王宮編

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王宮編

 マムフェは茶色の母と、黒に近い茶色の父から生まれた。父親は中産階級の王都に所属する役人の一人で、王宮の物資に関する帳簿を扱う細々とした人物だった。  元々傑出した人物というわけでもないが、こつこつした仕事ぶりは下級役人の中でもそこそこに信頼を得ていた。  家庭は王都の端に一軒家を構え、堅実な生活ぶりだった。貴族とは違うひそやかな生活だったが、コミュニティの中で疎まれることなく同程度の者達と平穏に生活をしていたと言える。  コミュニティとは、500年ほど前に生まれた概念だという。それまで、人は同性に惹かれやすく欲情しやすい性質を持て余していた。  男女でしか子供は生まれないが、同性間に欲情する性質は本質的な淘汰だったのかもしれない。コミュニティがなかった時代、子供の数は減り続け、生殖のために同性間行為は禁忌とさえされていた。  労働力は減り、逆に闘争的性質が推奨され各地で戦乱がもたらされた時代である。夜の時代と呼ばれるその時世は、銀の女王が光をもたらしたことで全く違う世代の扉が開かれた。  闇夜で人の血を求め、剣を振るってきた者達は神殿の兵士に排除され、力で全ては平定された。  それは世界にとってとてつもない変革の一つでしかなかった。  第一の変化は、常に世界を光が照らすようになったことにある。夜が消えたのだ。  今まで夜の闇に震え、血を好んできた者たちの性質を変えるほど、常に光があるというのは劇的な出来事だった。  その変改に乗じ、銀の女王は様々な生活改革を進めていった。当時の人々は世界さえ変えた女王を神のように敬い、そして怯えを抱いてもいた。逆らえば神兵が雨のように押し寄せ、血で地を染め上げ去っていく容赦ない手腕も、彼女の顔だったからだ。  この世を平定したそのゆるぎない政治力は、信仰心として深く根付いた。折しも女王が光の神の子供、二人を産んだと伝わったこともあり、女王の進める生活改革はすべて順当に進んでいった。  神の意志による改革だと。  その一つが前述したコミュニティである。禁忌とされていた同性間性行為を銀の女王はコミュニティを形成することで、解放した。婚姻は男女で結ぶこと。そのかわり、コミュニティ全体での性行為を許可する。  女性には欲情しない男性が、男性には欲情しない女性が、集団での性行為によって子供を得る機会が飛躍的に増大した。新たな時代の到来だった。  コミュニティによって増大した人口は、王政の黄金期を作り上げる礎となった。  銀の女王の時代になって、突如増えだした人口に与えたられたのは教育である。それは今日までの長い歴史を作る重要な要素だった。  その一つとして家系的な配列と地位の明確化がある。上位コミュニティを形成するのは王族や貴族であるが、黒の者は黒の者が作るコミュニティにしか属さない。逆に貴族の家で突然生まれた茶の者はコミュニティを追われるか、他に移されるのが常だった。  ピラミッドの頂点とも言うべき黒の者は、黒の者たちだけが通う学舎に行き、教育を受けその栄光と権力を手にしていく。  言わば、初めから選ばれし人間なのだった。  マムフェは、茶色のコミュニティに生まれた突然変異だった。生れてきた子供を見て、我々のコミュニティに属してはならないと即座に決断は下され、彼は放逐された。  彼が、黒い髪を持つ子供だったからだ。  茶の者たちのコミュニティと黒の者たちのコミュニティに一切の交わりはない。それを前提にしても上位の受け入れ先を探すのは、至難の業だった。  なぜなら、彼の血統は、茶の者から生まれた突然変異だからだ。彼の子供は黒の者と交わろうとも、茶の者が生まれる確率がある。結果血筋としても、彼を喜んで受け入れる黒のコミュニティがない。  逆に貴族から生まれた茶の者などは、歓待して受け入れられる。高貴な黒の血筋だからだ。そこで、黒の子供が生まれるようであれば、元の家柄に属する黒のコミュニティへと引き取られる。  そういった一筋の繋がりすら持たない、マムフェは突然変異だった。  見つかるはずのないほそぼそとしたコミュニティ探しは、行われていないようなものだったが、そこで終わった。  結局親元で育てられるが、コミュニティそのものに入れる事はできない子供となった。それは一つの輪から外れた子羊のように、よりどころを持たない生き物になれといわれるに等しい。例え特別に選ばれた生き物だから、お前はここにいてはいけないと言われるに至ったとしても、幼いマムフェにとって寂しさと悲しさは深く身に刻まれることとなった。  