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雨上がり 前編・水面に映るもの
「谷崎、雨止んだぞ」
声を掛けられ、谷崎蒼はカメラのレンズを磨く手を止めた。窓から空を見上げる。
暗い雲は撤退を始め、空が明るくなっている。雨粒を重そうに乗せた若葉が、日光を今か今かと心待ちにしているように見えた。
校門近くにある桜の木はどうだろうと目をやると、花びらがすべて落ちてしまっている。
もともと葉桜だったからな。けど、満開だったころの写真は撮ってある。桜といえば、あそこの……
谷崎の思考は、体育館裏の桜にたどり着いた。あの桜は開花時期が一番遅く、先日見に行ったときは三分咲きくらいだった。
あの桜も、もう散ってしまっただろうか。
そう思うと、居ても立ってもいられない。
谷崎は手入れをしていたカメラをケースにしまい、そのままストラップを肩にかけて、向かいに座っていた加藤に声をかけた。
「ちょっと、撮ってくる」
写真雑誌をめくっていた加藤は、苦笑を返してきた。
「止んだ早々、張り切ってんなあ。もしかして原田さんを撮りに行くのかな? ん?」
「違う」
反論は短く鋭く終わらせた。加藤のからかい口調はいつもながら腹立たしい。なんなら存在自体が腹立たしい。
「怖っ! そんなに睨まなくてもいいじゃんかよー。彼女の名前出すと、本当いつも怖いなあ、谷崎」
それはお前が、俺と真純のことを冗談の種にするからだろう、と怒鳴りたかったが、加藤のためにそんな労力を使うのは馬鹿げている気がしてきた。
もう取り合わないでおこうと、黙って部室のドアを開く。
ドアを閉めるとき、ちらりと加藤の姿が見えた。彼は無視されたことを気にしていないようで、手をひらひらと振っていた。
悪い奴じゃないんだけどな、と思いつつ、谷崎は溜め息をついた。
妹を亡くしたばかりの頃も、加藤は今と変わらない態度で接してきて、それは確かに、有り難かった気はするが。
真純は「蒼くんの話、色々聞かせてもらっちゃった。加藤くんはいい人だよね」などと言っていた。
妙なことを吹き込まれたのではないかと怪しんだが、嬉しそうにしている彼女には聞けなかった。知らないほうがいいこともある。
体育館の脇をすり抜け、目的地に向かう。角を曲がる前から、淡いピンク色の花弁をまとった枝が見えた。
どうやら開き始めたばかりの花びらは、雨に負けなかったようだ。
安心し、桜の姿をどこから撮ろうかと考え始めたそのとき、谷崎は先客がいることに気づいた。
小柄で線の細い女子生徒がこちらに背を向け、桜の木を見上げている。
「真純」
口の中で小さく呟く。後ろ姿でも、一瞬でわかった。
原田真純。谷崎のクラスメイトであり、そして……この言葉は未だに気恥ずかしいが、彼女、である。
今日は写真部に出るからと教室で別れたのだが、まだ下校していなかったようだ。
すぐに声を掛けても良かったのだが、何となく見守ってしまう。
谷崎と同じように気にしていたのだろう、真純は桜の木を熱心に見つめていた。首を傾げたり体を左右に動かしたりしながら観察している。
その姿が妙に無邪気に見えて、谷崎の口元が緩んだ。
無意識にカメラを構えようと手が動く。すると、
「蒼くん?」
ふいに真純が振り向いた。
彼女は一瞬目を見開いたあと、カメラのシャッターボタンに指が掛かっていることを見とがめたのか、谷崎を小さく睨む。
撮る前に気配を察知されてしまった。これまで散々、本人の許可なく撮影をしていたせいだろうか。
その怒った顔も撮りたい、これまで撮りためてきた真純の表情集に加えたいと言ったら、彼女の機嫌をさらに損ねそうなのでやめておく。
