これカノン

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昔やっぱり誰か、父の友人か何かから貰って、その時には大きすぎて使えなくて、仕舞っておいた、忘れていたハサミだ。 メモ用紙を切ってみると、とてもよく切れる。なぜかそのまま、先週父から何か勉強や調べものに使いなさいと貰った大学ノートのページを次々に切ってゆく。 振り返って、自室に備え付けのクロゼットの下部引き出しに手をかけ、中から黒と白のストライプ地シルクにレースのたっぷり付いたブラウスを出して、切ろうとするが、切れない。布はだめなのか、何度も切ろうとする。クロゼットの左隣の本棚の、一番下に仕舞ってあったソーイングセットの箱から、ペパーミントグリーンの持ち手の裁ちバサミを出す。 母が、勝手にデパートで買い、いい趣味だからあなたはこういうのを着ればいいと云って渡してきたブラウスの、身ごろを下から切っていく。 次に袖を切ろうとするが、手は汗ですべり、袖の布がしっかりと二枚仕立てなのであり、うまく切ることが出来ない。 それでも切ろうとして、ハサミのどこかに手の肉をはさんでしまった。それでもわたしの右手は開いて閉じての動きをやめない。 繰り返していると、はさんだ所から、肉の痛みがじわりじわり周辺へも広がってゆくのがわかり、そのことへの興奮も伴ってますますハサミを動かしていると、ついに袖口の一部が切れた。 一気に切って袖を上がろうとする。思うように進まない。右手の痛みが増して、一瞬、もうやめようかと思う。しかしやめない。 何度か深く呼吸をしてから、じゃきりじゃきと切っていく。 数分後、母のブラウスは、三十か四十の、布のごみになった。両手ですくうと、糸屑が舞ったのか、むせて、母が後でチェックする可能性のあるごみ箱に、三度往復して捨てた。 あの人はきっと何も云わないだろうし、父にも話さないだろうと、なぜか判る。 わたしの通う学校では、校則でピアスは禁止されているが、ピアスホールをあけて休みの日にだけアクセサリーをつけている女の子は、学年に一人か二人居て、自由な校風とうたっているからなのか、とくに叱られているという話もない。 ブラウスを切って捨てた、妙な興奮の残りのある内にやらなければいういう気になり、翌日の夕方前駆け込みで、近所の、かかりつけ医のおじいさんのやっている内科へ、自転車をこいで行き、両耳たぶに一つずつピアスをあけてもらい、何の注意もされず、痛みもなく、塗り薬を渡された会計窓口の、灰色の人形に見えるおばさんに七千円払う。 ヘアスタイルも校則上自由なので、少し前にまた切った、かなしい程守りに入ったセミロングのストレートヘアをおろして耳を隠すようにスタイリングすれば目立たないと思い、何も起きていないという雰囲気を作って、それを着ながら登校すると、案の定、誰も気付かないようだった。 最近の女の子たちは、次々と、友達と呼んでいた女の子に興味をなくしつつあり、母親とのケンカや、将来の不安や、生理痛やらの誰かにとにかく救済して欲しいこと、レンアイやセックスへの好奇心が日に日に大きくなっているのがはっきりと見える。彼女たちは見えていないように見え、それがまたわたしを不安にさせる。 わたしは一生誰ともレンアイもしないしセックスもしないと決めているので、考えようによっては、その分楽をしているとも思う。 それにしても、わたしの様子が変わったことに、サナちゃんが気付かないのには驚いた。 そうだ、何かの潮時なのだろう、前からうすうす思っていたような。 遠くの黒板を見るが、近視が悪化してきていて、字は、はっきりと見えない。彼女たちの不安の有り方や互いに絆を感じられなくなってきて淋しい感じの方がはっきりと見える。 黒板には、テニスがうまいことを自慢するのをやめられない英語教員の、多分いつもの、不必要な筆記体の字があるのだろう、だらだらと白い、もやのように横に横に高圧的に流れる。 