王宮編

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 靴の下の霜が、さくさくと鳴る。体重を受けて地面が沈むのを、マムフェは楽しく思いながら森の中を歩み進んだ。  このあたりの森の木々は落葉樹ばかりで、秋は鮮やかに紅葉していたが今は落ち忘れた枯れ葉と枝が天を覆っている。吐き出した息が白く、空気に溶けていく。目の端を雪がかすめたような気がして、視線をやると、小さな綿毛を持つ虫が天に昇っていく所だった。  雪が天に帰っていくみたいだと思い、笑いをこぼす。  この森の道を歩むとき、いつも心は弾む。 「マムフェ!」  後ろから蹄の音が近づいてくる。振り返ると、葦毛の馬が身軽に森の道を来るところだった。胸の奥がきゅっと苦しくなり、幸せがあふれてくる。  直ぐそばにやってきたライセンは、馬上からマムフェに手を差し伸べた。マムフェは素直に側によると、相手の肩へと手を伸ばす。ライセンは軽々とマムフェを抱き上げ、馬上に乗せた。  馬のフェイが、ブルブルと鼻を鳴らして白い息を吐きだす。 「重いから、フェイが文句言ってるの?」 「違うよ、マムフェを乗せてどこまでも駆けていく気合いだよ。丁度いいから、少し遠乗りでもしてみようか」  待ち合わせの場所に向かっていくマムフェを、馬に乗せて泉まで行くのはある意味日課になりつつあったが、それ以上の遠乗りをしたことは一度もなかった。  フェイの上から見渡す景色はいつもとまるで違い、乗るたびに新鮮な感動を覚える。まだ乗馬訓練をはじめとして、武術、剣術、体術も幼い彼らのカリキュラムになかった。 「いいの?!」  素直に喜んだマムフェの表情に、ライセンは笑い返した。 「こんなに喜んでくれるなら、もっと早く誘ったらよかったな。失敗した」 「そんなことないよ。すごく嬉しいよ」  二人は初夏の頃に出会い、夏を通り越し、秋を過ぎて冬の真ん中まで時間を共に進めていた。中の日に続けられる逢瀬は、一日も欠かされることなく今日まで続いている。互いが歩み寄れる距離間を、ゆっくり詰めている最中であり、それはうまく行っていた。  フェイを早足で歩ませ、冬の森を進んでいく。時折頭上を大きな鳥が羽ばたいていくことがあっても、人の気配は一つもない。森の中は静寂の中に沈んでいて、生き物の気色も基本的に薄かった。 「この森は、浄化の森と呼ばれているんだよ」  マムフェはこの頃になると、同学年の者たちよりも語彙が増え、読解力も言語力も増していた。自ら積極的に本を読み、学舎長に教授される内容もはじめは幼子に教えていたような内容から、わずかな時で同学年を追い越し上級生の域まで達していた。 「浄化?」  マムフェの向学心をライセンは歓迎していた。問いかけられれば、知っている範囲できちんと答える。 「少し先に廟がある。廟は汚染があって、生き物が住むには適さない環境のものを封じている。私も中に入って見たのは一回だけだが…」  何かを思い出したのか、重たい岩のような沈黙をライセンは落とした。何か言おうとしても、その前に立った衝撃を思い出すのか、うまく行かないようだった。 「何があったの?」  なににでも興味がひかれてならないマムフェは、斟酌せずに問う。途端に、ライセンは苦笑をこぼした。 「何というのは難しいな。警告文くらいだよ。それより、廟の建築物は不思議な様相で、どうやってこんなものが作られたのか不思議になる。あまり近くによると耳鳴りがするかもしれないが、行ってみようか?」 「見てみたい!」 「では、行ってみよう」  フェイに揺られて廟を目指していく道程は、二人とも言葉を交わさない時間だったが互いの体温を最も近くで感じられる時だった。ライセンは自分の前にマムフェをいつも乗せていたが、特にこれほど体が密着していると、間違いが起こりそうで避けていた節もある。  理性で感情を封じていても、触れ合う体温がたまらなく快い。凹凸のごとく、歯車のかみ合わせのように合わさると、言葉にできない心地よさがある。それは不思議な感覚だった。吸い付くように、すべてを乗り越えてぴたりとお互いにはまり込む。  二人でいると初めから、自分が持っていたへこみへ、そっと寄り添うあたたかな気配を得たような充実感が胸に満ちた。