神殿編

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神殿編

 鼻孔にふわりと花の香りが漂ってきた。  続いて、深い森の奥に漂う木の香りが辺りを取り巻く。石の床にいるのではなく、春の森と草原にいるような錯覚を覚える。  サシャは思わずあたりをぐるりと見まわした。  高い天井には天窓があつらえてあり、そこからあふれんばかりの光が降り注いでいる。ドーム型の巨大な広間はまぶしく美しい装飾と光彩に満たされていた。  その空間に、500人はいるだろう者たちがじっと頭を垂れ、平伏し言葉もなく佇んでいる。  巨大な石造りの場内は縦長に広く、天の高い廊下が巨大な円柱に支えられ四方に伸びていた。天井を彩るのは、石の彫刻ではなくガラスの微細にわたった工芸的天窓だ。  天からの光はガラスの彩と影を廊下に落とし、光は柱のように降り注ぐ。  壮大で荘厳。  まさしく、信仰の頂点ともいうべき者たちが住まう神殿としてふさわしい。  その中心にあるドーム状の空間にサシャたちは並列に揃えられ、集められていた。先ほど全員に小さなコップが配られ、その水を飲むように言われてから随分と時間がたっている。  渡された水はおいしくて、サシャは全てを飲み干し、まだ少し物足りないような気さえした。  誰一人として、身じろぎもしない。言葉を放つものもいない。ただ、柔らかな沈黙だけが空間を覆っていた。  光は満ちてあたたかく、緩やかな風が草原の香りと森の苔を連れてくる。その居心地の良さに、サシャは思わず息をついた。  銀の者であるサシャがこれほどに居心地の良さを覚えるのだから、黒の者たちはたまらないだろう。こんな力のある光が降り注いでいたら、真綿に包まれるような心地になるに違いない。  これだけの光をどうやって集めているのだろう。  不思議に思いながら、サシャは誰もが平伏している空間でただ一人顔を上げ、天井を見上げていた。  黒の者たちは微動だにせず、平伏している。それはこの光が心地よいこともあるだろうが、彼らは選ばれ教育されてきたものたちだからに他ならなかった。  この神殿の神子として仕えるのは、黒の者たちばかりである。その中に銀の者であるサシャが紛れ込んだのは、不慮の事故が起こったからに他ならない。  10日ここにいれば、報酬として多額の金が支払われることは保証されている。彼は身代わりで運び込まれ、10日経てばここを離れ今までよりはもっとまともな暮らしができるようになる予定だった。  天井の細部にわたった装飾は薄い青色で彩色され、辺りを見つめていると深い海の底のようにも感じられる。  いつまでもここに佇んでいたい。  光は優しく、サシャを癒し満たす。なんて気持ちがいいんだろう。半ば酔った気持ちで天井を見上げていたサシャの視界に、ひらひらと金と黒の文様を描いた蝶が舞った。  蝶だ。サシャは心の中で感嘆した。なんて美しいのだろう。あんな蝶みたことがない。  ひらりひらり、と蝶が舞うとそこは草原のような気さえした。  石の床がふんわりと消え、森が木々を揺らして耳に優しい音を奏でる。  草原の中に蝶が、森の風と光につつまれ、妖しく舞い踊っていた。 『お前、ここにいてはいけない。お前は慣れていないのだから。こちらにおいで』  蝶がひらひらとサシャの周りを舞い、光を研ぎ澄ましたような声で話しかけてくる。 『さあ、おいで』  サシャはふらふらと立ち上がると、一歩を踏み出した。  ああ、ここは草原だった。蝶を追いかけて森に行こう。  一歩を踏み出せば草原の草を踏んだ気がした。暖かい土。やわらかい日差し。  うまく歩けずに、足元にあった石に体が当たったが、よろよろと立ち上がり蝶を追いかける。森へ行って泉のほとりで水を飲もう。  そうだ喉がたまらなく乾いていたのを思い出した。  蝶が草原の先の森へと、いざなっていく。ああ、この先に行かないと。 『おいで』  光あふれるその森の泉に行かなくては。蝶は優しくサシャを森へ森へといざなっていく。  あとすこしで森へ、光の森へ。 「おい!お前!」  森に入ろうとしたところを、突然何かが邪魔をする。鉄の匂いと、人間の気配にサシャはうつろなまま、まだ蝶を追いかけていた。 「だめだろう!門が閉まるまでは外に出てはいけない!