わたしは耳がいいので、イギリス風にわざとロをルに近く発音されても聞き取れて、音からの情報でノートをとる。 サナちゃんは一日の内数度、わたしの前に来たけれど、笑いながら男性俳優の話をして、友達になってから初めて、わたしのヘアスタイルが変わったことに言及しなかった。こうして変わってゆく。 ショックを受ける自分をバカだと思いながら、気がつくと放課後で、夕日がいつもの角度で左から右に入って来ていて、教室には、わたしの他は二三人しか居なくなっていた。 サナちゃんは委員会に行ったはずだが、なぜかその辺りをよく覚えていない。お腹の上の辺りが痛いとまた思い、急に泣きそうになる。 ペンケースとノートを仕舞う手元に集中しようとして、視線をやる。右手の中指と薬指が、上下に震えていた。 「お前さ」 顔を上げると真壁くんが前の席の関根くんの椅子に座って、窓の外の夕日を見るふりの体勢になっていた。 「ああうん」 「どうしたの、それ」 他に誰か、一人まだ居るけれど、そういうことを気にしない真壁くんは、左手を伸ばして、わたしの右の耳たぶにかるく触れた。 誰か見ているから、面倒になりそうなやっかみを買うことはやめて欲しいと思うのだが、云えない。 こちらを見ないで目を伏せたまま、長い睫毛のアピール気に耳たぶをかるくつまんだまま「これ」と云う。 わたしは、こういう彼の、たまに出るアピールが苦手で、どうしていいか判らないし、どこか白ける感じも覚える。すきな人のそういう所をどう対処すればいいのか思いつかない。 「何でこんなことすんの」 「離して」 いつものように、わたしが嫌がればすぐにやめてくれる。小さな時からずっとそうなのだ。 拗ねたそぶりで体勢を直して、窓の方を向く。 直毛の、黒く短くそろえた耳回りの髪、少しピンク色を帯びた色白体質の左耳、うすく赤い唇は力は入っていなくて、あくまでナチュラルに閉じられている。制服の左脚が数回貧乏揺すりする。 「どうしたの」 「わからないの」 ああ結局こんな云い方して、彼に甘えているんだ情けない。 「何がよ」 「わかんなくて。ごめん」 「あやまんなよ」 「うん」 真壁くんは少し笑った。彼の向こうにある時、黒板は文化的な深みと美しさを持って見える。 「お前、お前が思ってるより謝りすぎだから」 「うそ」 「うそじゃねえよ」 「そう」 「うん」 光が、夕方の甘さより一秒ごとに鋭い夜へ向かって空気のなかで微調整している。 いつまでも彼に甘えてはいけない、少なくとも数年の内に精神的にしっかりと自立しなくってはいけない。日本の社会保障制度はとんでもなく脆弱で当てにならないのだから。お父さんの云うことでほぼ唯一理解できるのは、日本はまだ先進国らしくないということだ。 「耳さわられんの、やなのかよ」自分の手を見ながら彼は云う。 「うん」わたしはそれをじっと見ている。 「なんで」 「なんか」 「うん」 「気持ち悪い」 「なら別にさわんねえけどよ」 ショックを受けたのか、いつもより言葉の返しが速かった。相変わらず顔には出ていない。 このタイミングで泣いたらドラマや漫画なんだろうと思うが、ドラマや漫画ではない。真壁くんもヒーローではないし、たぶんヒーローはわたし自身しか居ないと、どこかで知っている。他の子達は知らないのかは知りたくない。 自分を、自分だけ変だと思いながら生きるのは、中年にでもなってなければ辛すぎる日々だと思うから、なるべく避けたい。 毎日たくさんの中年以降の大人が、男女を問わず、若者の真剣な言動をへらへら扱ってるのを見ていると、ある程度のボリュームの彼等は神経が摩耗して夕日を見ても感動しないという迫力を出している自覚もないと見える。 いつかわたしを助けるのは、わたしなんだろう。それは、少し淋しいかもしれないけど、他の子達が騒いで云うほど絶望的なことではないのだろうと、そして、それはわたしのナルシシズムとも関係しているんだろうと、頭のどこかで信号として走っている電気がある。 