初めて出会った時から、それは二人の中にある不思議な糸だった。  あなたはわたしのもの。わたしはあなたのもの。  溶けた炎を飲み込んだように、ぴたりと二人合わさると激情の様な欲と、死んだ湖に生命をともすような優しさが生まれる。  やがて見えた廟の荘厳な姿に、二人は無意識で育み始めていた熱を吹き消されたように馬上で立ちすくんだ。  フェイも、おびえたように二、三歩後ろへと下がる。  森が、ぽっかりと口を開けるようにそこは存在していた。  廟はガラスが一枚も使われず、精細な細工は石の隙間にまで及んでいる。継ぎ目は一つも見えず、その建物は異様な存在であるのを隠しもせず、威嚇しているようでもあった。  つるりとした石面は、同時に彫刻によって精密でもある。出入口は鋼鉄の扉が重く構えており、簡単に開きそうにもない。  見れば見るほどに異様で、恐ろしい建物だった。こんな建物があるから、この森には誰近寄らなかったのだと初めてマムフェは理解した。  何も言わずライセンは馬首をめぐらすと、別の場所へと向かっていく。フェイはこの場所から離れられるのが嬉しいのか、早足よりも駆け足で足を運んでいた。  やがて馬上でライセンが口を開く。 「あれは本当に不思議な建物でね。あの彫り物にも何か意味があるんだろうが、長くあの場所には誰もいたがらないうえ、黒の者だと特にダメージを受ける。好きとか嫌いではない、本能的に害悪だと『知っている』んだ。不思議なものだよ」  マムフェはライセンの言葉を、聞いていたが内容を理解するには遠く及ばなかった。それほどにあの建物は異様であり、本能的な恐怖を刺激したのだ。だが、後に望まぬ状況で『知っている』理由を理解することとなる。  山の道ならぬ傾斜を、二人乗せているにも拘らずフェイは軽々と上がっていった。やがて、なだらかな斜面の先に森が途切れ、視界が大きく開ける。  真っ先に飛び込んできたのは空の広さだった。次に、もくもくと煙を上げている大きな煙突とその側に光輝く建物が遠目に見える。  大小の敷地を埋め尽くす建物や、庭園、劇場施設などが一望できる王都の風景がそこにあった。  馬上から身を乗り出すようにして、マムフェはその展望に見入った。 「これが、この都…。一度もこんな風に見たことはなかった」  ぽつんと零す様に告げ、静かに眼前の景色を見つめる。神殿は溢れんばかりの光を放ち、頭上に王冠を抱いているようだった。精巧な模型のように家が立ち並び、区画ごとに特色のある家並みが集まっている。  王宮からほど近い場所にある劇場は、ちょうど幕が引けたのか馬車が並んでいるのが見て取れた。  はるか遠くに、自分の茶のコミュニティと家があるのをマムフェは思い出し、震える息を吐いた。  王宮に近い区画は、黒のコミュニティが密集していると一目でわかる絢爛な建物が並び、外れていくにしたがって、建物の様相も変わっていく。  どんなに泣いても、振り返らなかった両親。  決して、自分を受け入れようとはしないコミュニティの数々。この都はその格差を如実に表していた。  どんなに隠していても、現実を見なくてはならない時が必ず来るのだ。  夢のように、ライセンと過ごしている時間は楽しいが、自分にその先を行く資格はない。自分はどこのコミュニティにも属していない放浪者だ。  小さな宝石で作られたような都を、マムフェとライセンは何も言わず暫く見つめていた。しかし、何かを打ち明けるように、マムフェが街並みを見つめたまま言葉を紡ぎ始める。その口調は改まり、声音はひどく硬かった。 「僕は迷い子です。茶色のコミュニティに属する両親から生まれたんです。その時コミュニティから放逐されました。どこのコミュニティも、茶色から生まれた僕を歓迎しなかった。学舎に通うようになるまで、家から一歩も出ない生活をしていたんです。僕は、今も学舎で養われていて、コミュニティに属してもいない半端な存在なんです。…こんな大切なことを、隠してずっと会ってきていてごめんなさい」  最後には震える声で、それでも毅然と背筋を伸ばしマムフェが告げる。  それは彼が別れを告げる覚悟をし、ライセンに迷惑をかけないために凛と自分を律しているようだった。