刻印がまだ出ていないだろう」  遮るものは、人間と鉄の匂いに包まれていた。この者に捕まってはいけない、逃げなくては。森に行けなくなってしまう。  よろよろとした動作でまだ森へと向かっていく。森へ。 「どうした」  鉄の匂いが集まってくる。ここにいたくない。逃げるように抵抗し始めたサシャをぐっといくつかの手が掴む。 「おそらく光酔いだ。門が閉まるまでは神殿内にいさせなくては」 「銀の者じゃ仕方ない。なんだって神子に銀が混じってるんだ。逃げないように縛るしかないだろう」 「縛って広場に戻せ!門が閉まれば刻印が出る。脱走者など出れば前代未聞の騒ぎだぞ。早くしろ」  自分の周囲で交錯するいくつもの声が、遠くから聞こえる。蝶はまだ誘う様にサシャの周囲を舞っていたが、体がまるで動かなくなっていた。 「森へ…、森へ」  サシャがまるで動かない体で呟いたとたんに、体が突然逆方向へと引きずられた。草の上を乱暴に足首から引きずられていく。森が遠ざかっていく。  蝶が遠くなっていく。森へ、森へ行きたかったのに。  ずるずると引きずられていくサシャの体を、突然巨大な槍が貫いたのは次の瞬間だった。内臓を破壊し、骨を砕き腹部を槍が貫く。 「ぎゃあああああ!」  あまりの痛みに叫び声をあげ、サシャは意識を失っていた。  目が覚めたとき、サシャは静かで穏やかな空間にいた。泉が近いのか、サラサラとした水の音が耳に優しい。  辺りを見回せば、真っ白な壁と高い天井、そして柔らかな光が満ちていた。  ゆっくりと身を起こし、改めて自分の置かれた環境を確認する。10畳ほどの狭い部屋には三つほどのベッドが置かれており、中央に素朴な木のテーブルと椅子があった。テーブルには、花が生けてあり天窓からの光が部屋を優しく照らしている。  シーツは清潔で、今まで生活していた暗い世界からは考えられないほどの穏やかさと温かさがそこにあった。  サシャの他に誰もいない。  ぼんやりと天井を見上げて、光を浴びる。こんなに満ち足りて光を浴びたのは、初めてだった。豊潤で柔らかく、甘い光。  目を閉じ、ベッドヘッドに半身をもたらせて光を吸い込む。できることなら裸になって全身で浴びたいほどだった。  耳に水の音が心地よい。うとうととまどろみ始めたところで、ふいに部屋の扉が開きサシャはびくりと体を震わせた。  見れば木製の扉から、一人の男がつかつかと入り込んでくる。  黒い髪に漆黒の瞳。一目でわかる見事な黒の者だった。  神殿の金糸をちりばめた白い服を優雅に着込み、背は高く髪はその色を誇示するように長い。一目で支配者と知れる端正な男はサシャが起きているのを見ると、おやというような表情を浮かべた。  後ろ手で扉を閉め、部屋に入ってくる。 「目が覚めたようだね。気分はどうだい?」  柔らかな問いかけには、気遣う以上の鋭さがある。サシャは身をすくませるようにして、男を見上げた。  サシャは銀の者である。銀色の髪に銀の瞳であり黒の者に比べて力も劣れば敏捷性も鈍い。そもそもの体のつくりが違う上に、この世界の底辺に属する弱き者だった。  普通であれば神殿の神子などにはなれないだろう。  怯えて見上げてくるサシャの様に、男は軽く肩をすくめると少し距離を取るように机の椅子へと腰を下ろした。 「君は今どこにいるかわかっているかい?」  男の問いかけにサシャは訝し気な表情を隠すことなく、彼を見つめ返した。 「ここはどんなどころだい?私はどんな姿に見えている?」 「黒の者…」  男の問いかけにサシャが返した声は、どこか枯れて舌足らずのようだった。男が頷く。 「そうだよ、私は黒の者だ。ここは療養室。君は光酔いをして運び込まれたんだ。神子として集った者に銀の者がいるのも珍しかったが、光酔いは殆どの者が起こさない。君はあまり環境の良くない所にいたんだね」  男の言葉に、サシャは震えて身をすくめた。  確かにサシャは光をあまり浴びることができない地下や坑道などで働き、恵まれた環境にいなかった。  だが、それは銀の者であれば当然ともいえる。  ピラミッドの頂点に立つ黒の者と違い、底辺のサシャは光の届かない所でも働かなくては暮らしていけない階級層の者だった。  本来であればこんな所に、来る事の出来る人間ではないのだ。帰れと言われ追い返されるのだろうか。