子供たちはコミュニティの中で、大人たちに分け隔てなく育てられる。赤ん坊の時分から仲間として迎え入れられ、愛され、教育される環境の中、マムフェは家の中でただ一人、外を見つめるだけの子供だった。  マムフェが幼少期に強く残している記憶は、家の窓から眺めた外の景色だった。  窓の外に広がる少しばかり広い草原で、子供も大人もボールを手に取って遊んでいる。大人たちも子供たちも性に開放的で、体が触れ合えば愛情深い仕草で相手を抱きしめたり、時には口づけし戯れていた。  幼さゆえに、何度か窓ガラス越しに声を上げて泣いたことがある。けれども、誰一人として振り返ることもなければ、マムフェを構いに来る者もいなかった。  そのうち、透明な箱に入れられたような気持ちで、マムフェは外を眺めるようになった。  笑い声が窓ガラスを通じて、響いてくるのを、ただ、じっと聞いている。光のあふれる部屋でただ一人隔離され、読めない本だけを頼りに生きている。  窓の外では時に、父や母がコミュニティの者たちと愛情深く戯れ、草原で思い思いの時間を過ごしていた。  そこにマムフェの入り込める隙間は、一分たりともなかった。  彼らは幼いマムフェが窓際にいることも全く頓着せず、無視を貫いていた。それは徹底した区別であり、社会を構成している階層の深い隔てだった。幼い子供の寂しさや、悲しさよりもコミュニティに異分子を入れないことこそが、明日を生きていく必要な糧だったのだ。  これが王都ではなく、辺境の田舎であればかなり話は違ってくる。人の数が少ないため、様々な階層の者たちが入り乱れてコミュニティが形成されているからだ。そこで彼は、貴族のように優遇され受け入れられただろう。  しかし、王都は違う。黒い者たちの威光が強く、その信仰も深いだけにマムフェは完全にはじかれ異端とされた。  黒の者たちが7歳から通う学舎に入れられたとき、マムフェはわずかな文字しか読めず、話せる言葉も少ない有様だった。通常行われている会話さえもない、ただ部屋に一人でいるだけの日々に、勉学の要素など一つもなかったのだ。  マムフェの様子に驚いた教師たちは、その出自を聞いて納得し、そして憐れんだ。憐れんで、個人としては特に何もしなかった。  コミュニティの大切さを教えることもなければ、コミュニティに入れるための努力に着手したわけでもない。私生活において、マムフェを受け入れる者は誰もいなかった。  ただし、後に彼らが本分として、マムフェを学舎に引き取ることにしたのは、憐みの最大限だったのかもしれない。  学舎に通うことになり、部屋から自由に出られるようになったマムフェは、自由を得たようでいても部屋に閉じこもることが常だった。家に対する目的意識や、好奇心はもう既に萎えている。彼らは血族とは言えども、家族に対して無感動で、無関心に向かい合っていた。  この年、マムフェには弟が生まれていた。家には赤ん坊の声が時折響き、そして母親と父親はコミュニティの者たちと共に、茶色の赤ん坊をこよなく愛した。  この時、マムフェは驚きの光景を見ることとなった。弟に授乳をする母親の姿を、初めて見たのである。  眠りから覚め、喉が渇いて水を汲みに行った彼は、暖炉の前でくつろぎながら胸をはだけ乳を含ませている母を、偶然に見た。  母親は、何にも満ち足りた表情で胸を吸うわが子を眺め、暖炉の炎が柔らかくその頬を照らしている。弟は、無心に乳を吸っていた。父親は少し遠いところから、やっと得た我が子を眺めるように、柔らかい面持ちでその光景を座って眺めていた。  マムフェにとって、それは知識で得られる隔てよりも、実感として降り注いだ大きな壁の体現だった。  乳が飲める。  それは、忌餌を欲する生命体の証拠だった。自分とは違う生物だという象徴だ。  マムフェは水を欲することはあるが、例え水分であっても不純物が多く含まれるものは体が受け付けず、本能的に飲料として適さないことを理解して忌避する。  乳など、受け入れないのだ。  黒の者は水分を必要とするが、忌餌を受け入れられない。  だが、茶色のものである弟は、乳を必要とし、また飲むこともできるのだ。  団欒として、あのような形があるのだ。  それは衝撃の事実だった。  同じ母の腹から生まれてきた自分と、弟の決定的な差は、同じ父母を持つことさえも怪しい感覚をマムフェにもたらした。初めて彼が実感した隔てだったともいえる。窓ガラス越しに無視される現実よりも、それは如実に降ってわいた事実だった。  生き物として、全く違うのだ。