決して泣かないと心した背中のこわばりが、ライセンの腕の中で微かにふるえている。  その体を、後ろからライセンは優しく抱きしめた。途端に、腕の中でマムフェの体が震える。 「僕は、あなたのコミュニティに入る事ができるほど、出自がまともではないんです…」  語尾がかすれ、吐息は白く空気に散った。 「私も君に隠していた事がある。聞いてくれるか?」  思わぬ告白を耳元で神妙に囁かれ、別れを覚悟していたマムフェは半ばうるんだまなざしでライセンを振り返った。視線の先で、青年は真面目な覚悟した表情を浮かべている。  彼の声も、また堅かった。 「私は、この国の現国王の第5皇子、ライセン・スコール。スコールとは、わが王家直系のものにだけ与えられる第二の名。私は狼の紋章を持つことが許されている王位継承権5番目の、皇子なんだ」  マムフェは文字が読めるようになり、様々な教育を学舎長から受けていた。その中には学舎へ入った当初、一度は教わっていたが、うまく理解できていなかった王家の成り立ちも含まれる。  銀の女王が500年前に神殿の力を借り、この地を平定し、その折二人の子供を産んでいる。  一人は金の子供で神殿に住まうことになり、もう一人は黒の子供として現在の王家に連なるスコールという第二の名を光の神から与えられたという。その者たちは狼のエンブレムを冠し、王位継承権を持つ直系の男女が今でもその名を継いでいると。  目を見開いたマムフェに、ライセンが頷く。 「私が15歳になって持つコミュニティというのは、私個人のコミュニティだ。 成人とともに二つ開かれる同性のコミュニティと、異性のコミュニティを指す。同性のコミュニティは、私のパートナーをはじめとした6人程度の少数コミュニティになる。 もしかしたら、もっと少なくなるかもしれない。 異性のコミュニティは、私の血族をつなげるための女性たちの集まりだ。 私が君を誘うコミュニティは、多くの者たちが所属しているような、家族関係の深いコミュニティではないんだ…私は君を孤独にしてしまうのかもしれない…」  王族のコミュニティについても、マムフェは学舎長から教えられていた。  王族直系の者たちは、成人と同時に家族として王族全体を含めた母体のコミュニティとは別の、個人のコミュニティを持つようになる。  王族とパートナー関係になった者は、個人のコミュニティに在籍すると同時に、自分の出自のコミュニティにも在籍して結婚をする。家族としての繋がりを、王族のコミュニティで作ることができないための処置だった。  混乱した表情で、マムフェはライセンを見つめた。皇子という告白は事の重さよりも、衝撃を多くもたらした。  そして、ライセンにとってもマムフェがどこのコミュニティにも在籍していない事実は、驚愕の出来事だった。彼がマムフェを選べば、彼が辿れるかもしれない幸福な家族を得る機会を、奪うことになりかねない。 王族の個人コミュニティは、個人に対して多数が傅く特殊な形態だ。そこにいる者たちが横のつながりで、性的に関係することはない。  そのためコミュニティ内といえども、嫉妬による小競り合いが生じることも少なくなかった。居心地が悪かろうとも、自分を支える家族のコミュニティが別にあるからこそ、救われている面の多いあの場所へ身寄りのない少年を入れてしまうのか。  まだ幼い体をライセンは抱きしめ、息をつめた。  大切ならば、この手を放せと自分の中の理性が告げている。自分が手を出さなければ、普通のコミュニティに十分所属できる可能性がある。彼はそこで、パートナーに愛され、家族を持ち、子供を持ってコミュニティの者たちから愛されるだろう。  優しい愛が、そこでは約束されるはずだ。  手を放せと、理性が告げている。  さあ、別れを告げろ。  理性がささやきかける言葉に、ライセンは目を固く瞑るとマムフェのつややかな髪に額をじっと当てて静かに抱きしめた。腕の中で、マムフェがかすかに震えているようだった。彼も別れを予感している。  ライセンは深く息をつくと、震える息を吐いた。  フェイが鼻鳴きしてどこか心配そうに、体を揺らしている。  冬の風が、二人を冷たくなぶっていく。  