そうなれば、報酬はもらえずまた闇で生活することになる。  サシャの怯えを感じ取ったのだろう。黒の者はそれ以上何も言わず、ため息をついた。 「当たり前だが、我々は光を浴びなければ生きていけない。君は今まで光をあまり浴びずに生活していたから、いきなり豊潤な栄養をもらって酔っ払ったんだよ。それは解るね」  男の言葉にサシャはおずおずと頷いた。  この世界は光によって成り立つ。  人々は天からの光で、自分の中にエネルギーを作り出し活動の源とする。特にそのエネルギー変換が優れている者たちを黒の者と言った。  多くの光を取り込み、そして自分の力に変え強く生きていく人々。そして、色が黒から薄くなればなるほど、生命体としての力量は落ちていく。  サシャは銀。  光からのエネルギー変換が弱い上に、体も頑健とは言い難い白へと連なる銀の者だった。  髪や瞳の色で人々は相手の力量を理解し、一目で階級を察する。黒と黒の者が交わり、子供が茶の者であれば卑し子と呼ばれるほど、その階級制度は苛烈で直接的だった。  光がなければ生きていけないが、光を浴びてもうまくエネルギーに変換できず、弱い生命体は一目で解る。  言わずとして知れた階級制度はこの世界のすべてだった。  白子と呼ばれる先天性の真っ白な赤子がごくたまに生まれることがあるが、それ子らは生まれてから間もなくして死ぬ定めとなる。  その白に限りなく近い銀は、生命体として出来損ないだと初めからレッテルを張られるようなものだった。  サシャは自分よりも白に近い者を見たことがない。だが、灰色のものや茶色の薄いもの、赤の薄いもの、色の薄い者はやはり存在し社会から疎まれて生きている。  そして彼らは通常よりも苛烈で人が嫌がる仕事につかされるのが、常だった。  サシャは人が嫌がる鉱山の中で、穴を掘り宝石を探したり、光の届かない場所で物資を管理したりすることで生きてきたのだ。  光が当たらない生活を長く続けてきたからこそ、光酔いを起こしたのだろう。  ここまで柔らかい光を浴びたことがなかった。 「君はこの神殿のことをまるで知らないね?」  それは断定的な口調だった。サシャは恐れとともに相手を見つめ、頷けば追い出されるのではないかと怯えた。10日いなくてはいけない。10日。  そうすれば自分は、きっと今までよりは少しまともな生活ができる筈なのだ。サシャはまだ若かったが、自分の体がこのままではもう、冬も越せないほど弱っているのがよくわかっていた。  今までと同じように、地下で仕事をしていては持たないだろう。住むところすらない自分は、この冬を越すことができない。それは直感であり、そしてきっと真実でもあった。  男は困ったように、ため息をつくとサシャの腹を指さした。 「神殿に仕えるものには刻印が施されるのを知っているか?お前の刻印は下腹に刻まれている。みてごらん」  サシャの服は、すっぽりと体を覆うような一枚の布であり、下着も何もつけていなかった。足首まであるだぶついた服はサシャには大きく、痩せこけた体が否応なしに強調されるのだが、それにすら彼は気づいていなかった。  ただ、神殿に入るために渡された服は上等なもので、肌に触れていればゴワゴワとすることもなく羽のように軽くて彼を驚かせ喜ばせたのだ。  そのだぶだぶの服の襟元から、サシャは自分の腹部を見下ろし美しい刺繍のような文様が大きく刻まれているのを見て、おののいた。  それは光のように七色を放ち、そこだけ宝石がはめ込まれたかのように輝きを放っていたのだ。  襟首から顔を出し、サシャは震えながら男を見た。 「な、なにこれっ!」 「お前の刻印だよ。お前が命を失うか、それともこの神殿から出ていくと定められたときに消えるものだ」  サシャは呆然と男を見つめた。ただ身代わりとして10日間だけここにいればいいと聞かされてきた。けれども、自分が身代わりということは人に言ってはいけないと、強く言い含められている。  では自分の代わりにきたものに、これは移ってくれるのだろうか。  こんな印が出るなんて聞いていなかった。 「その印は自分が住む場所も示している。お前は第3神殿の左奥に住みなさい。神子の中でも下層位置だが今のお前に過度な光は毒になるだろう。動けるのならば案内するがどうか?」  問われ、サシャは一も二もなく頷いた。