人を見て、カヤは蒼白になり問い詰め始めた。詰問に疲れた様子でイシュアは立ち上がると、軽々と意識のないサシャをカヤに差し出す。  全裸でサシャは熟睡していた。美しい光脈が全身に浮かび、蔓と葉と蝶が、生き物のように息づき光っていた。 サシャの光脈は、イシュアのものとは違い金色一色ではなく七色の揺らめくオパールようだった。水の中のオパールが肌で揺らめくたびに、蔓と葉が風に揺れ、蝶が飛び立つようだ。  背にも生き生きと羽ばたく蝶が、蔓草の文様で浮き出ている。  光脈は息をするように瞬き、美しい宝石のようだった。 「まだ入らないだろう。何せ未経験でなにも知らない穴に、私の何かが入るとでも?」  冷静にイシュアは返すと、一応は干してあった神官服を身にまとった。カヤは何とも言えない表情で金の者を見つめていたが、ため息をつくとサシャをベッドまで運び、布団をかぶせイシュアへ向き直った。  サシャは屍のように、動かない。ただ光脈がその命を示すように瞬いては、薄くなる。それだけだった。  イシュアの纏ったしんなりとした神官服に、深いため息をこぼし襟元や袖元をただしていく。 「あなたにこんな格好をさせるなんて、天罰でも当たりそうですよ」 「別段そういうつもりはないから気にしなくていい。それより今回の神子だが、王家に連なるものたちが大半を占めるのか?」  イシュアの襟元のボタンをはめ込みながら、カヤは軽く混ぜ返した。 「元々は全て王家に連なるものたちしかいませんから、王家の者といえばそうですが、今回は確かに顕著ですね。直前での入れ替えが37人。何れも地方豪族の神子から王家の神子に変更されています」 「光玉の闇取引の値段はどうだ」  着せた服をポンとたたいて出来を確認しながら、カヤは淡々といらえた。 「元々出回るものでもないですし、出回れば高価なものですから値段そのものはあってないようなものですが、上昇していると言っていいと思います」  カヤは人間関係の機微に若干疎いものの、数値的なことや神殿の管理には長けていた。  光玉は神殿が神子の一族に下賜するものと、神殿から少量ではあるが売りに出されるものと二通り流通経路がある。  非常に高価な価格で売却されるが、闇市場はこれよりも100倍の値段をつけて取引される。  神子として神殿で寵を賜れば、すさまじい財を成すのは間違いがなかった。 「神子は各地豪族より平等にこれを輩出し、王家の関わりは分かたれてあるべしとあったはずだが」 「そんなものはとっくに形骸化しています。王家主導による王家の選別により神子はほとんど選定され、近年はより顕著になりつつあるのが現状ですね」  カヤはイシュアに外套を着せると、皺の寄ったそれをぴっと引っ張った。そして思い通りにならない生地にため息をついた。 「500年にわたる王政政治は、もう既に昔の約束などかけらも残していないのかもしれませんね」  カヤはイシュアの顔を見ず、どこか淡々とそう述べた。そしてサシャの服を手に取り、ベッドに向かう。イシュアはカヤがサシャに服を着せ始めた横で、小さな窓を開け放った。  部屋の中、唯一しつらえられていた窓は1メートルもない所に隣家の壁がそびえ、光は申し訳程度にしか入らない。それでも開ければ、生きた者たちの匂いと生命の拍動、そして自然の香りが漂う。 人間の匂いだ。  まず下町の香りがふわりと窓から風と共に香ってきた。すぐそばに建っている民家の壁や、少し遠い往来から聞こえる馬車の音。  彼らを待っている神兵騎馬隊の、馬がぐずって鳴くいななき。  雨が霧に変わった水の匂い。  遠くで時を告げる鐘の音が鳴り響き、鳥がさえずる。  カーーン、カーーンと低くも高い音は6回ほどならされると、鳥の羽ばたきと喧噪だけが残った。  12刻を知らせる音だった。 「朝はいつも変わらないな…」  ぽつりとイシュアが呟く声に、カヤはそっと苦笑を浮かべた。手早く人形のようなサシャに服を着せていき、外套も羽織らせる。 「懐かしいですか?」  何が懐かしいかは問わなかった。時代とともにいろいろなものは移り変わり、大きな波は押し返そうとしてももう戻らないからだ。 「そうだな」  イシュアは一つの決意とともに、いらえをかえしていた。  宿屋の主人は神兵に何度も昨夜のわびを述べていたが、イシュアが黒い外套に身を包み、同じく外套に包まれているサシャを抱いて現れると、宿屋から出る前にと必死で這い寄った。 「昨日は失礼いたしまして、本当に申し訳なく…」  イシュアはかすかに笑うと、何も言わず宿屋を出ていく。兵士が馬車の扉を恭しく開けて待っているそこに乗り込むと、カヤも同じく乗り込んだ。 呆然と宿屋の主人は彼らが去っていくのを見送るほか、なかった。見物人が顔の見えない二人が乗り込むのと、主人のやり取りを見てざわめく。  だが、神殿側の誰一人として斟酌するものはいなかった。  扉が閉じられ、兵士たちを整列させて進んでいくために先導が声を張り上げる。 「出立!」  馬車の中にいても、ザッと足並みがそろい歩み始める気配が響く。甲冑がザザっとすれ、馬の蹄の揃えられる気配と同時に馬車が動き始めた。がくんと車輪が引かれ、石畳をガタガタと進み始める。  ガラスの窓も設置されているが、いまは分厚いカーテンで閉じられ、車内の様子はうかがい知れない。  六人乗りの馬車はゆったりと座席が向き合う様に作られており、イシュアはサシャを抱いたままカヤと向かい合う形で座っていた。  座席に使われている布は珍しく、皮である。食事の概念が忌避されると同時に、狩猟なども敬遠され血なまぐさい出来事はおおむね悪とされる傾向があった。  