何度か唇をなめライセンはそっと、抱きしめていた身体を離した。視線を下すと、泣くのを我慢しているマムフェの幼い顔がそこにあった。 「ああ…。だめだ、…。だめだよ。思いきれない」  その顔を見たとたんに、ライセンは言葉をこぼしていた。泣き笑いに近い表情で少年を見下ろす。 「私は、君を離したくない。君が孤独に苦しむと知っても、私のコミュニティに入ってほしいと望んでしまうんだ。 私から離れたほうが君は幸せになれると解っているのに、私は君を離したくない。 ……お願いだ。君はきっと苦しむかもしれない。孤独になって、家族も持てないかもしれない。けれど、私は君とともに生きていきたいんだ…。君を手放したくない。 お願いだ。私とともに生きてくれないか…」  ふり絞るように、ライセンが告げる。振り返り彼と視線を合わせていたマムフェは驚いたように彼を見つめ、ぼろりと涙をこぼした。  思わず出てしまったのだろう。慌てて視線を前に戻し、目元をぬぐう。  その体を背後から抱きしめ、ライセンは言い募る。 「君が今、コミュニティに入っていないのは、卑しいことではないよ。これからいくらでも君を望む人が出てくる。君をコミュニティに迎え入れたいと思う人たちは沢山現れるだろう。今までは、ただ、巡り合わせが悪かっただけなんだ。  私は、君よりも長く生きているから、そういうことも分かっているのに、君を諦められない。諦めたくない。  私のコミュニティに入ることは、君の幸せを奪うことになるだろう。それでも、私を選んでほしいんだ」  苦い響きを帯びた懇願だった。耳元で囁かれる声に、マムフェは涙が零れてくるのを止めることかできなかった。  抱きしめられた身体が、どこまでも暖かい。 「…僕は、ほかの誰かといるよりも、あなたといたい」  マムフェがライセンの胸に額を預け、頬擦りしながら静かに告げる。涙がライセンの服について、はじける。  マムフェの様に、ライセンは音がするほど息をのむと、かぶりつくように口づけしていた。激情を現すように、驚愕して何も知らないその唇を舌先で割り開き、マムフェの舌へと絡みつく。 コミュニティに属していないマムフェは、まったく無垢なままだった。  口づけも体験したことなどない。嵐のようにライセンの目が激情を帯びたかと思うと、次には唇が降ってきていた。慣れない歯が、ガチンと当たるのもライセンは全く気にしなかった。  唾液を流し込み、同時に舌をなぶり、口腔内を撫でる。歯と歯が当たり、唇が愛撫するように柔らかく挟み込んできては、舌が口の奥まで差し入れられる。  唾液を飲まされ、舌を舐めとられ、息すら飲まれてマムフェは震えた。苦しいのに深く甘い。手をつないでいるよりも、体の中まで探られ明け渡す甘い屈服と生々しい触れ合いに、体の芯が震える。  ライセンは息が全く出来なかったマムフェが、苦しそうに身をよじるまでその唇を味わい尽くしていた。  犯罪である。  唇を離したライセンとマムフェは互いに荒い息をついていたが、ライセンは燃え上がってしまった欲情に奥歯をかみしめる。今にも無体なことをしてしまいそうだった。  荒く息をつくと、馬から降りる。  驚いて同じく降りようとしているマムフェを、待てというように手で制する。 「すまなかった。してはならないことをした。我慢ができなくて。ちょっとこのまま、そうだな、景色でも見よう」  大きく息をつき、自分の中のたぎった欲望を霧散させようと努力する。マムフェはやや不安そうに馬上でライセンを見つめていたが、青年が劇場を指さしていつか一緒に見に行こう、といつものように誘ってくると安心して頷いた。  そのまま二人は馬上と、徒歩のまま学舎の近くまで時間をかけて色々な話をしながら、過ごした。やがて別れの時が来ると、ライセンはマムフェを馬上から抱いておろした。少年を愛しげに見下ろし、青年は相手の手を取るとその甲へ恭しく口づける。  真っ赤になって、マムフェはそれを受け入れた。 「また、中の日に」  離れがたい体を起こして、ライセンがフェイに乗る。マムフェは頷いてから微笑んだ。  また、中の日に。  変わらぬ約束だった。
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