しかしやめておくのは許可を得ることだけで、行動は止められなかった。私欲には勝てない。頬を膨らませている真純と背後の桜の木をファインダーにおさめ、シャッターを切った。
「ああっ、どうして撮るの? 私、今『撮っちゃだめだよ』って顔してたでしょ?」
慌てて両手を振り回しつつ抗議をしてくる真純を面白いなと思いつつしばらく眺め、気が済んだ後に谷崎は頷いた。
「してたな。撮らずにいられなかった」
「もう、だからー」
居直る谷崎に、真純は脱力して突っ込む。それがおかしくて、谷崎の口から笑い声が漏れた。
いつも通りのやり取りだった。谷崎にとっては活力の源とも言える、真純との時間。偶然会えてよかったと思った。
ただ、「原田さんを撮りに」と言っていた加藤の言葉通りになってしまったことは、少々面白くないな、とも思った。
「随分熱心に見てたな」
しばらくして落ち着いたころ谷崎が訊くと、真純は小さく頷き、頬を緩ませた。
「去年、蒼くんと一緒にこの桜を見たなあって、色々思い出しながらね、見てたんだ」
一年前。真純と連れ立ってここに来たことを、確かに覚えている。状況は同じでも、目に映る景色もそれを受け取る自分の心も、今とは全く違っていた。
風景を眺めるのは好きだったが、写真のことを思い起こすのが嫌で、あまり周りを見ないように歩いた。近寄ってくれる人に、棘のある言葉ばかり吐き出していた。そんな自分が厭わしくて、人を遠ざけるようになった。
我ながら面倒くさい性格だ、と谷崎は自嘲するように口の端を歪めた。
真純が真っ直ぐに自分に向かってきてくれなかったら、今もあの頃のままだったのだろうか。
正直、一年前の自分の言動を、くしゃくしゃに丸めて捨ててしまいたい時がある。だが、真純は……
「蒼くんが写真と一緒にくれた花びらね、まだ持ってるんだよ。栞にして、いつも使ってるの」
柔らかい笑顔で、当時のことを思い出してくれる。
その柔らかさを自分の中に染み込ませるように、谷崎は何度も瞬きをした。
心の内には真純に対する感謝の気持ちがあったが、実際に口から出たのは、からかいの言葉だった。
「まだ食べてなかったのか」
「食べませんー……あっ、今年の桜の花でまた、栞を作ろうかなあ」
「出来たら見せてくれ」
「うん!」
ゆったりと会話をしているうち、去年と今年で桜の木は変わったかどうか、という話になった。
成木の成長はわかりにくいが、よく見ると、枝振りが立派になったような気がする。よく見ると、体育館に触れようとしているかのように伸びている枝は、目的までの距離を縮めている。
「来年はどうなってるんだろうな」
何とはなしに谷崎が言ったことで何かを思い起こしたのか、真純は「来年かあ……」と、溜め息のような声で言った。
少し引っかかりを感じ、真純の様子を窺う。体調が悪くなったのかと心配になったが、彼女の動作は軽やかで、疲れているようには見えなかった。
そのとき、真純の足元に、大きな水溜まりが出来ていることに気づいた。
あと数歩でそこに踏み込んでしまいそうなのに、桜を見上げながら歩いている彼女は全く気づいていないようだ。
声を掛けるより早く、腕を取って止める。
突然腕を掴まれ驚いたのか、言葉にならない声を発していた真純だが、足元を指さして見せると、気の抜けた笑顔になった。
「ありがとう、蒼くん。全然気づかなかったよ」
「……悪い、腕、痛くなかったか」
少し力を入れすぎたかと、谷崎は手を離しながら小声で謝った。
真純の腕は折れそうに細い。二の腕も片手で簡単に握りしめてしまえるほどだ。自分の体とは強度が違うのではないかと不安になり、力加減にいつも悩んでしまう。
「痛くないよ、大丈夫。止めてくれなかったら、泥だらけになっちゃうところだもんね。助かっちゃった」