自分がここを追い出される訳ではないと分かったからだ。心の底から、ほっとして男を見つめる。 「動けます。大丈夫です」 「よろしい。私はカヤ。この神殿ですべてを管理する者。なにかあれば私に言いなさい。第三神殿には管理するものが幾人もいるから、何かあったらその者たちに私の名を告げればよい」  ベッドから降り、用意されていた靴を履く。それはなめした皮でよくできていて、サシャの足には気持ちよく履かれるものだった。だが、カヤから見れば痛々しいほど、細い足にぶかぶかの靴が不相応に履かれていた。  それでは早く歩くのもままならない。カヤはあえてゆっくりとした動作で立ち上がると、まだ光酔いの余韻を残しぶかぶかの靴をぶ滑稽に履くサシャに合わせて、極めてゆっくりと歩くことにした。  神殿は全ての区域に豊饒な光をたたえている。廊下も部屋も限りない光の園だった。  光は生きる源であり、光がなければ人々は死に絶えてしまう。その光を信仰としたこの神殿は、まさしくあふれんばかりの光の楽園だった。  どうやったらここまで光が満ちるのかと思われる中を、サシャは進んでいた。時に廊下を渡れば緑が深い庭園があり、草花が生い茂っている。また時にはきらびやかな絵画や装飾が施された巨大なドームを抜けたりもした。  そこで働く者たちは数知れぬほどいるようだったが、誰もがゆったりと道の端に伏せ、カヤに頭を垂れて道を譲る。  警護の兵隊も各神殿に配置されているようだったが、半ば酔ったように辺りを見回すサシャには、それらを観察する余裕はなかった。  随分と長い道程を経てたどり着いた部屋は、光があふれる10畳ほどの部屋だった。二階にあり、窓の外は中庭にある噴水を望める。光が入るように壁一面に四角い小窓が並び、部屋は明るさに満ちていた。  簡素なベッドと机、そして椅子だけが、ひっそりと置かれていた。 「この部屋には風呂もあるから好きな時に好きに使いなさい。水桶はそこに」  部屋の出入り口横には、ちろちろと水が満たされている水桶が壁を掘るようにして置かれている。水は水桶からあふれるとどこから落ちているようだった。  水は時に貴重なものであるのに、こんなに贅沢に置かれていてサシャは呆然と水がめを見つめた。  サシャが返答しないことに慣れてきたのだろう。カヤはまるで気にした風もなく言葉を紡いでいく。 「あなたは少し光を取り込んだほうがいい。しばらくはゆっくりと眠りなさい。何かあれば廊下の右突き当りにいる常駐兵にいいなさい」  サシャは呆然と部屋を見回していたが、やがて頷いた。それを確認するとカヤは扉を閉め出ていく。  残されたサシャはまず、水がめに飛びついた。巨大な水がめはサシャの力では全く持ち上げられず、その縁に彼は口を付けた。すーっと甘い水が口の中を降りていき、驚くほどに体を満たしていく。  喉が渇いていたのだと今更に思い知った。  ごくごくと水がめに顔を入れんばかりに飲み、やがて視線を上げてから柄杓が側にかけられているのを見て恥ずかしくなった。  そのままベッドまで行き、服を脱ぐ。光はサシャの全身を柔らかく包みこんでいった。全裸ですべてをさらすように横たわる。光は柔らかくそれを愛でた。  なんて気持ちいいのだろう。なんて心地よいのか。  痩せた体の真ん中で、キラキラと光を浴びた刻印が輝きを増していたが、サシャは泥のようにゆっくりと眠りに落ちていた。  ひらひらと蝶が飛んでいる。  ひらひらと。  光の中でサシャは森の匂いをかぎ、花の香りに恍惚となった。  蝶がふわりと自分の肩に停まり、はたはたと羽で頬を愛撫する。鱗粉が飛び、その甘い香気にサシャは陶然となった。  次の瞬間、自分の上から金の長い髪が首元に滑り、肩を撫で落ちていくのを感じた。  ずしりと肉が触れ合う。  肌と肌が触れ合い優しく抱き込まれる。ああ、男の体だと夢うつつでサシャは思った。  ああ、きもちがいい。なんて優しい抱擁。  淡く痩せた体をいたわるように全身抱き込まれ、うっとりとサシャは息を吐いた。 「門の外へは出られなかったか」  静かに男は呟くと、サシャの頬を撫で空気に溶けた。その空気は青く青く、シャボン玉のように高く昇っていく。甘い花の香り。深い苔のにおい。森の男。
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