今はそれをしっかりと掴んで研磨しようとは思わない。 あまりにも荷が重いし、なんだか、疲れている。 「真壁くん」 「おう」 「わたしに、きもちわるいってはっきり云われて、いやではない」 彼は、一秒眉間にしわを薄く一本入れて、四五秒床を見ながら考えて、口を開いた。 「それはお前のことだから」 「どういう意味」 気がつくと、指の震えはおさまっていた。 「俺は俺のことしか、どうにか出来ねえだろ」 「と云うと」 「わかんねえけど」 「うん」 一度唇を咬む。 「それはお前の人生なんじゃん、おめーが、ガンとかなっても、ならねえと思うけど、代わってやれねえし、なんかそういう」 「うん、わたしもそう思う。代わってあげられない」 心の中に感動がまた、いつもこの人と居る時になるように、あたたかく色っぽく広がる。自分は今いとおしそうな目をしているんだろう。 「だから、しょうがねえんだろ」云いながら、左利きの足の上履きで、床を軽く二回蹴りつけた。 「いつも率直で、申し訳ない」 「だからあやまんなって」 「床、蹴ってるじゃん」 「ごめん」ここで笑った。 そしてめずらしくしっかりこちらに向き、目を強く見てきたので、キスされるのかと思ったが、三四秒正面からわたしの顔全体に目の力を広げて見て、やや意地悪気のある顔になってから、左手を再び伸ばして、わざとわたしが拒めるようゆっくりと耳に向けて近づけてきたので、 「いやまじでやめましょうよほんと」 嫌悪感とうれしさの半々の感情で、彼の手を押し戻す。真壁くんの手は熱い。 なんでこんなに彼の手は熱いんだろう、わたしと同じく色白なのに。 光は教室の中でなくなって行く。今日で人生が終わってくれたらどんなにいいかと思うが、これから終わらない日々が何十年もある確率が高い。真壁くんに確率論は通じない。 わたしたちはどうなるかは知らないけどどうにかは成って、今日のことも、きちんと思い出せることはなくなって行くのだろう。 どうしても成長するし、記憶は、薄まったり改竄されるから。今日のわたしは今日しか居ない。 いつか違う人と居るように成っても、彼に健康でしあわせでいて欲しい。自分に対してはそう思えないのに、他者には出来るのは不思議だ。 わたしのブラジャーを彼が見ることはない。フランス製の、レースのついたベージュの、Aカップ。もうすぐBカップにしないといけないらしいのがとても嫌だけど、基本的に何でも話して来た真壁くんに云うつもりはない。 いつか男の人に見せるのか判らないし、ただ、どうしようもない今日と明日が一週間後と一年後になる。 でも、真壁くんやサナちゃんが、もしわたしの変なこだわりやルール違反のピアスを忘れても、わたしはこの人たちをずっと忘れないだろうと思う。お母さんがいつも云う「あんたは何でも覚えてて嫌ね」。 真壁くんとわたしだけ居る教室の五十メートル先で、誰か男子が、わいせつなワードを叫んだ。 二人とも何も云わない。今日の光がおわって行く。 「気持ち悪いときはよ」 口を開いた彼の方を見たが、むこうはこちらを見ていなくて、自分の右手を見て、窓の外へ視線を移して、 「気持ち悪いって、云えよ。これからも。別に云っていいんだからよ、ふつうに」 小声までいかない中声だった。 「はっ」 何でかわたしは笑った。お父さんもお母さんも、そんなこと云ってくれないのに、この人が云う。 横顔を改めて見ても、暗くなってきてよく見えない。 誰かが廊下を走って行く。わたしはこの音がなんかすきだ。別の誰かがそれを追いかけている。足音なのに、楽しいのか辛いのか判るのは面白い。 校庭から、男子が誰かのあだ名を呼んでいる。声が校舎と校庭の間にいっぱいに広がってをゆっくり繰り返す。 制服のナイロンの布地、一億の価値のある手。もうほとんど何も見えなくなる。そういう感じだ。
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