階級ではない。カテゴリーが違う。マムフェは決して乳を飲むことなどできないが、弟は違うのだ。そして、茶の者は忌餌を必要とする自分とは違う生命体なのだ。  雷に打たれたような衝撃が、マムフェを襲い、事実が嵐のように彼の中を吹き荒れた。  彼らと、自分がどれほど遠い生き物なのか。  同じ父母から生まれようとも、生きる道がまるで違うのだ。  マムフェが現実を認識した頃と同じくして、学舎は彼を両親から引き取る旨を父母のコミュニティに通告した。  当たり前のことであるが、それは喜びとして双方ともに受け入れられたのである。もう二度と会えないとしても、父母は嬉々としてマムフェを手放した。マムフェは家を出ていき、二度と茶の両親を振り返らなかった。  それは深い階層と現実の隔てだった。赤ん坊が泣き叫ぼうとも、決してそれを見ようともしない階層の壁と、忌餌を必要とする者と、忌餌を全く受け入れない者の現実。  相容れない高くも深い溝がそこにあった。  学舎は王宮と隣接している。マムフェが住むことになったそこは、廟と呼ばれる公文書課の管理する巨大な建物を含め、舎人も生活できる広大な敷地の中だった。黒の者たちがほとんどを占めるが、兵隊をはじめとして雑用で様々な色の者達も多く顔を出す。  重厚で、ふんだんに光を取り入れるため多くのガラスと、中庭が配された建物には独特の空気が満ちていた。住んでいた庶民の家とはまるでちがう。  その中でも、廟はガラスが一枚も使われていない、石造りの巨大な墓のような建物だった。中を窺い知ることも許されず、重厚な鉄づくりの扉が堅牢な岩屋のように立ちふさがる。そこに出入りする者もいなければ、用があるものなど門兵のみだろう。  周囲は不思議と緑が茂らず、水も乾き、動物の気配どころか虫すらいない。そこを避けるように円形状に森が抜けて周囲を埋めている、人の気配もない場所だった。  三人の門番だけが、妙な距離を開けて配置され、時折乾いた土を彼らが踏む音がするほかは、静かな場所だった。  周囲を埋めている森は、やや変形した立木と、端には小さく育った雑草が生い茂り、やがてそこから離れるに従って、通常の森となっていく。  その近くに、ぽつんと湧き出た水が泉となっている場所があった。不思議と石づくりの淵が設けてあり、小川がちろちろと石の溝を流れていく。溝の底石は不思議な色の石が敷かれており、陽光の中七色の光を返していた。  泉のほとりには、大きな石が二つばかり置かれており、マムフェはそこに座っては静かな時間を過ごすのが好きだった。  学舎からある程度は離れているが、廟に近いため誰もが避けて通る場所に、こんな泉があるのを見つけた時から、マムフェのお気に入りの場所となった。  泉から光がきらきらと照り返し、森の木々が天高く手を伸ばし、風が涼やかに通り過ぎていくそこで、一人眠りにつく。  誰も来ない。  誰も呼びに来ない。  誰もマムフェを心配しないからだ。  誰も自分を見ない。  学舎に入った黒の子供たちは、自分の愛する同性と、パートナーとなる女性を探す。黒の者たちのコミュニティは何十かあり、それぞれに独立しつつも共生していた。コミュニティの中だけではなく、このような学舎などで交流することによって内部は循環され、交流が生まれる。  将来どこのコミュニティに属するのか、このまま残るのか、学舎で決まると言ってもよかった。7歳から15歳まで学舎で過ごし、それぞれに決めたコミュニティに属していく。パートナーたちは同一コミュニティに属するのが通常であり、彼らは一生涯を共にすることになる。本来ならば、マムフェもその中に乗れているはずだった。  そうならなかったのは、彼がまともに言葉を喋る事ができなかったからだ。  文字すらも、まともに読めない子供は、学舎にどこにも存在しなかった。それが一層マムフェの孤独を深めることとなった。  7歳のマムフェは、ただひっそりと教室の片隅にいるだけの存在となった。8刻を過ぎたころ、学舎の一室に与えられた住まいから自由を満喫するように歩くようになり、見つけたこの場所は彼にとって素晴らしい憩いの場所でもあったのだ。  二つある石の上にうまく寝転がる。  川のせせらぎと、頭上を過ぎていく鳥の声。時折かすめていく風が気持ちよく、木漏れ日がマムフェをちらちらと照らす。  ほっ、と息をつく。口から出た何かが煙になって、空へと昇っていき体が身軽になる。  どこにも自分の居場所がない。  どこにも帰る場所がない。  何かに追われるように、大切なものも見つけられない。自分の目は何も見ないし、自分の手は何も掴まないのではないか。  