それは暴力行為などの抑制にも大きく関わっており、サシャが手酷い扱いを受けなかったのにもそこに一端があるだろう。人が人を殴る、蹴るといった、血を見る行為は避けられる傾向にあった。  小さなネズミなどは無論殺し、皮は靴などに利用されるが大型の獣を殺すすべを持つ者たちはごくごく限られていた。そして殺す者達は何よりも忌み嫌われる存在だといえる。  その中で神殿は表立っては言わないものの、唯一狩猟を行う機関であり家畜の屠殺技術なども保持されていた。むろん、それは金の者が食事を行うからに他ならない。  ただ殺すのではなく、皮製品への利用も含め神殿には古くからの技術がまだ残されていた。この座席の皮は、まさしくその象徴ともいえる。  イシュアはフードを後ろにまくると、ふっと息をつきよく眠っているサシャを優しく見下ろした。その様にカヤが何とも言えない表情を浮かべる。 「なぜ逃げだしたんでしょうか。公文書館の者に何か言われたんでしょうかね…」  カヤが光脈の浮き出ているサシャを見つめ、複雑そうな声音で呟く。それにイシュアは軽く息をついた。 「例えばだが、お前が私の役目を今すぐ変わって行えと言われたら、どうする?」  怪訝な表情でカヤは金の者を見つめると、理解できないという様に片手をあげた。 「何をおっしゃっているのかさっぱり解らないのですが、私にはあなたの義務を果たす能力は一つも持ち合わせていませんし、そのようなことはあり得ません」  はっきりと言い切ったカヤに、イシュアがそうだろうという表情で頷く。 「つまりは、お前と同じようにサシャも神子というものが果たせないと、そう思ったのだよ。資格や力は別としてな」  カヤは全く理解できないという表情で、眉をひそめた。 「しかし神子の印が出ているではないですか。果たせないも何も、印が出たものにしか成せない義務ですよ」  カヤが理解不能だと言い募るそれに、イシュアは軽く笑った。そして一つ頷く。サシャの抱えている理性的ではない逡巡や矛盾はおそらく、カヤに伝わらないだろう。もうずいぶん前に彼はそれらを捨ててしまったのだから。  それでも、とイシュアは一つ一つ言葉にした。 「自分に自信がなければ、義務を果たす能力が与えられてもそれを信じられず、逃げ出すこともあるだろう。一歩前に進むには自分に自信を持つことも大切なのだ。それができる、はたせると思えなければ、酷い重圧があるばかりで苦痛しか残らない」 「ですが、彼はすでに神子であり、その責務からは逃れられませんよ?」  カヤの淡々とした声音には、心底理解できないという響きがあった。人の心の機微に疎いカヤからすれば、サシャの迷いや重圧は理解不能だったろう。 「逃れられないからこそ、悩み逡巡し、逃げ出したのだよ。この子は自分を信じることすらできていないのだ。大きな力があるというのに」  イシュアは優しくサシャの髪をすいた。ぱさりとフードが落ちて銀の髪と美しい七色の光脈が馬車の中で淡く光りだす。それは光玉よりも美しい輝きだった。 「あなたは、この子供に全てを託すと決められたのですか?」  その声は、静かな絶望をはらんでいるように淡く震えていた。イシュアがそっとカヤを見つめ、慰めるように微笑む。 「私たちは私たちの義務を果たさねばなるまい」  金の者の深く優しい声音に、カヤは胸の内の奥が重たくなり涙が流れそうになった。そっと目を閉じ、息を深く吸う。  しばらくそうしていれば、いつものように涙は心の奥から溶け出し跡形もなく消えていった。そして、なぜ泣きたくなったのかも、きれいになくなっていく。  心のかけらも、消えていく。そっとカヤが目を開けたとき、イシュアは憐れむように目を細め彼を見つめていた。  そして何も言わず、厚いカーテンをわずかに開き神殿へと続く石畳の道を見つめる。  久方ぶりに神殿から外へと出た道は、馬車の往来も多く人の数も増えて王都らしい活気が満ちていた。 「いずれこの者を、銀の者たちに会わせようと思っている」  カヤは迷いもなくそれに頷いた。 「同じような色ですし、うまくいくかもしれませんね」  イシュアはさすがに、眉間にしわを寄せると忠実なる家臣を見つめた。 「お前、色ですべてが判別できるとでも思っているのか?」 「少なくとも、黒の者たちは全くあの者たちと交流できないのですから、色による判断が最良と思いますが」 「うまくいっていないのか、お前は」 「うまく行きようがありませんよ。奇跡でも起こらない限り」  カヤは冷徹に言い捨てると、興味を失ったように窓の外を見つめた。巨大な神殿が光をたたえ、神聖なるたたずまいを見せている。  神殿の光は世界の中に放たれる光よりも濃く、巡礼者や参拝者の中には自分の病が何度も光を浴びるうちに治っていくものも少なくはない。それゆえに、神殿で働くというのは実に名誉なことであり、同時に動かしがたい特権階級でもあった。  だからこそ、統治を行う王族とは別の確固たる地位を築いているのだ。  長い間、禁秘を抱えられる力は絶対的な信仰を源にしている。不可侵とされるものは、治世を行う王族でさえもその侵略を許さない。  それは約500年間守られ続けてきた、一つの掟だった。  のちに、あの宿屋が神殿の由緒ある要人を泊めたと噂になり、信仰深き者たちがこぞって泊まるようになり、商魂逞しい主人が流行に乗って綺麗な改築を行い、話題の宿屋に成り上がるのは、また別の話。
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