混じり気のない笑顔を浮かべる真純に、谷崎はこっそりと胸を撫で下ろした。
それから、二人で何とはなしに水溜まりを眺める。真純が足を踏み入れることなく済んだ水面は静かで、鏡のように景色を映し出していた。
見る位置によっては、桜の木も映り込みそうだ。谷崎はカメラのレンズキャップを外し、ファインダーを覗きこんだ。
谷崎が突然撮影を始めても、真純は慣れたもので、谷崎の手元や周りの風景を眺めて過ごしている。時折水溜まりに映る真純は軽く伸びをしていて、リラックスしているようだった。
桜を撮ろうと思っていたカメラが、自然と水面に映った真純に向く。
桜の木を見ているであろう真純は、小さく笑みを浮かべていたが、ふっと眉を下げ、頼りなさげな表情になった。
先程も思ったが、悩み事があるのだろうか。
水面に映る、不安げな真純の表情。話を聞いてみようかと、谷崎はカメラを下ろしかける。
だが、その手が止まった。
水溜まりは先程と違う表情を見せている。あるものが、真純の姿を彩っていた。
その風景を見た谷崎は、素早くカメラを構え直し、何度かシャッターを切った。
「蒼くん、何か嬉しそう」
撮影する間、ほったらかしにしていたことを詫びに行くと、真純からはそんな言葉が返ってきた。
「……そうか?」
「うん。いい写真が撮れたーって顔してる」
「いいかどうかはわからないけど、ちょっと、面白いのが撮れた。焼き付け出来たら真純にも見せる」
「楽しみだなあ」
出来上がった写真が、真純を笑顔にしてくれるものであればいい。そして写真以外に今、彼女の為に出来ることがあるかもしれない。谷崎はそう思いつつ、口を開いた。
「真純、何かあったか」
話の流れは全く無視して、気になっていたこと、そのものを訊ねてみる。
「えっ、何かって?」
「悩んでるみたいだったから」
谷崎の言葉に、真純は大きく目を瞠った後、恥ずかしそうな笑顔になった。
「うん、えっと、あの……ありがとう」
「……は?」
思わず怪訝そうな声が出た。何故悩み事の有無を訊ねただけで礼を言われるのか、返答の意味が良く分からない。
真純も言葉が足りないと感じたのか、慌てて補足説明を始めた。
「ええとね、私が何も言ってないのに、そうやって蒼くんが気づいてくれて、気にかけてくれたのが……すごく、嬉しかったの」
「……そうか」
相変わらず、彼女は真っ直ぐな気持ちを見せてくれる。言葉でも、表情でも。
谷崎にとってはもちろん嬉しいことだったが、その感情には照れくささと恥ずかしさがもれなく付いてきて、大いに心をかき乱される。
顔のみならず首筋まで赤くし、目を潤ませた真純の姿を見ているだけで、平常心など溶けてなくなりそうだった。色づいた頬に不用意に触れそうになるのを、谷崎は懸命にこらえた。
「でも、大したことじゃないんだよ。悩みっていうよりは、考え事っていうか……。せっかくだから、蒼くんに聞いてもらおうかなあ」
谷崎の内心の葛藤など知る気配もなく、真純はのんびりした口調で言った。深刻な悩みではないらしい。とりあえず安心する。
「ああ、聞かせてもらう」
谷崎は頷き、教室に移動しようと真純を誘った。
もう長い時間立ち話をしている。真純を早く座らせてやりたかった。今は体調に問題がないようだが、休憩を早めに取ることが肝要だと、これまでの経験でわかっている。
腰を落ち着けたら、話をたっぷり聞かせてもらおう。
真純のどんな表情でも全て、静かに受け止めていた、あの水面のように。
自分も、彼女が不安なときは受け止められるようになりたい。
隣を歩く真純を見ながら、谷崎はそんなことを思っていた。
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