子供心にも、先の見えない不安がよどんで日常に降ってくる。それが、マムフェをさらに喋れない生き物へ変えていた。 「きれい…」  空を見上げて、緑の色にそっと目を閉じる。自分を解き放ってくれるようにと。  違和感は、変な風だった。生暖かく、どこか濡れたような風が顔に降りかかりびくりと体が揺れた。  目の前に見えたのは、巨大な見たこともない生物だった。 「ギャッ」  思わず悲鳴が出たところで、遠いところから声が降ってくる。 「え?ごめん。まさか人がいた?!」  どこか焦るような声と共に、巨大な生物が顔の上から退く。恐怖におびえて声もなく、体も動かすことができなくなったマムフェの前に立ったのは、一人の青年だった。  マムフェに手を差し伸べ、柔らかなほほえみを見せる。 「私の馬が失礼をして、ごめんよ。まさか舐められた?」  花が咲くように陽気で、それでいながら思いやりのある声だった。マムフェは差し伸べられた手に、無意識で指先を乗せキュッと握りこまれると狼狽した。  真っ赤になって狼狽えるマムフェに、青年が一瞬目を見開き、それから笑う。 「ここは廟の近くだから、普段は誰もいなくて下を見ていなかった。驚かせて悪かったね。君は今年から学舎に通うことになった子供かい?」  ぐっと手を引かれ、寝ていた体が起こされる。同時に青年はかがみこみ、マムフェと視線を合わせていた。 「あ…ぅ…、あ、」  マムフェが、ぱくぱくと口を動かし言葉にならない声を発しているのを見て、落ち着かせるように微笑む。はじめからよく笑う人だった。  ふんふんと、また鼻息荒くマムフェに顔を近づけてきたのは、葦毛の馬だった。まだらな青鹿毛が首筋から腹にかけてきれいな模様を描いている。よく手入れされた上質な馬だったが、マムフェにとっては初めて見る存在だった。 「おおき…い」  たどたどしく、馬を見上げて感想を漏らす。遠いところから見たことはあったものの、こんなに近くで見たことなど一度もなかった。  マムフェの素直な様子に、青年は馬の鼻づらを撫でた。 「好奇心が旺盛なんだ。穏やかな子なんだけど、あまり物おじしなくてさ」 「ものお…?」 「ああ、怖がらないんだ。色々なものを見たがるんだよ。君のことも気になって、あいさつしたいってさ」  マムフェは馬を見上げて触れようとしたところで、まだ手を握られたままだったことに気づいた。暖かいぬくもりが指先を通して、ずっと繋がっている。  それは初めての触れ合いだった。  きゅっと握りこまれて、赤くなり、どうして良いか解らず視線を伏せる。  耳まで赤くなっているマムフェを、自然にほころんでくる笑みを抑えきれないまま見つめて、青年は声をかけた。 「ここの泉は、魂の泉と呼ばれているんだよ。知っていた?」  問いかけに、声がうまく出ないまま、マムフェは否と首を振る。握られた指先が汗ばんで、緊張しているのに伝わってくる穏やかさが、とてつもなく心地が良い。 「魂のかけらが降り積もって、この泉の底には七色の石が沢山落ちているそうだよ。あそこの石みたいな」  小川の底に見える石を指示して、青年がマムフェを正面から見つめる。その瞳に絡めとられたように、マムフェは視線が離せなくなった。  青年もじっと自分を見つめ、そっと何か耐え切れなくなったように身を寄せてくる。お互いの吐息が鼻先に触れるか、触れないか。  もっと近くへ。 「ブブン!」  二人の間に割って入ったのは葦毛の馬だった。  ぱっと青年が手を放し、マムフェは夢から覚めたように呆然とした。さっと身軽に青年は立ち上がると、馬をいなす様に撫でる。  風は二人の間をすり抜け、葉をそよがせた。  マムフェは呆然と、ただ、青年を見つめた。初めての触れ合いから始まり、こんなに声をかけられたことを初めてながら、何かに絡め捕られそうになったのも、初めてだった。  一瞬遠くを青年は眺めてから、身軽な動作で馬へと青年が乗る。手綱を手に取り、馬を落ち着かせると、熱を孕んだ視線でマムフェを見つめた。 「また会いたい。次の中の日、9刻にまたここで会いたい」  マムフェは、飲まれたように頷いていた。中の日とは、4日、11日、18日、25日を示す。青年は頷くと馬を巡らせ去っていった。  小川がちろちろと、静かにせせらいでいる。光は変わらず、やわらかく泉とマムフェに降り注いでいた。  まるで全ては夢だというように。  穏やかな風の中、マムフェは震える手で暖かさを感じた手を、そっと握りしめていた。
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